第49話

腰までのストレートの漆黒の髪をうなじで束ねた、神経質そうな青白い顔の細身の男。銀縁眼鏡の奥には、燃える炎のような琥珀色の瞳が鋭く光っている。


 その琥珀色の鋭い瞳が驚きに満ちる。


「レディ・カミーユ。あなた、魔力が……」


 メフィストフェレスはカミーユを見るなりはっと息をのんだ。


「はい。課題をすべてこなす前に、堕天使として覚醒いたしました」


「堕天使とは。では、閣下の血筋の先祖返りですね。ご兄姉のどなたもそんなかたはいらっしゃられないのに、あなた様は、なんと……」


 琥珀の瞳に歓喜の色が浮かぶ。


「リリア、ウァラク。出てきなさい」


 彼の鋭い声にびくりと身を縮めた二匹の悪魔は、観念してマクスの背後からするすると姿を現して、魔法陣の中のメフィストフェレスの傍らにまで進み出た。


「は、はい、メフィスト様、お久しぶりでございます」


「はははは、お、お久しぶりです!」


「どのような経緯で、レディは覚醒されたのだ?」


 二匹の悪魔はしどろもどろになりながら、身振り手振りを駆使してカミーユが覚醒する過程を大悪魔に語った。



「はて……もしや」


 メフィストフェレスは先ほどから感じている、ジネブラとは違う強力な魔力を放つ、壁際の黒いローブの男を振り返った。無視するにはあまりにも強すぎる魔力。


「あっ、あちらがジネブラ様の跡を継いで新しく魔塔の主となったマクス様です!」


 赤い目の黒猫がぴょんぴょん飛び跳ねながら言った。


 メフィストフェレスは琥珀色の目を細めた。


「なにやら、知っている魔力のような気がする。師のジネブラのものではなく、あれはまさに……」


「ええ。人間ですが、ベリアル様の血を引いていますが」


 カミーユの言葉にメフィストフェレスは眉を顰める。


「ばかな。人間で、あの魔力とは……? あれはまるで、そう、大悪魔の魔力だ」


「私と同じ、先祖返りのようです」


「ああ……なるほど」


 マクスの放つ魔力の強さは、人間のものではない。黒ローブ姿ということは、メフィストフェレスの友人だったジネブラの跡を継いだ魔塔主だろうとは思っていたが、果たして人間なのか悪魔なのかと訝しんでいたところだった。


「マクス」


 カミーユが彼の名前を呼んだ。


 マクスはゆっくりと魔法陣の中へ歩いてくる。


 メフィストフェレスは無意識に歯を食いしばっていた。たかが人間に、言いようのない恐怖を感じたのは千年近く生きている彼も生まれて初めてのことだった。そしてマクスが目の前で立ち止まりローブのフードを下すと、彼はさらなる恐怖と感動に全身が震えた。


「なっ……」


 カミーユはマクスの傍らに歩み寄り、師に淡い苦笑を浮かべて見せた。


「今、何をお考えなのかわかります。でも彼は、人間なのです」


 ベリアルに瓜二つの姿。髪が長ければまさしくベリアルそのものだ。いや、ベリアルよりはるかに若いか。


「大悪魔メフィストフェレス。わが師に代わり挨拶申し上げる。私はマクス。新しい魔塔主だ」


 メフィストフェレスは不覚にも、すぐに言葉を発することができなかった。




「はじめは、魔界を出ていくことが嫌でした。私はどこまでも半端な存在で……何に対してもとても不安で。人間界に来てからも、先生のおっしゃったことの意味が少しも理解できませんでした」


 カミーユは淡々と語った。


「私は、先生に見捨てられたのではないかとどこかで感じていました。私は魔界では暮らしていけない弱い存在なのだろうと。しかし人間界に来て、人間の従姉妹とともに時間を過ごし、マクスと出会い、いつしか自らの限界を超えて覚醒したのです。そして私は自分が悪魔として生きられないということを悟りました」


 メフィストフェレスは深く息を吐き、そして静かに言った。


「あなたは、本当の自分になることができたのですね、レディ」


 カミーユはくすりと笑った。


「結果的に、先生の目論見は当たりました。私を送り出してくださったことに感謝いたします。私は自分を、自分の居場所をそして伴侶を見つけることができました」


 

「ええええええええっ⁈」



 二匹の悪魔は同時に叫んだ。そしてメフィストフェレスはふと口の端に笑みを浮かべた。


「レディ。人間界に来て堕天使に覚醒したところが、実にあなたらしい。そしてあなたはお父上のように、人間を伴侶に選ばれるのですね」


 カミーユは隣にいるマクスを見上げた。彼は優しいまなざしをカミーユに注いでいた。


 彼女は再び師匠のほうを見た。


「やっと、母上の気持ちがなんとなくわかったような気がします」


 メフィストフェレスは穏やかな笑みをカミーユに向けた。


「そうですか。ご両親は寂しがるでしょうが、覚醒したということはあなたもすでに一人前です。お父上は、あなたの選択を尊重されるでしょう」


「え? えっ? 嬢さま、ということは、魔塔に、ずっと?」


「おおっ! ってことは毎日養殖魔獣が食べ放題?」


「ばかっ! そこじゃないってば!」


「おじょぉぉぉっ! 一生ついていくよぉぉぉっ!」


「えぇい、うるさいぞ」


 メフィストフェレスは指をぱちりと鳴らした。すると二匹の黒い子猫は鉄の棒を嚙まされて口を封じられた。彼らは慌てて魔法陣から転げ出た。



「思いがけなくも、あなたが覚醒されたことはめでたい。お父上には私から報告いたしましょう」


「先生、覚醒した今、私は魔界も天界も自由に行き来できるのですか?」


「できるでしょうね。今のあなたなら……何も問題ないでしょう」




 メフィストフェレスは上機嫌で魔界へ戻っていった。


「レディ・カミーユ。あなたを誇りに思います」


 彼は去り際にそう言った。


 

「ん? お嬢? どうした、なんか魂が抜けたみたいなあほな表情かおして」


 公爵家のカミーユの私室。青い目の子猫がソファにだらしなく仰向けに寝そべったまま、ベッドに座り天蓋をぼんやり見つめるカミーユにからかい口調で言った。


「お前なんか普段でもばか全開の表情かおのくせに」


 赤い目の子猫がカミーユの膝枕でフンと鼻で冷笑する。


「だまれ腐れ夢魔」


「お前こそ黙れ、低能悪魔」


子猫たちはお互いに牙をむいて背中の毛を逆立てる。


「こら、お前たち。よくも飽きずにいがみ合うな。先生に叱られたばかりだろう?」


 二匹の悪魔はしゅんと耳を垂れる。


「それはそうとお嬢、なんでぼんやりしてるんだ?」


「ああ、先生が最後におっしゃった言葉をずっと考えていた」


「なんです? 褒められたじゃないですか」


「そうだな。誇りに思う、とおっしゃっていた。私は先生の歴代の教え子の中でも最悪の生徒だった。成人してもほかの兄姉たちの半分の魔力もなくて。そんな私を先生は見捨てることなく、人間界に行く方法を考えてくださった」


「そうだな。お嬢は確かにできそこな……っ痛てぇぞこのクソ夢魔っ!」


 カミーユの膝から飛び降りた赤い目の子猫が、ソファの上に伸びている青い目の子猫の腹の上に思い切り飛び乗った。


「お前は嬢さまに失礼すぎる!」


「お前たち、それ以上ケンカしたら一週間断食だからな」


 カミーユの一言に、二匹は口論をやめ、二匹並んで座り口を閉ざす。


「私は……ある意味で先生の期待を裏切り、ある意味で期待に応えた。そして今、私は先生の言葉がとてもこそばゆく感じているんだ」



 カミーユは柔らかく口元を緩ませた。


「嬢さま……」


「あー、なんか、わかるな。お嬢、ずいぶん変わったからな」


「私が? ずいぶん?」


「ああ。なんていうかな、人間界に来る前は、全く何があっても動じなかったよな。でも今は、なんていうかな、すっごく人間っぽい」


「私は、人間ではないのに? 堕天使っぽさもよくわからないが」


「いや、もしかしたら、それは人間らしさとかじゃなくてさ。お嬢らしさなのかもな」


「私らしさ?」


「このバカ悪魔の言うこと、わかる気がします。嬢さまは今まで知らなかったことをたくさん経験して、そのなかで特にジゼル様とマクス様の影響を強く受けて、他者のために何かをすることを知ったんです。契約で縛られてもない限り、悪魔はそんなことしないでしょう?」


「なるほど」


「嬢さまは人間ではないし堕天使がどんなものかはよくわかりませんが、嬢さまが変わられたのは確かです」


「変わった?」


 こくこく、と二匹の子猫は小さな頭をタテに振った。


 カミーユはふっと柔らかく笑んだ。

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