名ばかりの恋

八柳 心傍

本編

 小説なんて読まないよ。あんなの架空の話じゃん。


――字で語ることに意味はあるのか。


 漫画とかなら読むよ。視覚的なものが好きだから。


――しがみつくように文章を書いているのは何故だ。




「ねえ、それが完成したら私に見せてよ」




 あの子の言葉がまだ耳に残っている。


 それはまるで録音機を介して発せられる音のようだった。


 何千回も再生されたレコード盤が、徐々にその溝の形を摩耗していくかのように精彩を欠き、思い出は記憶の彼方へ薄れていく。




 初めて彼女を見付けたのは、暖かな春の教室。


 午前8時。ホームルームが始まる前の微睡みの一時。


 彼女は窓辺に腰掛けて、友人たちと談笑していた。


 春の精が吹かす優しい風。教室へ大きく膨らんだカーテンは、天女の羽衣のように彼女を包んでいる。その隙間から、つぼみが開いたかのように陽光が咲く。陽に透かされた髪は、赤い宝石でできた花束のようだった。


 春という愛を一心に受けた彼女の姿。できることなら写真に収めておきたかった。


 暖かさと涼しさが混じる清らかな風が、一直線に私のほうへ届いた。


 きらきらと輝いて舞う塵は、私にだけ見えていたのかもしれない。


 きっと、あれが初恋だったのだと思う。


 可愛いから恋をしたとか。笑顔が素敵だから恋をしたとか……周りに囃し立てられたり……バレンタインの義理チョコをもらったから……だとかいう、理由ありきの恋。恋に似た経験をしたことはあった。


 だが、この時は純粋な一目惚れだった。


 これまで恋愛で苦い思いをしてばかりだった私は、どこかで恋という想いの正解について考え続けていたのだと思う。あるいは、恋が「不幸への第一歩」だと思えてしまって恐ろしかったのだ。


 だから、これが本当の恋だと気付くことができなかった。




 席替えで例の子と隣合った時、さっそく私は壁を向いていた。ボンドで固めたような白塗りの粗い壁が見ていて面白かったというわけではない。情けない話だが、彼女とわずかにでも親しくなれば、うっかり全身の血を抜かれて冷たくされる気さえしていたのだ。




 国語の授業。


 熱心に板書を取る私の傍ら、何やら彼女がおかしな仕草をしていた。教科書の下にルーズリーフを敷き、食い入るような表情で絵を描いているのだ。呆れたものだと思った。描いているものといえば、目や手指ばかり。流石の私も、これにはギョッとさせられた。しかし、とても楽しそうに描き続けているから、何となく尻目にこれを見ていた。




 幼少期に小児気管支喘息を患っていた私は、そのせいで体が弱かった。


 この時期は、登校するにしても道半ばで体力が底を尽いてしまうような酷い有様で、半月はろくに出席ができずにいた。


 欠席した生徒には連絡事項や宿題をまとめた手紙を届けられる仕組みがある。けれども、これだけ長期間休むとなれば、薄明るい自室の隅っこに段々と積み上がってくる手紙を見て、余計に鬱々としてしまうものだ。


 それでも、この時ばかりは毎日欠かさず手紙を読んでいた。何故なら、手紙のメッセージ欄に彼女の落書きがあったからだ。どこで買ったのか、綺麗な青色のラメ入りボールペンで、ふざけた棒人間の絵を描いたり、気合を入れて漫画のキャラクターを書いてみたりと、何だかやりたい放題の感じだった。


 普段なら、読んだ連絡の手紙はすぐに丸めて捨ててしまっていたが、この手紙を捨てることはできなかった。




 復学後、国語の授業で1000字程度の掌編小説を書くことになった。密かに物書きが趣味だったのだが、いざ「書け」と言われるとそう容易ではない。特別、200字詰めの原稿用紙を前にシャーペンを握ってみると、嘘のように言葉が出てこない。


 だから、ひとまず題名だけでも、と決めてみることにした。


『なぜ、彼は小説を書くのか』


 題名を決めてみて、その構想がさっぱり浮かばなかった。奇をてらってみようと中学授業への反骨精神で提題してみたものの、私自身、何故小説などという趣味を持っているのか分からなかったからだ。実際のところ、理由はなかった。……金を費やさず、字だけで成立するから着手しやすいと思ったので始めたに過ぎない。


 隣はといえば、原稿用紙の裏に絵を描いている。相変わらずなことだ。いよいよ面倒くさく感じてくると、彼女の真似をして私も落書きを始めた。


 その時だ。


 彼女がこちらの手元を見て、一言。


――ねえ、それが完成したら私に見せてよ。




 風の噂で、進学を迎える頃にはクラスメイトが一人転校することを知った。




 奈良の修学旅行では思いの外、景色が綺麗で楽しめた。


 水族館や動物園に行こうが面白みを見出せなかった私が、ここまで観光に熱中したのは自分でも意外だった。終わるのが惜しいと感じたほどだ。




 初春。


 席替えがあった。私は壁際、彼女は窓際へ移っていた。


 見覚えのある光景だ。


 窓から差し込む陽光が、机に突っ伏した彼女の髪を赤く透かしている。今日の風は、誰かの心に寄り添うみたいにただ静かに吹いていた。


 初めて彼女を見た日から1年経った。私は、また眺めているだけなのか。


 ホームルームが始まるまで、あと数分。


 ポケットから小包を取り出して、彼女の席へ向かう。


「おはよう」


 むくりと彼女が顔を上げる。


 かすかに目元が赤く腫れている。


 彼女を顔を見つめたまま、机に投げ出された筆箱の下へ小包を隠した。


「誕生日おめでとう」


 修学旅行のお土産に買っておいた、青い蝶のストラップ。いつもボールペンで素敵な絵を贈ってくれた彼女の色。そのお礼に。それ以外に、この贈り物に意味はない。


 ああ、でも。この一瞬。咲いたタンポポのような笑顔を私は忘れないだろう。


 私は、恋をした。



 

 結局、完成した作品を彼女に見せることはできなかった。


「あなたが好きです」と伝えることができなかった。


 きっと、学校から帰った彼女は毎晩泣いていたのだろうと思う。地元を離れ、仲良くなった友人たちと離ればなれになるのだから。


 悲しかっただろう。とても辛かったはずだ。


 だから、この告白は身勝手だ。


 成就しても、しなくても、彼女の心にはむごたらしい傷が残る。


 私だけが満足するためだけの行為なんて、とてもできない。


 彼女のことを本当に好きだと思うから、この恋はしまっておく。


 いずれ数か月後、数年後の自分自身に恨まれるとしても、この決断は間違っていなかったと信じている。たとえ、これが一生引きずる片想いの傷になろうとも、彼女が少しでも幸せになってくれるなら、私はこの想いに蓋をする。




 声も、顔も、もう擦り切れてしまって覚えていない。


 彼女への恋だけが残っている。名ばかりの恋が。


 未だに、なぜ私が小説を書いているのかは分からない。


 それでも、ただ一つ。この小説に込めた想いは嘘じゃない。


 この想いは架空じゃない。


 だが、たまに思う。


――この片想いを終わらせるために小説を書いているのか。


――あの子に逢うために小説を書いているのか。


 もう少し、書き続けてみたら分かるかもしれない。


 文字の向こうに君がいる。

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