メロンソーダのそなえかた

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単話

やたらと目を引く警告色の看板をいくつか通り過ぎて、所々にヒビの見えるトンネルへと潜り込む。

巷では、幽霊トンネルだのなんだの言われているが、自分の実家につながる唯一のトンネルに恐怖なんてものはない。トンネルの先を想像すれば、幽霊なんてものは居ても何らおかしくはないし、僕自身もこのトンネルには何かしらあるだろうと思っている。

照明の無い長ったらしいトンネルを十分ほど歩くと、ようやく光が見えた。

明るさに慣れない目で見ただけでもわかるほど、トンネルを抜けた先の景色はひどいもので、ちょっとした事故や事件では説明がつかないほどの荒れ具合だった。

水縹色をした海までの視界に障害物と呼べるものは瓦礫の山しかなく、人の気配は感じられない。

誰かの家の表札や、ふやけ切って被写体が人かどうかすら判別できなくなった写真なんかの小さなものから、コンクリートの壁や車なんかも置物のように転がっている。

そんな瓦礫の山の中で、ひび割れたアスファルトを真っ直ぐに踏み締めて、進む。

そのまましばらく歩くと、瓦礫の山の中で、唯一形を保っている小屋が見えた。

木でできたその小屋は、家屋を押し流した波なんかに到底耐えられる作りにはなっていない。しかし、僕がこの町から離れて十年もの間傷一つつくことなく、この場所に存在し続けている。

指で突けば壊れてしまいそうな薄い扉を横に引き、小屋の中へ入ると、色の褪せた炭酸の広告が壁に貼られ、その下の椅子の真ん中に、小さな祠が置かれていた。十年前には青かった祠の屋根はいつのまにかきれいな薄緑色になっている。

こんな所にわざわざ祠の屋根の塗り替えに来るペンキ屋なんていやしないだろう。そうであれば、この色はどこから来たのだろうか。

そんな疑問には目をつむり、僕は肩に下げた鞄から手のひらサイズの瓶を二つ取り出し、一つを祠の前に置いた。

「ただいま、東」

僕には十年前まで親友と呼べる奴がいた。

彼の瞳はきれいなメロンソーダ色で、それは彼の大好物だった。

僕が慣れた手つきでその王冠を外すと、ぬるくなったメロンソーダが少しだけその水位を上げた。


   ∇∇∇


目前に迫った夏休みを先取りしたような空模様と潮の匂いから逃げるように、日陰になっているバスの待合所に駆け込むと、通学途中の小学生たちに混じって小さな祠に手を合わせていた東が「寝坊か?」と綺麗な緑色の瞳で僕を見た。

布団が離してくれなくてね、と笑って僕は東の横に並んで祠に手を合わせる。大きな神社でもなければ立派な鳥居もない祠だけれど、このあたりに住む人は町を出る際には必ずこの祠に手を合わせる。

遠くからバスのエンジン音がして合わされた手を離すと、すでに東は待合所の外に出ていて、その手には今日みたいな青空には似合わないビニール傘が握られていた。

僕は東に続いてバスに乗り込んで、すっかり顔見知りになった運転手に挨拶をすると、もはや指定席と言わんばかりに東の横の席に腰を下ろした。運転手の軽快なアナウンスと共に発進したバスは、ろくに整備もされていない田舎の割れたアスファルトの上をガダガタと体を揺すりながら走って行く。乗り物酔いがひどい東にとっては堪えるだろうな、なんて考えていると、窓の外を眺めたままの東が言った。

「もう少し早く生まれたかった」

「町に高校がないから?」

僕たちの住む町には、四、五年前までは数人程度の生徒を抱えた小さな高校があった。

変に進学率を気にしたりしない、生徒と教師の距離感も近い優しい学校だった。

幼い頃から漠然と、この学校に行くんだろうと思っていた僕らを置いて、その学校は少子化の波に流されていってしまった。

そのおかげで、僕らは毎日バスに揺られて隣町まで行かなければならない。

「それもある」

と東は頷いた。

「他にも何かあるの?」

僕がそう聞くと、東は相も変わらず青い顔をしたままこちらを向いた。

「今年が二千年目だろ」

「水縹様の話?」

僕がそう聞くと東は小さく頷いた。

小学生の頃、町のお年寄りが学校に出向いてその地域の昔話をするという授業があった。その時にこの話をしていたはずだ。僕は興味がなくて聞き流していたからよく覚えていないけど、それでも祀られている神様の名前くらいは覚えている。

二千年に一度、町の人間から生まれる水縹の瞳をした水縹様。それが僕らの町の神様の名前。

瞳の色がそのまま名前になっているなんて、安直だなと思うけれど、読めもしないような漢字がつらつらと書き並べられているよりもずっといい。

今年はその二千目で、神様の引き継ぎをするからと言って、いつもなら三日の間開催される夏祭りが八月の中頃から二週間かけて行われることになっていたはずだ。

「東ってそういうの気にしないタイプだと思ってたよ」

「オレもそう思ってた」

そう言って彼はまた外へ目を向けた。

「でも、夏祭りが長くなるのはいいね」

夏祭りが終わるまでずっとメロンソーダが飲める、と僕は続ける。

「毎日飲んでたら流石のオレでも飽きるよ」

と、東は笑った。

十分ほど経って東の顔色が一層悪くなると、またもや運転手の軽快なアナウンスが車内に流れ、バスが停車した。


僕たちが退屈な終業式を終える頃になっても、太陽は相変わらずご機嫌に輝いているものだから、町へ戻るためのバスを待ちながら僕はシャツの袖を捲った。

「傘、やっぱりいらなかったんじゃない?」

僕はそう言って東の傘を指差した。

でも彼は首を振った。

「この後だよ、多分」

 その顔はずいぶんと自信ありげに見える。

あとはバスに乗って町に戻るだけだと言うのに後も何も無いだろう、なんて思ったけど、僕はそれを口にはしなかった。


結局、雨が降ったのはその日の終わる頃だった。


  ΔΔΔ


「覚えてるかな、高一の時の夏休みのこと。東がよく晴れた日に傘を持ってきてたやつなんだけど」

元々バス停だった小さな小屋の中で、僕は呟く。

もう十年もの月日が経ってしまっているというのに、記憶が詰まることはない。

「自信満々に雨が降る、なんて言うからびっくりしたよ。実際その日のうちに雨が降ったし」

「それに、釣りの時も魚がかかる前なのに、かかってるとか言ってたでしょ」

メロンソーダを喉奥に流し込むと、鮮やかな緑がぱちぱちと小さな衝撃と共に流れていく。

「あの時は適当言ってるものだと思ってたけど、今考えるとお前、実は未来か何か見えてたんじゃないかって思うんだよ」

「僕は冗談だと思って流してたけど、神さまになるとかも言ってたよな」

十年前からずっと考え続けていることがある。それはあの日、僕が東を止めていたら、彼は未だにここにいたのだろうかというくだらない妄想。

もし彼が、僕の言葉で神さまになることを決めたのなら、彼を殺したのは僕なのではないか。

この十年間、夜が来る度に罪悪感に押しつぶされそうになった。東を殺す夢なんて何度見たかもわからない。だけど、僕の体は薄情なもので、涙が流れることはなかった。

「あのとき僕が止めてたらお前は今ここにいたのか?」

どれだけ一人で喋り続けても祠の前に置かれたメロンソーダの水位は変わることはない。

それでも、僕は話し続ける。

「あとはほら、祭りの最終日にさ、花火見ようって約束したの覚えてるか?東はあの時隣町を集合場所にしてたけど、なんで隣町集合にしたんだ?」

「それまで僕の家か、お前の家に集合が普通だったのに」

どれだけ質問を重ねても、もちろん答えなんて返っては来ない。

「東のおかげで僕は今ここにいる。それは間違いないよ」

僕が口を閉じると、遠くから波の音が聞こえた。

「でもなんで僕だけ助けてくれたんだ?」

あの日、僕が一人で花火を見に行った日、町を洗い流してしまうほどの津波が来たのだ、ということを後日顔も見たことがない親族から伝えられた。

町の人は未だに一人たりともその痕跡が見つかっていない。

「なあ、東の言ってた神さまって水縹様だったのか?」

「そもそも僕たちの教わってた水縹様って一体何だったんだ?」


僕の疑問に答えるかのように、波の音が少しだけ高くなった気がした。


   ∇∇∇


「明日はまた海にでも行こうか。きっとでかいアジが釣れる」

家の近くに流れている川に釣り糸を垂らしながら東はそう言った。

夏休みに遊びの誘いを受けたら基本的には断るという選択肢の出ない僕だが、これにはさすがに頷くわけにはいかなかった。

「ここのところ毎日遊んでるだろ。さすがに明日くらい僕に課題をやらせてくれ」

実際夏休みが始まって二週間が経った現在、僕は毎日のように東に連れ回されているせいで、一度も机に向かっていない。課題は未だに白紙のままだ。数学の問題集なんかは今から答えを見て解いたって終わらせられる気がしない。

「そんなのやっても意味ないって」

「意味ないって、そんなことないだろ。やらなかったら教員からのお叱りが待ってるんだよ」

そのまま文句を続けようとした僕の口が開ききる前に、東が僕の竿を指さした。

「引いてるよ、竿」

慌てて僕は視線を浮きに移したけれど、浮きはご機嫌にぷかぷかと流されたままだった。そもそも竿につけている鈴の音だってしていない。

文句を言われそうだったから話題を変えたのだろう。

「引いてないじゃん」

そう言って僕が浮きから視線を外した途端に、小さく鈴の音が鳴った。

こんな時は落ち着いてアワセをするといい。あとはどうしても魚を釣り上げたいなら餌を完璧に腹までおとさせるといい。

頭の中では、昔誰かから教わったような釣りの知識が回っていたけれど、僕の体は素直に竿をそのまま引き抜くことを選んだようだった。

虹でも架かりそうなほどの水しぶきを上げて、水中から無理矢理ごぼう抜きにされた魚は、そのまま僕の頭上を飛んで、草むらに消えていった。

「このままだとオレ達のおやつが狸の飯になるぞ」

魚の飛んでいった先を眺めながら固まっている僕を笑いながら、東は上流に浮きを戻している。

魚の飛んでいった方向は見ていたからどうにか見つかるだろうかと竿を置いて、僕は背後に広がる草むらへ向かった。

もし見つからなかったらその時は、東に頼んで彼の釣果を少し分けてもらうことになるな、なんて僕の考えとは裏腹に、僕の放り投げた魚であろうものは案外早く見つかった。

どうやら先ほど釣れたのはヤマメだったようで、地面に打ち付けられてからも、しばらくは元気に動いていたらしいことがわかる水跡の中で砂だらけになっていた。

僕はもう動かなくなった砂だらけのそれを軽く掴み挙げる。もうとっくに息は止まっているはずなのに、歩いている最中に何度も目が合う感覚がして、僕はなるべく早く東のもとに戻ることにした。

「ただいま」

なんて声をかけると、東はこの短い時間で釣り上げたのだろう、魚に串を通している最中だった。

「ちょっと砂を落としてくるよ」

東から差しだされた串を一つだけもらって、僕はまたすぐにその場を離れた。

先ほどまで、このヤマメが泳いでいたはずの流れに砂の塊を浸し、その砂を洗い流す。

さっきまで砂にまみれていたせいで気づかなかったけれど、ヤマメの腹からは血が流れていた。針はここに引っかかったのだろう。僕はその傷口に指を差し込み、ヤマメの腹を開けた。

そのまま水中で内臓を掻き出し、その体に串を通すと、その見た目はすっかり食材と呼べるものになった。

ここから先は東に任せることにしよう。僕は調理は専門外なんだ。

「任せた」

東は、僕の差し出した魚を受け取ると「任された」とそれに塩を振りかけて、「じゃあ竿の片付けは任せた」と続けた。

「任された」

僕は笑ってそう返した。



「もういいんじゃないか」

僕が二人分の竿をたたみ終えてしばらくすると、いい加減に待てなくなったのか、東が魚に口をつけた。東の手にした魚には、どうみても焼き切れていない箇所がある。

「まだ生焼けだろ。十分も経ってない」

東は一瞬手を止めて、ひとしきり生焼けの魚を見つめた後不思議そうな顔をして、またそれを口に運んだ。

「腹壊すぞ」

と僕が言うと、東は口の中を魚でいっぱいにしながら何かを言っていた。おおかた「オレの腹は強いから」とでも言っているのだろう。

僕はため息をついて、自分の魚を火に近づけた。


   Δ


祭囃子と雑踏の中、夏休みに入ってから一度も足を運んでいなかった明かりのない待合所で、僕は手に持った二つの瓶のうち一つの蓋を外す。

町を歩き回っていればいつか東に会うだろうし、メロンソーダでも買っておこう、なんて考えて買った瓶は既にぬるくなってしまっていて、仮に東に会えたとしてもこんなぬるいメロンソーダを渡すのは申し訳ない。

薄い木の壁で少しだけ小さくなった、楽しそうな音を聞きながら僕はメロンソーダを流し込む。

祭りの音よりも近くで炭酸泡の弾ける音がするのが心地良かった。

その音に混じって、薄い扉が軋む音がした。

真っ暗だった小屋の中が、外を覆う提灯の明かりで照らされる。僕はそれがまぶしくて咄嗟に目を閉じた。

「久しぶりだな」

暗闇の中で聞こえたのは、ここ最近は聞くことがなかった、しかしずいぶんと聞き慣れた声だった。

声の主が扉を閉めたのだろう、まぶたの裏に入り込む光がなくなり、僕は目を開ける。

片手に持ったままだった瓶を声の主に投げ渡すと、彼はそれを危なげも無く受け止めて、僕の座る椅子に腰掛けた。

「腹でも壊してたのか?」

「そんなとこ」

すぐ隣で炭酸の抜ける音がする。東が王冠を外したのだろう。

「あの魚だな」

「僕はもっと焼けって言ったぞ」

「負けたな。オレの腹」

暗がりでもわかるほど東は真剣な顔をしていて、僕は思わず吹き出してしまう。

それにつられて東が笑い出し、二人の笑い声が小さな小屋の中に響く。きっと外の祭囃子といい勝負をする声量だ。もしかしたら祭囃子なんかには負けていないかもしれない。

ひとしきり笑った後、ゆっくりと息を整えた東が思い出したかのように言った。

「そういえば、祭りの最終日に花火があがるんだって。一緒に行こうぜ」

「それどこ情報?」

僕は眉を寄せる。こんなに狭い町で行われる祭りだ。そのスケジュールは町民全員がなぜか知っているし、変更があればその情報ですらすぐに流れてくる。でも、僕は今回の祭りで花火をやるなんて話は聞いていなかった。

ここにきちんとした明かりがあれば、東からはさぞ怪訝そうな表情の僕が見えることだろう。

「秘密。とりあえず最終日は隣町の高台に集合な」

「僕はまだ行くなんて言ってないぞ」

そんな僕の不満は、東の開けた扉の音にかき消された。



「もしさ、オレが神様になったらどうする?」

家までの帰り道、僕の前を歩いていた東は突然そんなことを言った。

そう言った東の表情は読み取れない。提灯以外に明かりがないこともあるし、何より彼の顔は僕の方を向いていない。

「拝むよ。週一ぐらいで。お前の大好きなメロンソーダもそなえてやる」

 子供がいたずらしているときのように笑いながら僕は答える。

本当に東が神さまなんかになろうものなら、僕はきっと行く先々で布教でもするだろうし、きっと拝むのだって一日一回なんかじゃきかなくなるだろう。

でも、そんなことを言うのはさすがに恥ずかしくて、僕は冗談半分でそう返した。

「それはいいな」

提灯の光に照らされて振り返った彼の瞳は、少しだけ青っぽく見えた。


   ΔΔΔ


波の音だけが聞こえる小屋の中で、僕は小さくじゃあね、とつぶやいて祠に背を向けた。

何に引き留められることもなく外に出ると、水縹の波が近くに積もった瓦礫の山に打ち付けられていた。

小さく勢いを増していく波を引き連れて、僕はバスの待合所を後にする。

僕の足がトンネルの中に入ったとき、ふと祠の前に置いたままのメロンソーダのことが気になった。

今なら、その水位は減っているだろうか。少し扉を閉め損ねたから、もう波に倒されて瓶が割れてしまっているかもしれない。

先ほどまであんなに独り言を言っていた待合所は、もうとっくに見えなくなって、代わりに視界を水縹の波が覆い尽くしていた。いつのまにか僕の体の半分くらいの高さになった波は、トンネルの前で反射して海の方へと戻って行く。

その水かさは瞬きするごとに増していった。

そんな中で、一際大きくぶつかった波の破片が僕の目の前に張り付いて流れ落ちた。

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