外伝 ~エラードのつぶやき~
第136話
黎明城の海を見下ろせるバルコニーで、彼女は私のことを待っていた。
ピンクがかったグレージュの髪はいまや真っ白になり、ほっそりとした肩は骨が細くなったせいで余計に華奢に小さく見える。それでもその背中には、私がほんの少年のころから大好きだったお姉様の面影がちゃんと残っている。
「あら。さすが大魔術師ね。あなたは昔から一つも変わらないわ」
菫色の瞳がなつかしさに柔らかく細められて、こまかな深いしわに埋まる。私は彼女の前でうやうやしく頭を下げた。
「お久しぶりです、お姉様」
彼女のしわしわの真っ白な手。壊れ物を扱うように、そっと手に取って口づけた。軽くてふわふわで、温かく、細くて小さな手。
「ふふふ。今ではあなたといるとおばあちゃんと孫にしか見えないわね、エラード」
魔術師は魔力の量によって、さまざまな影響を自らの身体に及ぼす。私の場合、誰よりも膨大で強力な魔力量のせいで、二十代の前半くらいから外見がまったく衰えていない。
私は彼女の手を取ったまま、そっと隣に座って彼女に微笑んだ。
「お姉様はお年を召されても、相変わらず光り輝くようにお美しいままですよ」
お姉様は小さな肩をすくめて、少女のようにくすくすと笑った。
「毎日、やってみたいことをやって怒って笑ってを繰り返していたら……いつのまにかしわくちゃのおばあちゃんになってたわ」
「楽しそうでいいですね。お姉様が幸せに暮らしていらっしゃるなら、私も幸せです」
「今やあなたは三大陸一の魔術師なのよね。その若さを保っているところを見ると、それも納得だわ。そんな偉大なあなたを呼び出してしまって悪かったとは思うけど、どうしても伝えておきたいことがあったの」
「お姉様のお呼び出しとなれば、いつでも参上しますよ。誰か消したい者でもおありですか?」
「ふふふ。相変わらずね。そんなひとはいないわ。あなたに、お願いがあるの」
「何ですか?」
さらさらと、海からの風がさわやかに吹き抜ける。
テーブルには、優雅なティーセットと美しい茶菓子が並べられている。私の好きだった、お姉様お手製のビスケットもある。
「私には何人かの孫がいるのだけど。そのうちの一人の孫娘が、魔術師を目指しているのよ」
「ああ、確か双子の男の子をお生みになって、そのどちらかの娘さんですか」
「ええ。次期大公になる長男の娘なの。レニャ・ヴィヴェカと言ってね。もうすぐ十六になるの」
「お姉様のお名を受け継がれたのですね」
「そうよ。私が名付けたのよ。幼いころから稀有な力を発揮していて、今はブラッツ卿に師事しているわ。あなたにお願いしたいのは、彼女のことなのよ」
「ふむ。師匠がすでにいらっしゃるのなら、魔術指導とかではないですね。何をして差し上げればよろしいですか?」
私が首をかしげると、お姉様はいたずらっ子のように菫色の瞳をキラキラさせておっしゃった。
「ブラッツ卿は生涯独身でしょう? 師匠としては頼れるでしょうけど、しばらくの間、いろいろな場所に修行に行きたいらしいの。だからあなたには、彼女の精神的な支え……伴侶になってほしいの」
「はい?」
私は数十年ぶりに驚愕した。感情の起伏がもともと乏しいので、何かに驚くこともめったにないのだが。
「そ、そんなことをご本人抜きに決めてはまずいのでは?」
「そうでもないわ。あの子は私からあなたのことはたくさん知っているのよ」
「お、お姉様……相変わらずですね。七十過ぎの私に、十六の孫娘の伴侶になれとおっしゃるとは」
「年なんてどうでもいいわ。特に魔術師は。彼女もあと数年もすれば老化が止まるでしょうし」
「……」
やはり私の大好きなお姉様は、常識を突き抜けていらっしゃる。そういうところが、私が彼女を好きな理由の一つでもあるのだが。
「あなたも、私が死ねばこの世にほとんど知り合いはいなくなるでしょ? もしレニャと会っても何も感じないなら、もう一人の師匠として見守ってくれるだけでもいいから。伴侶でも友達でも妹分でも、何でもいいから。あの子のことを、どうかお願い」
お姉様は私に頭を下げた。
「あ、ちょっと、お姉様、頭をお上げください。わかりましたから。お孫さんにお会いしてみます」
私は相変わらず人嫌いで、
それでも……お姉様の名を持ち、お姉様の血を引く孫娘。しかも魔術師の卵。そう聞くと、ちょっと期待してしまう。
お姉様は娘をお生みにならなかった。その点はがっかりしたが、まさか孫娘を託されるとは思いもしなかった。お姉様の夫である大公殿下の部下のブラッツが
「エラード」
お姉様は優しい声で私の名を呼んで、小さな手で私の両手を包んだ。彼女だけだ。昔も今もこんなに優しく愛情のこもった声で、私の名を呼んでくれるひとは。愛情。そう、そんなものをまったく知らない私に、そんなものが確実に存在することを教えてくれるたったひとりのひと。
「たぶんこれが、最期のお別れになると思うわ」
「お姉様……」
「あなたは笑われちゃうかもしれないけど。あなたのことが、心配だったの。だからあなたにあの子を託して、あの子にあなたを託したのよ」
「……」
「エラード?」
半世紀以上、こんなに気持ちを揺さぶられることはなかった。自分の両親が亡くなった時でさえも、私の心は凍り付いた湖のごとくかたくなに完璧だった。それなのにたった一言で、胸が締め上げられて涙が両目からあふれてきた。
お姉様は折れそうな細い手で私の髪を優しく梳いた。昔みたいに。いとしい弟を、いたわるように。お姉様の命の火が消えかかっていることは、私にも感じることができる。それなのに、「あなたのことが、心配だったの」だなんて。お姉様は変わらず愛情深く、お優しい。
私はお姉様に抱きしめられながら、しばらくの間小さな少年のようにしくしくと泣き続けた。
お姉様。
やはりあなたは、私にとっては唯一無二の大切なお方だ。
今までも、そしてこれからも。
私たちはそれからお茶を飲み、のんびりと昔話をした。美しい夕日を一緒に眺め、一番星が瞬くころに私はお姉様のもとを辞した。
その三日後に大公が亡くなり、四日後にお姉様も後を追うように亡くなったという知らせを聞いた。
その日私は
めでたしめでたしなんて、誰が言ったの? ~Who said we had lived happily ever after?~ しえる @le_ciel
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