悪魔令嬢とモブ令嬢

第50話

大きな赤い満月がぽっかりと天高く浮かんでいる。



 赤い月が出ると、その時の秋の作物は大収穫が期待されると言われている。


 魔塔の最上階、三百六十度ぐるりと突き出たバルコニーで、カミーユとマクスはふちに腰かけて月光浴をしている。


 カミーユのダークシルバーの髪は月光を浴びてキラキラと輝いている。彼女は小さな頭をマクスの肩にもたれて目を閉じている。



「魔力が無限に満ちてくるのがわかる」


 カミーユの言葉にマクスはくすっと笑う。


「堕天使もその力を魔力と呼ぶのか?」


 マクスの言葉にカミーユもふっと笑う。


「さぁ? 神力ではないのは確かだ。なにせ、堕天使だから」


「堕天使が悪魔になるなら、やはり魔力と呼べるか」


「そこが疑問なのだ。父上はかつて天使だった。堕天して悪魔となったというが、では堕天使とは天界のものでも魔界のものでもない半端な存在なのだろうか」


「カム」


 マクスはカミーユを抱き寄せて静かに言った。



「物事は何であっても、解釈の仕方によって変わるものだ。天から落ちたものが堕天使と呼ばれ、やがてさらに落ちて悪魔となる。堕天使はかつて所属していた天界にも、落ちてきた人間界にも、そこから向かうべき魔界にも、何の権限も要せずに自由に行き来できると考えればいい。堕天使とは神の教えに背いたために追放されたと考える者たちもいるが、そうではないと私は思う」


 カミーユはマクスを見上げる。彼の髪は月光を浴びて白銀に輝いている。それがとても美しくて、カミーユはうっとりと目を細める。


 誰かに寄り掛かって安心したことなど一度もなかったし、むしろ他者とかかわることなど想像もつかなかった。それなのにマクスと一緒にいると今までに感じたことのないふわふわしたくすぐったいような、不安定で……でも決して嫌ではない不思議な気持ちが湧き上がってくる。


「では、どう思うと?」


「天に生まれたが神にも何ものにも縛られない、自由な意思を持ったもの。だから神の使いは天使、そうでないものが堕天使。あなたはかつて魔界では一人前の悪魔になろうと努力していた。でも今や、自由な存在になった。そう考えれば、堕天使とはどこか得な存在だろう?」


 あはは、とカミーユは首をのけぞらせて笑った。


「得な存在とは。考えもよらなっかった」


 すり、と彼女はマクスの肩に頬をすり寄らせる。そしてかつて母が言っていたことが思い出された。



「誰かを手に入れたい、支配したい、誘惑して虜にしたいと初めから本能的に思う悪魔たちには理解できないかもしれないけど。誰かを好きになって、その人と一緒にいたいとかその人に好かれたいとか、その人を幸せにしたいとか自分にだけ微笑んでほしいとか思うものなのよ、恋って!」


 カミーユには母の言うことがよく理解できなかった。誰かを手に入れたいとか誘惑したい「欲望」は、母の言う「恋」とどこが違うのだろうか。結局は、同じことではないのだろうか?


「虜にすれば、相手が自分を好きになるということになるのではないですか?」


 すると母はくすくすと笑った。


「私が好きになった相手はたまたま悪魔アスタロトだったけどね、私は彼に支配されたわけじゃないの。私はあなたのお父様とずっと一緒にいたかった。だから何もかも捨てて、人間界を離れたのよ。あなたも誰かを本当に好きになったらわかるかもね?」



 今なら、幼いころにたった一度だけ聞いた母のその言葉が理解できる。ずっと一緒にいたい。ずっと一緒にいて、こうしていろいろなことを共有していきたい。



「私だけだったらそんな考えは及ばなかった。ありがとう、マクス」


「私も幼いころから、自分が何者かについて考え続けていた。確かに人間なのに、この魔力の強さのせいで異端視されて大いに悩んだ。人々の畏怖も蔑視も、自分が得な存在と考えることで気にならなくなったから」


 カミーユはするりと細い腕をマクスの背に回して彼を抱きしめた。


「うん。素敵な考えだ。私たちはどちらも、得な存在だな」


 マクスはけざやかな月の光の下で、カミーユをいとしげに見つめた。


「ああ。そしてあなたは私の、何ものにも代えがたい大切な存在だ」


 カミーユもマクスをまっすぐに見上げた。そして白い華奢な手を伸ばして、そっと彼の頬に触れた。


「私にとってのあなたも、まったく同じだ。五十年後も、二百年後も、いつか死が訪れたあとでも」



 大きな赤い満月が、寄り添って一つに影になった二人を照らす。


 一匹の黒い大きなドラゴンが、大きな咆哮をひとつ残して赤い月の前を横切って西の森のほうへ消えた。


「ウァラクは養殖魔獣だけでは満腹にならないみたいだな」


 カミーユはくすっと笑った。


「おかげで魔獣の被害も減ってる」


「リリアも役に立っているよ」


 殺さない程度に、という約束通り、リリアは夜な夜な人間たちの夢に現れては生気を少しずつ吸っている。養殖魔獣では補えない夢魔の本能を満たすことができて、彼女も大いに喜んでいる。特に余命いくばくもなく苦痛にあえぐ者たちには、つかの間の快楽を見せて苦痛を忘れさせてやれるので、医者や呪術師たちに呼ばれることも増えた。時々、小さな村で開業したクリスに麻酔代わりに呼ばれることもある。



「私もこれからは、ジスの役に立つことにする」


 クリスの偽装死のせいで半年近く伸びた立太子の儀は、昨日無事に済んだ。ジゼルは王太子妃として国民に公開された。


 彼女はもはや、おどおどした地味な「その他」令嬢ではない。堂々として自信に満ち、内面からにじみ出るやさしさと美しさで光り輝き、王太子となったオーブリーの隣でも見劣りすることはない。アレットたち高位貴族令嬢たちも、ジゼルに敬意を払っている。もともと控えめでおとなしい性格なので、王太子妃となっても謙虚な態度が周囲に交換を持たれている。


 カミーユは魔塔の魔術師の一員として、王太子妃専属の魔術師となった。もしも王太子妃の善良さにつけ込むような者がいれば、容赦なく粛清すると彼女は宣言した。彼女は魔塔主が許した、黒のローブの魔術師だから、あえて敵対しようとするものはいない。


 そう、今や魔塔には、黒のローブの魔術師が二人になった。


 魔塔主”グリ”と、彼の伴侶で正体不明の魔術師。王太子妃の専属魔術師で、誰も彼女の本当の姿を見たことはない。もちろんカミーユが暗示でそう思い込ませているから。謎の魔術師の正体を知るのは、ジゼルと王太子オーブリー、そしてサロンのメンバーたちのみ。



「あなたはそのまま、思うがままに好きなことをしていればいい。そしていつまでも、私のそばにいてほしい」


 マクスがそっとカミーユにささやいた。


「あなたが嫌だと言っても、離れないから」


 カミーユはマクスを抱きしめてくすくすと笑った。



 赤い月が、寄り添う二つの影に静かに降り注いでいた。





 


【完

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