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蝉の音が鎮まり、ようやく秋が兆すと学園祭の時期が訪れた。キャンパスには各サークルの出し物が制作途中の姿で立ち並び、学生たちは興奮した口振りで段取りを話し合っている。物静かなサークル棟も絶えず人が出入りしていた。
夏休みの帰省から戻った聡太は、様変わりしたキャンパスと沸き立つ昂揚感に辟易した。一年生の時に既視した光景ではあったが、青春を追い求める若者の、汗臭い熱情にはどうしても慣れなかった。早足で講義棟へ向かう。ここだけが、まだ夏を引きずっているようだった。
奈津希と別れて間もなく、聡太はサークルを脱退した。あのような別離の後で、彼女と同じ集団に属するのは不可能だった。奈津希たちはたこ焼き屋を出店するらしかったが、今の彼にはどうでもいいことだった。
「メイドになってくれないか」
講義室に入るやいなや、友人の
「なんで男がメイドをやるんだよ」
「男のメイドがいなきゃ駄目だってサークルの先輩が言うんだよ」
聡太は呆れて言葉が出なかった。しかし、亮平の頼みを無下にすることもできない。彼には恩があった。入学してすぐ、最初に声を掛けてくれたのは亮平だった。そして奈津希の姦通を目撃した日、講義を休んだ聡太のためにノートを纏めてくれたのも彼だった。
聡太は「考えておくよ」と答えた。イエスともノーとも取れる返事。彼は曖昧の危険性を理解していなかった。言葉は口伝いに変容していく。かつては抽象世界にあった言葉も、いつのまにかイエスの楔を打たれてしまうのだった。
学園祭当日、聡太はメイド服を身に纏っていた。初めて履くスカートは違和感に満ちていて、本当にこれでいいのか不安だった。トイレから出て鏡の前に立つ。モノクロのメイド服は安っぽくて薄い生地のミニスカートだった。
聡太が洗面台で溜め息をついていると、談笑しながら入ってきた男子学生が「うわっ」と大声を上げた。逃げるようにトイレから飛び出す。彼は急いでメイド喫茶のある理学部棟を目指した。途中、何度もスカートが捲れて下着が露になったが、彼は恥を忍んで廊下を駆けた。
メイド喫茶は予想以上に好評だった。ビラ配りとSNSでの告知が功を奏したのか、喫茶店を模した講義室は大勢の学生で賑わっている。
「ねえきみ、男の子なの?」
厚化粧の女子が、注文を取りに来た聡太を見て言った。メイド服の胸元には「そうた」と名札が付けられている。
「はい」
「えー全然見えない。すごいかわいいね」
甲高い笑い声が室内に響く。一緒にいた女も手で口元を押さえている。聡太の目には、女子大生たちの顔が醜く歪んで見えた。「かわいい」というのは褒め言葉ではなく、男として見られていない証拠だった。例えば、彼女と親しくなって、聡太が告白したらどうなるか。彼女は苦笑して、これを断るだろう。他にもメイド服を着用している男はいたが、彼らの女装はあくまで魅力的なオスであるのが前提にあり、そのギャップで客を笑顔にさせていた。対して聡太の場合、背が低く幼い顔つきをしているためか、女装ではなく女に擬態しているようだった。彼は笑われていた。にも関わらず、彼女たちにへらへらと媚びへつらうことしかできない自分が情けなかった。
「メイドさん、注文お願い」
にやついた顔で亮平が手を挙げている。
「どうしてリーダーがお客さんに? メイド服は着ないの?」
「リーダーは指示を出せるポジションにいないと駄目なんだよ。学園祭の実行委員もやってるから忙しいってのもあるし。そんなに怖い顔しないでよ、メイドはどう? 忙しい感じ?」
「別に」聡太は素っ気なく答えた。他人に無理を頼んでおいて自分はやらないのかと内心腹が立ったが、すぐに怒りは消えた。亮平の向かいに座っているのが、サークル棟で奈津希と性行していた男だったからである。
「ああこの人はサークルの
海斗は紹介されると、聡太の目を見て会釈した。
「はじめまして、聡太くん。亮平の同期なんだってね。今日は無理言ってメイドなってもらって、悪かったよ。でも、すごい助かってる」
海斗は少し申し訳なさそうに言った。切れ長の目が真剣さと色気を醸し出している。聡太は驚いて言葉が出なかった。体格の良いスポーツマンではあるが、体育会系特有の野蛮で下品な態度は見られなかった。
「ご注文は?」
「亮平、コーヒーでいい? コーヒー二つで」
「コーヒー二杯、かしこまりました」
「ありがとう」
海斗は優しく微笑んだ。
聡太は注文を取ると、逃げるように二人から離れる。何も言えなかった。そればかりか愛想笑いまでしてしまった。他人の彼女を奪う男は横柄で暴力的だと思っていた。しかし、実際に会ってみると、むしろ略奪とは縁遠い誠実そうな印象さえ受けた。
そして、最も驚いたのは自分の頬が火照っていたことだった。全身が風邪を拗らせたように熱い。この生理現象はなんだ? この感情はなんだ? 疑問符が脳裏に付き纏い、メイドの仕事が手に付かなくなる。経験したことのなかった変化が、肉体あるいは精神に巻き起こり、彼を混乱の渦へと飲み込もうとした。
学園祭はつつがなく終了した。聡太はようやく祭りの熱狂から解放され、部屋で一息ついていた。スマホが鳴った。身に覚えのないアカウントからのLINEで、プロフィールには「KAITO」という名前が綴られていた。恐る恐る開いてみる。「海斗です。今度の週末、学園祭の打ち上げで遊びに行くんだけど、良かったら一緒にどう?」
LINEは亮平が教えたに違いなかった。聡太は断りを入れようとしたが、送信ボタンを押す直前、なぜ彼が奈津希と関係を持とうとしたのか知りたくなった。恋人を奪われた側として、真相を知る権利があった。「行きます」と返信をすると、聡太は宿敵と対峙する覚悟を決めた。
学園祭明けの土曜日、海斗から指定されたのは美術館から三キロ南にある丘の上の動物園だった。動物園としてはそれほど大きくはないが、園の名物であるレッサーパンダを見に、大勢の家族連れや恋人たちが入場ゲートに押し寄せていた。
「おまたせ」
紺のジャケットを羽織った、身長一八〇センチ程の男が小走りで近寄ってくる。海斗だった。サークルの仲間たちはおらず、一人で来たようだった。
「他の人は?」
「言ってなかったね。実は打ち上げは昨日だったんだ。今日は他に誰も来ない。きみと話したいことがあるんだ」
海斗の口調にはある種の含みがあった。「きみと話したいこと」とは何か。言葉の裏に潜む真意が聡太に緊張を与えた。
「とりあえず入ろうか」と海斗がゲートを指差した。奇妙な動物園デートが始まった。
予想通り、入場してすぐのレッサーパンダ館とペンギン館には長蛇の列ができていた。海斗のリードされて、北側エリアへ向かった。
人が混み合っていたためか、彼は聡太の手を一瞬握った。薄顔似合わず、ごつごつと分厚く、自分より一回りも大きい掌をしていることに聡太は嫉妬した。
北側エリアの端には、一頭のアジアゾウがいた。昭和四十年代の開園当初から柵の中にいるこの雌象は、時折、鼻で水を飛ばしてくる以外には、人間に危害を加えることのない穏やかな性格で知られていた。彼女は皺の多い脚で草原を悠然と歩いている。
「聡太くんは象の頭蓋骨を見たことある?」
「ないです」
「真ん中に大きな陥没があるんだ。ちょうどそこが鼻腔になるから、穴があって当然なんだけどね。古代人はこれを目だと思った。一つ目の怪物は実在するんだと誤解して、恐れたんだ」
海斗は上下に動く巨象の鼻を観察しながら言った。
聡太は「一つ目の怪物」という単語に親近感を覚えた。美術館で見たルドンの絵が想起される。優しげな巨人の眼差しとアジアゾウの頭蓋骨が自然な形でリンクした。
「奈津希と付き合ってたんだってね」
予想通りの展開だった。やはり聡太を呼び出したのは奈津希の話をするためだった。
「付き合ってました。でも、振られました。先輩、僕見たんですよ。一ヶ月前、サークル棟で奈津希と先輩が二人で一緒にいるところを。彼女と付き合ってるんですよね?」
海斗はしばらくの間、黙った。聡太の目をじっと見つめる細長い瞳。真剣な眼差しだった。真黒の瞳に吸い込まれそうになって、聡太は思わず目を逸らした。
「相談に乗ってあげたのがきっかけだった。彼女、きみとの関係に結構悩んでいたよ。何回か会っているうちに、段々打ち解けていって気づいたら......正直に言うよ。彼女に求められたことは全部してあげた。どれも『聡太くんとはできなかった』ってさ」
この男は何を言っているのだろうかと聡太は思った。奈津希から頼まれているのか。あるいは屈辱を与えるつもりなのか。いずれにしても、聡太は一刻も早くこの場から立ち去るべきだった。そうしないのは、彼の脚がすくんで動かないからだった。
「誤解しないでほしいんだけどさ、好きだと言ってきたのは彼女の方なんだ。おれが好きになったわけじゃない。断じてきみから奪おうとしたわけじゃない。奈津希のことは好きだけど、本当に好きなのは......」
海斗がその名を口しようとしたとき、アジアゾウが鳴き声を発した。耳をつんざく、けたたましい唸りだった。自分をそっちのけて会話をする二人が癪に触ったのだろうか。彼女は鼻を振り上げると、勢いよく水を飛ばした。
「危ない!」
海斗は瞬時に聡太の肩を抱き寄せた。間一髪で水への直撃は回避できた。海斗の腕はごつごつと筋肉質で、それでいて温かかった。聡太は心の底から安堵していた。最も憎い相手の中で、彼は幸福に包まれていた。
「本当に好きなのはきみだ」海斗は耳元で囁いた。「学園祭で一目惚れしたんだ。聡太くんと出会って、おれは本当の自分に気づいた。嘘だと思うなら証明するよ」
何が起きているのか、聡太は事態を理解できずにいた。十月の乾いた風が吹く。シャツの背中が水飛沫で濡れていた。
「濡れちゃったね。おれのアパートが近いから、そこで乾かそう」
気遣う海斗の声は優しかった。聡太は頷いて、彼に身を委ねた。こじ開けられた心の扉から新しい風が入り込んでいた。
二人は海斗の車に乗って、駅南にある四階建てのアパートへ向かった。シャツと下着は洗濯機へ入れられたが、着替えはなかった。聡太はベッドに押し倒されると、昼下がりの陽射しを仰ぎながら、そこで愛を証明された。
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