19.エピローグ
人生におけるいくつかの大事を経て、二十才を迎えた高崎陽斗は「ハルト」に戻ることを決めた。
自分がそう説明をすれば、ハルトよりよほど真面目で心配性なあの人は、「人生における大事の説明を省略するな」と渋い顔をするかもしれない。けれど、ハルトにとっては、大事の決断はすべて過去のことなのだ。目の前に彼がいる今より、重要なものはない。
つまり、十三になるまで育った世界や家族より、十三で出逢った運命を選んだという、ただそれだけのこと。
「使わないと、やっぱりちょっと湿っぽくなるよね。月一じゃなくて隔週くらいで来たほうがいいのかなぁ」
一時期を一緒に暮らした、静かな森の家。居間の窓を開け放ちながら問いかけると、彼の居室から声が返ってきた。何冊か本を持って帰りたいと言っていたので、物色に取りかかっているのだろう。
「月に一度で十分だろう。管理が面倒であれば売り払っても構わないわけだしな。買い手がつくかどうかは別の問題になるが」
「こんなとこ、なかなか誰も買わないんじゃない? 辺鄙でずっと売れ残ってた家を師匠が買い叩いたって聞いたよ、俺」
「誰から聞いた」
「誰だったかなぁ」
騎士団の仲間との雑談で聞いた気もするものの、魔術師殿の人たちと話していたときに聞いた気もする。ほんの少し固いキッチン台の上部の窓を押し開けながら、ハルトは首を傾げた。
自分が彼とそういう関係にあると承知しているからか、あるいは単純に噂に上りやすい人だからか、とかく、ハルトはそういう話をよく耳にするのだ。悪意のない他愛ない話題がほとんどなので、基本的には愛想良く聞き流すことにしている。
――まぁ、ヤバい話はさすがに俺にしないだろうし。
大昔、それこそ、ハルトが召喚されたばかりだったころ。親切ぶって余計な忠告を寄こす人間は、それなりに存在した。ビルモスに伝えた結果として、二度目が生じることはなかったけれど。
したり顔でほほえんだ彼の言葉を借るとすれば、「この国を救う勇者殿を煩わせる存在は、宮廷においては不要だろう」とのことだった。
そういう人だよなぁ、と思うと同時に、師匠ももっと割り切って、ビルモスさまを頼ったらいいのになぁ、とも思う。まぁ、そんな師匠は、師匠じゃないのかもしれないけれど。そんなことを考えているうち、ハルトはとりとめのないもうひとつを思い出した。
本当に余計な忠告だったけれど、「あの人は、男女問わずそういう遊びをする」という話を聞かなければ、あの人を好きになっている心の自覚は、もう少し遅かったかもしれない。
「まぁ、とにかくさ。お金のことで問題ないなら、もうちょっとこのままにしておこうよ。この家好きだし。師匠も本棚代わりに使ってるじゃん」
「あるから使っているだけだ」
なかったらないで困らないと言いたげな発言に、そうかなぁ、と呟き、キッチンスペースと居間を見渡す。エリアスはそう言うものの、結構な置きっぱなし状態だ。
「師匠がそう言うなら、そういうことでもいいけど。……いや、駄目だろ、やっぱり、これは」
初夏の光が照らす埃を見とめ、ハルトは前言を撤回した。うん、使う気があるなら、せめて訪問の頻度は上げたほうがいいんじゃないかな。
緊急事態が生じた途端に変わる話ではあるものの、一応はふたり揃って週末休みの勤務形態である。増やそうと思えば、ぜんぜん可能なんだよな、とハルトは思考を巡らせた。それに、なんだ。週末限定田舎生活みたいな未来も悪くない。日本でも、なんか一時期流行ってた気がする。
――いや、駄目だ。たまにならともかく毎週末王都から離れてたら、絶対にアルドリックさんに怒られる。
万が一の際に駆けつけることのできない騎士団員とはなんぞ、という説教になるので、返す言葉がない。騎士団の一員として働き出して、早一年。根の真面目な上長が言いそうな台詞は、おおまかであれば想像がつくのであった。
思わず溜息を吐けば、タイミング良く本を抱えて現れたエリアスが「どうした?」と不思議そうな顔をする。本当に、存外なほどに雄弁な瞳だ。
「いや、アルドリックさんに」
「アルドリックに?」
「……やっぱ、なんでもない」
「なんだ、中途半端なやつだな」
苦笑ひとつで話を切ったエリアスが、丸テーブルにどさりと本を落とした。埃の存在はまったく気にならないらしい。
まぁ、そういう人だよな。椅子を引いたエリアスを横目に、ハルトもぬるい笑みを返した。実験や調理で発揮されるエリアスの几帳面さは、些末事には機能しないのだ。
「そういや、ちょっと前の話だけど。アルドリックさんにすごい勇気だなって褒められたよ。ビルモスさまに承認紋を頼んだっていう話をしたら」
「そうだろうな」
アルドリックじゃなくても同じ反応をすると思うが、と呟く横顔は渋い。そういえば、この家で暮らしたころは、よくそんな顔をしていたっけ。懐かしくなって、ハルトも向かいに腰をかけた。ちょっと休憩というやつだ。埃払いはあとで一緒にすればいい。
そう昔でもない、一年ほど前のこと。戻ってきた自分の発言に戸惑って、素直に受け取ることを恐れるような。そんな顔を、エリアスはすることがあった。自分が気がついていたことを、この人は知らないのだろうけれど。
視線を感じたのか、本を改めていたエリアスの目線が上がる。赤い瞳に、ハルトはにこりと笑いかけた。
「なんか、その顔、懐かしいなって思って」
「その顔?」
「困ってると照れてるの中間みたいな顔」
一年前は、思っていても口にしなかったこと。ずばりとした指摘に、エリアスの渋面に拍車がかかる。わかりやすい反応がかわいくて、ハルトはくすくすとした笑みをこぼした。
「だって、よく、ここでそんな顔してたもん。俺が戻ってすぐのころは、とくに」
「戻るはずがない人間が急に帰ってみろ。誰でもそうなる」
微妙に論点をずらした返事に、そうかなぁ、と苦笑を刻む。でも、そうだな。師匠からすれば、急だったんだろうな。そう、ハルトは思った。自分にとっては、少しも急ではなかったけれど。
だって、ハルトは、向こうに帰ってからの五年間。いつも心のどこかでここに戻りたいと考えていた。
「そうだろう」
「師匠にとってはそうだよね」
素直に認め、でも、とハルトは柔らかく言葉を継いだ。
「俺は早く大人になりたいって思って、それで、大人になって戻ってきたんだよ」
宝石のような赤い瞳が、真意を測るようにハルトをじっと見つめる。
もっと、もっと、自分が子どもだったころ。大好きだった兎の「師匠」と同じ色彩。ハルトが名前をつけ、死んでしまうまでずっと一緒にいた「師匠」。末っ子だったハルトの弟のようでもあり、親友のようでもあった存在。
ハルトが悲しんでいると、誰よりも早く気づいて寄り添ってくれた「師匠」だったから、召喚された場でエリアスと目が合ったとき、自分の運命を心配して、生まれ変わって待ってくれていたのかと思った。
もちろん、そんなことはなく、彼は彼だったのだけれど。でも、自分の不安と恐怖に、誰よりも寄り添おうとしてくれる優しさは同じだった。
大好きな瞳に、出会った当時よりもさらに柔らかな色が灯る。
「そうか」
「そうだよ」
言葉にすると単純で、だからこそ、大切にしたいと思うこと。自分は彼が好きで、彼と人生をともにしたくて、だから、戻った。
二年間の空白を経て戻った子どもに、それまでとまったく同じ態度を取ることができるかと問われると、それは、まぁ、難しかっただろう、とハルトは思う。
おまけに自分の一件は、誘拐事件とも、失踪事件とも、自分が帰ってなお、判然としなかったのだから。
だから、高崎陽斗はあのときにいなくなったのだ。
あの日。エリアスは「すべて忘れろ」とハルトに言った。迷いを見せた自分の背中を叩く発破だったと承知している。日本にいる家族が心配だったことも本当で、だから、帰ることを受け入れた。
でも、一度あったことが、なかったことになるはずがなかったのだ。あたりまえだった事実と、ハルトは日本で直面することになった。
この世界での経験は、ハルトの価値観を良くも悪くも揺るがした。ハルトだけでなく、ハルトの元いた世界でいなくなったハルトを探し待ち望んでいた人たちの人生も。
――まぁ、でも、これは師匠には言えないなぁ。
知れば、いっそうの罪悪感を抱くに違いない。真面目で繊細な性格はエリアスの長所だと思うけれど、罪悪感を抱いてほしいわけではない。そもそも、彼の責任ではないことだ。
そうかと言って、ビルモスの責任だとも思わないし、国王の責任だとも思わない。ならば、魔王の責任かと問われると、それもよくわからないな、と思う。
あれはしかたのないことだったのだ。誰のせいでもない、天災のようなもの。幼かった自分が自身を納得させるために辿り着いた、自分にとっての唯一無二の正解。
とんでもない日々だった。理不尽だと何度も泣いた。楽しいこともあったけれど、その倍は怖かったし、不安だった。でも、大切な人に出逢うことができた。
離れてからも会いたくて、元いたはずの世界の居心地がどうにも悪くて、自分の椅子はあの世界に送られたままと気がついた。
だから、二十才を区切りに、会いに行こうと決めたのだ。
「俺にとって、師匠はずっと特別だったからね」
にこりと笑って総括したハルトに、エリアスは苦笑いで首を振った。
「結局、おまえはその呼び方をやめなかったな」
「あれ、嫌だった?」
「もう慣れた」
ハルトの懸念をあっさりといなし、苦笑いのまま言葉が続く。
「そもそも、適切でないと言ってもやめなかったろう。ある程度はその時点で諦めた」
はじめてこの世界に来たころの話だった。彼の戸惑いを承知の上で強行した覚えはあったので、ハルトも笑った。そのくらいの我儘はいいだろうと高を括っていたのだ。
「おまえの国の、おまえが選んだ言葉と言っていたな」
「覚えててくれたんだ」
「それは、まぁ、忘れないだろう」
――なんか、そういうところが、好きだったんだよな。
そういう、不器用なくらいのまっすぐさ。信用のできる人だと知って、彼に懐いた。そうだよ、と首肯する。
「俺が小さいころに好きだった絵本があってさ」
死んだペットの名前だったと明かすのは、少しばかり申し訳なさがあったので。ハルトは違う側面の理由を明かすことにした。ペットとして兎を迎えたときに、幼い自分が「師匠」と名付けた理由で、この人を「師匠」と呼びたかった理由のもうひとつ。
「その主人公が、そういうふうにある人のことを呼んでたんだ。それで、その、うん。……なんて言ったらいいんだろうな」
自分の悩みを聞き、守り、導いてくれる人。そんな存在を欲して、憧れたというか。説明しようと勢い込んだものの、適切な言葉を探すことは、やはり少し難しかった。
だから、雑な説明って評されるんだろうな、俺。沈黙したハルトに助け舟を出すように、エリアスが口を挟んだ。雑な説明で済ませてしまう、もうひとつの所以である。
「おまえにとって思い入れがある言葉だったということか?」
「あ、……うん」
たぶん、そう、とひとりごちるようにハルトは呟いた。
「俺の住んでた世界の言葉っていうより、もう少し抽象的な、俺の内面っていう意味での俺の世界の言葉だったのかもしれない」
いまさらながらしっくりときた気分で、言葉を紡ぐ。そう、それで――。
「絵本か漫画の主人公とでも思わないと、やってられなかったんだよ。たぶん」
子どもだったんだよ、と苦笑まじりに告げる。十三才だった子どもの、精いっぱいの虚勢。エリアスの瞳が、ゆっくりと静かに瞬く。
「知っていた」
淡々とした声の裏に潜むかすかな悔恨。そこには触れぬまま、ハルトはもう一度笑った。
「そうだね」
誰に命令をされたわけでもなく、あの当時の自分が定め縋った、自分を繋いだたったひとつのよすが。
「師匠だけはそうだったよ」
出戻り勇者の求婚 木原あざみ @azm_kino
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます