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  あれから海斗とは何度も逢瀬を重ねた。互いの部屋を行き来する日々。彼の筋肉質な腕に身を委ねていると、心地良い安心感があった。

 海斗はベッドの上で様々な要求をしてきた。要求はいずれも性の技術に関することだった。聡太は彼の期待に応えようとした。奴隷のように彼に従っていれば、主体性を持つ必要はなく、受動的なままでいられる。それに、奈津希とは不可能だった行為が、海斗となら可能だった。あるいは不可能なままでも可能になれた。ただ、海斗を受け入れるだけで良かった。

「ねえ、聡ちゃん。これ着てみてよ」

 海斗はそう言って、一着のキャミソールを取り出す。聡太はキャミソールのレース模様を見て、奈津希のものと似ていることに気づいた。

「僕が着るには生地が薄すぎるよ」

「暖房つけるから大丈夫だよ。今更なに嫌がってんの」

 海斗は聡太の小さな乳首を指で弾いた。従うしかないことを悟った。

 聡太はキャミソールを纏った。いよいよ羞恥心が込み上げてくる。頬が真っ赤に染まり、いじらしく背中を丸めた。

「いいね、聡ちゃん。似合ってるよ」

 海斗はそう言って聡太を抱き締め、臀部を自分に向けさせるよう導く。

「じゃあいくよ。聡ちゃん、この前みたいにシーツを汚しちゃ駄目だからね」

「分かってるから言わないで」

 言い終わらないうちに、苦悶と快感が腹部から押し寄せた。言葉にならぬ唸り声。聡太は枕に口元を当てた。

 この光景を誰かに見られたら。海斗を受け入れながら、聡太はふと考えた。幻滅するのだろうか、あるいは周囲の人間に吹聴して回るのだろうか。様々な展開が頭の中を堂々巡りする。そして、そのような予感は往々にして的中するのが世の常だった。

 ガチャリと鍵を回す音が聞こえると、次の瞬間には何者かが部屋に入ってきていた。

「何やってんの」

 聞き覚えのある女性の声。

 聡太が振り返ると、奈津希が冷たい視線を送っていた。数ヶ月ぶりに見る奈津希は相変わらずほっそりとしていて美しかったが、右目に眼帯が施されていた。

 彼女は絡み合う二人の姿を左目に焼き付けると、何も言わず部屋を去った。

 聡太はベッドから飛び出して、彼女の背を追った。なぜ彼女を追いかけるのか理由は分からない。ただ身体が勝手に動いていたのである。

「待って」

 聡太は部屋のドアを開けて、廊下を歩く奈津希を呼び止めた。

「何?」

 不機嫌そうに奈津希は言った。眼帯の下に隠れているが、きっと右目も聡太を睨んでいるに違いなかった。

「右目、大丈夫かなって。どこかで事故に遭ったの?」

「ちょっと自転車を走らせてたら、転んじゃったの。お医者さんに診てもらったけど、別に大怪我ってわけじゃない」

「そっか。なら良かった」

 会話はそうそうに途切れた。掛ける言葉を必死に探すが、なかなか見つからない。しかし、言わなければならなかった。

「誤解してほしくないんだけど、海斗くんとは最近知り合っただけで、付き合ってるとか......」

「前々から聞いてたのよ」聡太の言葉に被せるように、奈津希は冷たく、突き放すように言った。「聡太が海斗と二人でよく歩いてるって。まるで恋人みたいに手を繋いでいるってね。あたしへの当てつけのつもり? あとさっきから思ってたんだけど、なんでそんな格好してるの? それ、あたしとお揃いのキャミソールだよね? 聡太ってそっち系なんだね。確かに付き合ってたときも、女の子っぽいというか女々しいところ、あったもん。ねえ、自分の彼女を寝取った男に抱かれるなんて、男として悔しくないの? 恥ずかしくないの?」

 奈津希は捲し立てながら、左目を充血させていた。大きな瞳に怒りと軽蔑の色が明らかになる

と、聡太は言い返す言葉を失った。

「さよなら、もう二度とあたしの前に現れないで」

 奈津希は捨て台詞を吐くと、振り返ることなく階段を降りていった。

 聡太は呆然とその場に立ち尽くした。脳裏に「悔しくないの?」という奈津希の言葉が反芻する。無論、海斗に手篭めにされている現状に悔しさがないわけではなかった。しかし、聡太にとって、悔しさは快楽のクリームソースだった。蟹があっても海老があってもパスタはパスタでしかなく、それがあって初めてクリームパスタは成立する。なくてはならないものだった。他の男と交わっても悔しさはない。しかし、奈津希を強奪した海斗となら忸怩たる想いを享受できる。いまや海斗は絶対不可欠な存在だった。

 肩がびくっと震える。下着姿で出歩くには、十一月の風はあまりに寒すぎた。

 部屋に戻ると、暖房が効いていたが、身体の震えは止まらなかった。

「おいで。身体冷えちゃうよ」

 海斗は優しく聡太を抱き寄せると、毛布を羽織らせてくれた。

「奈津希に何か言われた?」

「ううん、少しキツイこと言われただけ。すごく感情的だったよ。多分、嫉妬だと思う」

 「嫉妬」という言葉を口に出したとき、得も言われぬ快感があった。初めて他者に勝ったという優越。初めて自分に自信を持てた瞬間だった。

 海斗はそっと聡太の乳首にキスする。聡太は稲妻に打たれたように身を震わせた。同時に、心の中の建築物が一斉に崩れ落ちた。低くてもそれなりに立派だった彼のバベル塔は、音を立てて崩壊した。矜持、力強さ、自制心。すべては跡形もなく砕け散る。塔が崩壊した後、眼前に広がっていたのは草花だった。花々はどれも色彩豊かで、中にはこの世に存在しない幻想の種もあった。聡太はあらゆる煩わしさから解放されることで、楽園に到達できたのである。

 にも関わらず、彼に幸福は訪れなかった。快感と愉悦。欲望の限りがここにはあるのに、心に後ろめたさが残っていた。

 それは背後から何者かにじっと見つめられているような不快感──キュクロープスの眼差しだった。一つ目の巨人は大人しそうに、何かに怯えるように視線を送っている。彼の弱々しい瞳の中に、聡太の顔が映っている。

 キュクロープスは何を想っているのか。彼は何を伝えようとしているのか。それを考える必要があった。彼の眼差しの向こう側に、聡太の歩むへまき道が隠されているように思えた。

 しかし、聡太が言語化しようとすると、快感がそれを妨げてきた。思考を停止させ、抵抗する力さえ不能にしてくる。やがて視界がルドンの淡いタッチのように曖昧模糊になると、彼は草原の上でゆっくり瞼を閉じた。

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眼差しの向こう側 楠木次郎 @Jiro_2020

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