18.光あるところ(後編)
「あのさ、師匠。ずっと一緒にいたいっていう話のことなんだけど」
ろくでもない本音というものは、酒や性交に酔ったときに漏らすに限る。そうして、大人であるならば、素面に戻った時点で聞かなかった選択を取るべきだ。
エリアスはそう考えているのだが、どうもハルトは違ったらしい。目覚めたタイミングで浴びた台詞に、黙ったままハルトを凝視する。
いったいいつから起きていたのやら、ハルトの目はいたくはっきりとしていた。つまり、考えた末でのこれ。考えた末で昨夜のみっともない発言をなかったことにする気がない。
素面では聞きたくない話だな。心底思ったものの、遮らない程度の情緒は有していた。
まぁ、それに、現時点で羞恥が勝っているというだけで、完全になかったことにすべきとはさすがに思っていなかったので。
「俺がイレギュラーな存在なのは事実だし、師匠が心配に思う気持ちもわからなくはないからさ。この国の法律にふたりで誓おう」
「……つまり?」
どうにか問い返すと、ハルトはがばりと起き上がった。そのまま立ち上がり、部屋の隅にある机の引き出しをごそごそと漁り始める。物入れ以外の用途で使用する場面を見た記憶はないものの、引っ越す際に買ったハルトのものに違いない。
冬の朝にもかかわらず、ハルトの上半身は裸のままで、数時間前の自分がつけた爪の痕がよく見えた。朝の光の中で目にすると、なんとも居た堪れないものがある。箍を外しすぎるとよくないな。何度目になるのかわからない反省をしているうち、ハルトがベッドに舞い戻った。
「ハルト?」
だが、しかし。なぜか布団の上で正座をしている。しかたなく身を起こすと、ハルトが目の前に一枚の紙を置いた。
「結婚しよう」
ハルトの顔を見、紙面に視線を戻す。エリアスはたっぷり五秒は沈黙した。結婚しようとの言葉のとおり、婚姻を契る際に宮廷に提出する誓約書だったからだ。
「このあいだ、ビルモスさまとばったり会ったんだけどさ。最近は師匠とどうだって聞かれたから、いずれ結婚したいよねって答えたんだけど。そうしたら、誓約書を取りに行くの付き合ってくれた」
「……」
自分の関与せぬところで、後見人兼上司と恋人のあいだで自分の人生に関わる話が進んでいる。とんでもない事実に物を申したくなったものの、エリアスはひとまず続きを待った。
「それで、この承認紋? っていうやつも、ビスモスさま書いてくれるって。証人みたいなやつなのかな? 俺の国にも、結婚届け出すときに証人欄っていうのがあって、親しい人に頼んだりするんだけど」
「待て」
悠長に構えていたものの、さすがに聞き捨てならなくなってきた。たぶんでしかないが、ハルトの言う「証人欄」と「承認紋」の仕組みは絶対に大きく異なっている。
「なに? どうかした?」
「ビルモスと約束をしたのか? 承認紋を貰うと」
理解していない顔を見つめ、エリアスは繰り返した。
「そうだけど……」
応じる顔は、事の重大さをまるで認識していない。エリアスはひとつ息を吐いた。
「承認紋の制度を、おまえはどこまで把握しているんだ」
「ビルモスさまに簡単には聞いたけど。公的な書類の内容を保証するものなんだよね? 書類のランクに応じて承認紋のレベルも変わるって」
「おおまかに間違ってはいないが」
「よかった、そうだよね。婚姻の承認紋は、下級の魔術師の人が受付でやってくれるっていう話も聞いたよ。でも、階級が上だったら、代わりに施すことはできるからって……」
せっかくだからってビルモスさま笑ってたんだけど、そんなにまずかったかな。不安げに揺れ出した語尾をよそに、エリアスは誓約書をまじまじと眺めた。
ハルトの言うことに明確な間違いはない。階級が上の者であれば、代わりに紋を施すことができることも事実だ。だが。
「承認紋で認められた内容を違えた場合、どうなるかという話は聞いたのか」
「あ、それも、受付の人からちらりとは。でも、国家と国家の約束ならともかく、個人の結婚でそこまでの制約は生じないから、形式みたいなものですっていう話だったような」
決してそれも間違ってはいない。いないのだが、だが、しかし。顔を上げ、エリアスははっきりと真実を告げた。
「魔術師長の承認紋は、おまえの言う国家と国家の約束で使用するレベルの代物だ。違った場合、最悪死ぬぞ」
「え」
正しく絶句したハルトに、エリアスは銀糸を掻きやった。あの男は、本当に、嘘を混ぜ込まないからこそ性質が悪い。おまけに、婚姻を誓う片側が宮廷魔術師(自分)なのだ。ハルトからすれば、もはや呪いでしかないだろう。
――とは言え、ビルモスに断ればいいだけの話だからな。
事前に聞いておいてよかったの一言に尽きる。エリアスが宥めようとした瞬間、「まぁ、いいか」とハルトがいつもの顔でほほえんだ。
「よく考えたら結婚ってそういうものだよね」
「……命まで懸けるものではないと思うが」
「いや、でも、ほら、死がふたりを分かつまでとか言わないっけ。聞いたことあるよ、俺。俺の国の話かもしれないけど。こっちも似たようなもんじゃないの? 違ったら死ぬレベルなわけだし」
あまりにもあっけらかんと言うので、エリアスは少したじろいだ。
死ぬまでともに暮らしたいと願ったことは事実だ。だが、それはそれとして、いささか思いきりが良すぎやしないだろうか。
「いや、ビルモスでなければそこまでの効力が発揮されることはない。浮気心が疼いたときに後ろ髪を引っ張られる程度のものだ。念のために言っておくが、正式な手順に則れば別れることも当然可能で――」
「師匠」
今度遮ったのはハルトのほうだった。逃げ道を残そうとした台詞は途切れ、ハルトがエリアスの手を取る。
「俺と結婚してくれますか」
まっすぐに自分を射抜く、緊張をはらんだ黒の瞳。
自分のために魔王を倒したという元勇者。天真爛漫で人当たりが良く、他人の機微に聡すぎるほど聡い子どもで、エリアスがはじめて愛した子どもだった。
もう二度と会うことはないと思った子どもが、大人になって自分の前に現れた。本当は、それだけで、十分すぎる幸福だったのだ。それ以上の幸福を求められ、頷かないわけがない。
愛おしい瞳を見つめ返し、口を開く。答えはただひとつ、心からのイエスだった。
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