『ティッシュの怪(3)』

 ぐわんぐわんぐわん……

 (何だこれ……。目眩が……)

 ぐわんぐわんぐわん……

 ブランコに揺られているような。いやもっと早くて大振りな乗り物に、無理やり乗せられているような。——そう、ちょうど遊園地のアトラクションで乗ったことのある、バイキングに乗船しているような浮遊感。

 (うぅ……)

 この手の全身が丸ごと横移動を(しかも高速で!)繰り返す体験が、俺はすごく苦手だ。「気持ち悪い」と思ったが、不思議なことに吐き気はない。三半規管がやられてしまっているという感覚も……思うとそれほどない。

 (もう何なんだよこれ。いったい今俺は……?)

 ——と、ぴたりと急に、その全身が揺さぶられるような動きが停止した。

 (止まった)

 と思ったのも束の間、またもバイキングに乗っているような感覚が再開した。

 ぐわんぐわんぐわん……

 しかし今の再開までの数瞬に、微かな音を聞き取った。

 ピポ……ピポ……

 ピポ……ピポ……

 遠くから……

 いや、近くから……

 聞こえる……

 これは……

 (信号機の音?) 

 耳も何だか、耳栓でも詰められたように聞こえづらかった。

 目を開けてみる。——が、見えない。しかし何も見えない暗闇というわけではなく、何か見えづらい。視界の全体に薄靄がかかっているようだ。

 (ここはどこだ)

 目線を縦横に走らせて、事態の早急な把握を試みる。

 (む、これは靄じゃない。白い、目では識別できないほどの細かな繊維で囲まれているみたいだ。これはガーゼ?)

 視界が丸ごとガーゼで、遮られているというのか。

 目隠し? 誘拐?

 (何なんだよこれは)

 苛立ちながらも俺は、光で透けたガーゼを通して覗くような感覚で、見えづらさの中、何とか外界を見通してみる。

 (これは……)

 おぼろげだが見える。

 ……歩行者用信号機。

 (今は赤だ)

 横断歩道の上を車が通っている。手前には、信号待ちの人々が居て……。

 やがて信号が青になり、人々が歩き出す。

 ——と、またぞろ身体全体が高速の横移動を始めた。そして——。

 「どうぞ……どうぞ……」

 不良になった聴覚でも、はっきりと聞き取った、その声。

 (この声は……。いやまさか、そんな……)

 声の主は俺の頭上に居た。

 目深に被った帽子の影に、妖しい笑みを湛えながら、

 「どうぞ……どうぞ……」

 と、連呼するがいた。すなわち、これは……。

 (まさか、そんな絵本みたいなことが?!。俺がと?)

 俺は高速横移動をして——それはポケットティッシュになってしまった俺を、あいつが配ろうとしている動作のこと。そしてここは、前に俺があいつからポケットティッシュを受け取った、最寄り駅前の信号……。

 (なんでことだ)

 絵本のオチとしては三流だ。超現実的だけれど、俺=ティッシュだなんて、ファンタジーと云うには全くもって似つかわしくない。夢や幻想なんて、これっぽっちも感じない。

 (やだ。いやだ。俺がポケットティッシュだなんて……)

 そして遂に、その時が訪れてしまった。

 「どうぞ」

 「——どうも」

 はまだ現実を受け入れることもできていない状態で、さっさと通行人に受け取られてしまった。そして惨めにも、俺は狭苦しいポケットの中にねじ込まれた。


 カチャ、と掛金が降りる音がした。

 もそもそとズボンを降ろす音が聞こえる。

 「はぁ」

 さっき俺を受け取った通行人の溜め息だ。声音からして、中年のおじさんだろう。

 (よりによってオッサンかよ)

 ポケットの中で身動きが取れない(どちらにせよ不可能である)俺だが、何とかティッシュから元の状態に戻れないかと考えていた。

 (どうすれば……)

 「ん゛ん゛、げほっげほっ、がー」

 痰の絡んだ汚い咳が聞こえた。

 「ちっ。ああ、あれがあったか」

 (ま、まさか)

 ポケットをまさぐる手に捕まり、俺は外に引き摺り出された。

 そして——。

 シュッシュッと、俺のが引き抜かれた。

 「ぺっ」

 「ぎぃやあぁぁぁぁ!」

 べっとりと粘っこいおじさんの痰が、俺の全体にへばり付いた。

 「ふぅ」

 丸められてもう片方のポケットに入れられた。

 ……

 ……ずずっ。ずずっ。

 「ハックション!」

 (いやだ。もう……)

 「ちっ。もう一枚」

 おじさんは、俺のを摘み上げて、豪快に鼻をかんだ。

 (う……うぇ……)

 ジュルジュルとした黄色混じりの粘液が俺に纏わり付く。

 ぐちゃぐちゃに丸められて、先ほどの痰の付いた俺が待つ方のポケットに入れられた。

 (いや。いやだ。もう嫌だ!)

 綺麗な俺は残り半分となり、如実に生命力が低下していくのを感じた。

 逃げ出したいのに、逃げ出せない。

 (何も悪いことしてないのに)

 抵抗できぬまま、ただ一方的に押し付けられるだけの存在。

 ……

 ……

 「……ふぅ」

 暫しの静寂の後、何やらスッキリした雰囲気の溜め息を、おじさんが吐き出した。

 「あん? ないじゃないか」

 (……?)

 「ちっ。ついてねぇなぁ」

 おじさんが何かを、くるくると指で弄んでいる音が聞こえる。カラカラと空転する音。

 (これは……)

 (トイレットペーパーの芯!)

 (ということは……)

 気付いた時にはもう、俺は、おじさんの手中にいた。無造作にを抜き出して、やおら立ち上がり、そして……。

 (お前の責任を俺に転嫁するな!)

 (尻拭いは自分でするもんだろ!)

 (自分のケツは自分で拭け!)

 迫り来る茶色い闇に、俺は思いつく限りの批判をぶつけた。しかし為す術なく——。

 (や、やめてくれえぇぇぇぇぇ!)

 ……

 ……

 ……気を失った俺は、そのまま汚物だらけの濁流に飲み込まれ、虚しく散り散りになり死亡した。

 似た境遇にしても、やはりまだの方が良かったと、そう感じた。

 途切れ行く意識の中。

 あの店——<古民家カフェ チリガミ>で見た、あの綺麗な和紙飾りのようになりたい、生まれ変わったらそうなりたいと、俺は固くに誓った。

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超短怪談(ちょうみじかいだん) シミュラークル @58jwsi59

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