眼差しの向こう側
楠木次郎
1
郊外に立つ美術館では、七月からオディロン・ルドン展が開催されていた。聡太は付き合って三ヶ月になる彼女を連れて、そこを訪れた。
展示はルドンの画業を時系列で追っていく形式だった。
「うーん。よく分かんないし、気持ち悪い」
奈津希は聡太の頭越しに不満を口にした。
気球のように空に浮かぶ目玉、動物の顔をした蜘蛛。モノクロで描かれた初期ルドンの作風は、サークルとバイトがすべての大学生には象徴的過ぎて、ただ不気味としか映らない。彼女は美術館のおしゃれな雰囲気に囲まれる、自分自身に浸るためにここへ来たのであって、美術そのものに関心があるわけではなかった。
気まずい時間が流れる。聡太は彼女と繋いだ手に脂汗が出ていないか心配になった。
奈津希とは大学のサークルで知り合った。お互い学部は違ったが、同期ということもあり気が合った。二年次に進級する直前、恋仲に発展したのは自然の成り行きだった。今日は付き合って十回目のデートである。キスは交わしていたが、身体の相性は確かめられていない。もっとも、聡太は「身体の相性」などと偉そうに言える立場ではなかった。彼は童貞だった。
「あっ」
聡太はある一枚の絵の前で立ち止まった。裸姿で草花の上に眠る娘と背後から見つめる一つ目の巨人。『キュクロープス』と名付けられたその絵は、ギリシャ神話のある挿話を題材にして描かれたものだった。
単眼巨人、キュクロープス族のポリュペーモスは水の妖精ガラテアに想いを寄せていた。しかし、彼女はアキスという美青年と恋に落ちる。嫉妬に駆られたポリュペーモスは、巨石を投げつけてアキスを殺す。死んだアキスの血はエトナ山の側を流れ、やがて川となった。
挿話自体は神話によくある悲恋物語だった。しかし、ルドンの描いたポリュペーモスは、人殺しなど考えもしないような大人しい怪物であり、神話のイメージから逸脱していた。
奈津希の怪訝そうな目をよそに、聡太はポリュペーモスの眼差しに心奪われた。先程までの絵とは打って変わって、カラフルに彩られた画面の中で、巨人の単眼は優しげで、穏やかで、そして弱々しかった。ガラテアを愛しているのに、山の陰から盗み見るだけで何もしない。彼女の方から声を掛けなければ、会話することさえできないだろう。聡太は怪物の、怪物らしからぬ受動的な態度に強い共感を持った。この巨人は僕自身だ、と彼は無意識に理解させられた。
「いつまでここにいるの?」
奈津希はそう言うと、零れ落ちそうなくらい大きな瞳で彼を責める。ほったらかしにされたのが癪に触ったようだった。聡太は「ごめん」と一言謝った。次の展示スペースへ向かう途中、彼は服装や髪型の話で彼女をケアしたが、頭の片隅から巨人の眼差しが消えることはなかった。
ひとしきり展示を見終わると、二人は館内のレストランで昼食を取った。学生が食事をするには少々割高だったが、奈津希が上機嫌になったので不満はなかった。
「この後、どうしよっか」
奈津希は白皿にフォークを置いて尋ねた。二人が食べていたのは、蟹と海老のクリームパスタだった。
「ちょうど近くに僕のアパートがあるんだけど......」
聡太は語尾を濁して言う。部屋に誘う勇気が出なかったので、まずは彼女の様子を伺うことにしたのである。
「あー」
奈津希は再びフォークを手に取り、海老を十秒ほどクリームに絡めてから、口に入れた。長い咀嚼が終わると、彼女は「聡太の部屋に行ってみたい」と言った。
二人は聡太のアパートへ行った。普段より念入りに掃除された部屋で、奈津希はくつろいだ。コーヒーを淹れ、サブスクに入っている流行りのドラマを鑑賞した後、聡太は行為に及んだ。
しかし、行為は失敗に終わった。聡太は不能だった。日々の悪習ではそのような事態は起きなかったのに、今日という日は絶対不可能だった。緊張、違和、不感症。種々の言い訳が思い浮かんだが、どれも口には出せず、彼は二度目の「ごめん」を言わなければならなかった。
「初めてだからね。しょうがないよ」
奈津希はベッドを抜けると、床に落ちたレース付きの黒いキャミソールを拾う。聡太は彼女の長い脚に見惚れた。彼女は聡太より背が五センチも高かった。
聡太は不甲斐なさを痛感した。背が低いのだから、せめてベッドの上では男らしくありたかった。彼女を幸福にさせたかった。しかし、それはもう叶わなかった。
翌週、聡太は講義終わりに不穏な噂を耳にした。最近、奈津希が他の男とホテルに入ったのを見たという。それも複数の人間が証言しており、根も葉もない噂だと断じるのは難しかった。
聡太はキャンパスを歩きながら奈津希の顔を浮かべる。その笑顔は嘘か真か。信頼と猜疑心とに心を引き裂かれ、当てもなくキャンパス内を彷徨った。
気がつくと、サークル棟が眼前に現れた。水曜日は活動が休みのサークルが多いため、人気はない。ここで一度休もうと、聡太は三階へ上がった。すると、女の声が一瞬聞こえた。
声は突き当たりの五号室から響いていた。悪名高い「サークル棟の五号室」。聡太は下級生相手にふんぞりかえる、軽薄な先輩の語り口を思い出す。
「五号室の窓から広場を一望できるんだよ。勉強に励む奴らを見下ろしながらやるのが、最高に興奮するし、一種のステータスってわけ。それを知ったある馬鹿が、隣の四号室の壁に穴を開けたんだ。理由? こっそり覗き見するために決まってるだろ。まあそいつはバレて、ボコボコにされたらしいけど、今でも穴は塞がってないんじゃないかな」
五号室の前に立つと、扉の向こうで女が喘いでいるのが分かった。それは人の叫びというより動物の鳴き声に近かった。そして呻き声の中に、奈津希と似た声音が微かに含まれていた。
彼は恐ろしくなり、隣の四号室へ入った。誰と誰がそこにいるのか、確認する必要があった。壁には一見何の変哲もなかったが、日に焼けたオリンピックのポスターを剥がすと、直径五センチほどの穴が空いていた。
恐る恐る聡太は穴を覗いた。視線の先に何があるのか本当は知りたくなかった。しかし、覗かずにはいられない。矛盾して存在する人間の性が、彼の背筋に悪徳を上らせる。
右目を凝らして室内を見ると、窓際に二人の男女が立っていた。女は窓に手をついて言葉にならぬ声を発している。男は彼女の後ろで仁王立ちになって、激しく動いている。下に垂れたロングヘアが揺れると、彼女の横顔が見えた。奈津希だった。
一刻も早く、この醜態を止めなければならなかった。彼氏として、男として二人に罰を与える必要がある。しかし、聡太の肉体は彼らに挑もうとはしなかった。ただ小刻みに震えるだけの臆病な仔羊だった。聡太は耳に蓋をして、その場から逃げた。何も分からなかった。自分が何を目撃したのか、なぜ部屋から逃げ出すのか。彼が認識できたのは、抵抗せずむしろ喜びを露わにする奈津希と彼女の脚より長くて隆々な下肢を持つ男の姿だけで、光景から導き出される二人の関係については、理性が思考を拒否したのだった。
二日後、聡太が問いただそうか悩んでいる間に、奈津希の方から「別れよう」とメッセージが届いた。慌てて電話を掛けたが、彼女の決心は固かった。理由を聞いても判然とせず、「価値観が違った」「あたしが悪いの」と繰り返すだけだった。
結局、浮気のことは聞けずに通話は切れてしまった。聡太はベッドに顔を埋めて、彼女の温もりを探した。温もりはどこにもなかった。やがて夜になり、とめどない喪失感が彼を押し潰した。
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