『ティッシュの怪(2)』

 点在する民家に紛れて、その店はあった。

 <古民家カフェ・チリガミ>と書かれた木の看板。その傍らには、古風な紙製の傘が飾られていた。店の窓からも、和紙で作られたとおぼしき小さな花たちが覗いていた。

 「いやぁすごく良い外観だなぁ」

 思わず感嘆が漏れた。

 知らない駅。知らない町。知らないカフェ。期待に胸を高鳴らせながら、俺は扉を開けた。

 カランカラン、と来客を告げる扉の鈴が鳴った。そして、俺はハッと息を呑んだ。

 「これはまた壮観な……」

 店内はやや暗め。蛍光はなく、代わりに無数の大小形様々な小窓から、日の光を採っているようだ。

 そして——。

 それよりも何よりも、吹き抜けの高い天井から垂れ下がった無数の和紙細工の数々。“吊るし飾り”と云うのだろうか。細い紐に連なるようにして、金魚や手鞠てまり、鶴など、他にも“和”をモチーフとした考え得る限りの作品たちが飾られていた。そして中には、淡い光を発しているものもあった。なるほど、この和紙灯篭の仄かな灯りと外からの細やかな自然光で、店内のこの趣ある薄暗さが成り立っているというわけか。

 このような文化に対しては、ほとんど無知な俺ではあるが、これが途轍もなく美しいということだけはわかった。

 ひとつ一つの装飾に舌を巻きながら、首をぐるりと回し観察していると、

 「お客さま一名……ですね」

 前方から声を掛けられた。

 「あ、はい。すみません。つい見惚れてしまって。ほんと、圧巻で。これはすごいですね」

 「それはどうも」

 この店の店員(店主?)が、すぐ目の前に立っていた。近付いてきた気配もなく、気付くとそこに居たので少しびっくりした。

 「お好きな席に」

 鍔付きの帽子を目深に被ったその(男が女か分からない)店員は、俺を席に促した。内装にばかり気を取られて、これまた気付かなかったが、店内には他の客がいなかった。これは「ラッキー」と捉えてもいいのだろうか。“白紙駅”と云い、歩いてきた“覚書町”と云い、この<古民家カフェ・チリガミ>と云い、人っこひとり居なかったのだ、俺以外に。ぽつぽつと建っていた古民家にも全くと云っていいほど人気ひとけがなかったので、流石に気味が悪くなったが、店員は居たので良かった。店員まで不在とあらば、いよいよ神隠しを疑うところだ。

 入ってきた扉に1番近いテーブルを選んで俺は座った。心理的な不安のためか、よく分からないが、何か「ヤバいもの」が迫ってきてもすぐ逃げ出せるように、と自然とこの席を選んだのかもしれない。

 一旦奥の厨房かどこかへ消えた店員が再び現れた。

 「メニューをどうぞ」

 「え」

 「どうかしましたか、どうぞ」

 「あぁ、いや……」

 (どうぞ…どうぞ…。聞き覚えのあるこれは……)

 華やかな花柄の和紙で出来た薄いメニューを俺は受け取った。

 「あの……」

 「はい」

 「いや、何でもないです……。すみません」

 「では、、どうぞお呼びください」

 「ん……」

 店員は一礼して去って行った。引っ掛かった違和感を言語化する隙も与えず、足早に奥へと引っ込んで行った。

 (『ご注文する気になられましたら』……)

 首を傾げながら、仕方なく、俺は手元のメニューを開いた。

 すると——。


 『特製コーヒー 無料タダ


 そこには“ページ”はなく、メニューは単なる見開きだけだった。そして、その真ん中に細々とした字で、『特製コーヒー 無料タダ』、とそれのみが書いてあった。

 「メニューは、コーヒーのみ……」

 0.5mmのシャーペンで、しかも握力をほとんど加えないで書き上げたような、か細い文字。蚊が書く字はこんなだろうなと他愛もないことを考えてみる。もはや、その文字——その特製コーヒー自身が、人前に出るのを恥じらって、頼まれでもしたくないような、そんな印象を受ける。

 そしてかくなる上は、値段『無料』ときた。おかしい。いや、あまりにおかし過ぎる。

 「はぁ……。俺はやっぱり変な世界に迷い込んじまったんじゃねぇか。いつから? もしかすると電車の中で居眠りしていた間に……」

 俺は慌てて被りを振る。「別にスマホは使えたんだし、異世界というわけじゃないんだ。この店の感じに呑まれるな」と己に言い聞かせた。

 両手に広げていたメニューをテーブルに置く。とそこで、テーブルの上によく考えてみれば奇妙なものが置かれていた。

 「コースター? まだ水もコーヒーも来ていないのに」

 喫茶店なら普通、飲み物と一緒にコースターが来るはずだ。しかしここには、既にコースターが置かれている。これも和紙製だろうか、触ったところ、水が染み込めば、たちまち破れてしまいそうな繊細な手触りだが……。

 何となく嫌な予感がして、そして俺はコースターを裏に返した。すると、そこには……。

 

 『●コーヒーは絶対に溢さないこと』

 『●間違っても溢さないこと』

 『●命に替えてでも溢さないこと』


 (これは……。この文句の連なりは…)


 「コーヒーに対してそんな大仰な……」と、今日の朝、駅前での自分の言葉と否応なく重なるセリフが脳内で創作されて、俺は理解し難い不気味な情感に襲われた。

 「そうか、『注文する気になられましたら』とは、こういうことか」

 “命懸けのコーヒー”、そんなものがあるのか。一体全体、この店は何を意図しているのか、さっぱり分からなかった。しかしここで「やっぱり退店します」と言い出せる雰囲気では、到底ない。やはり俺はもう、日常とは一線を画す別世界に足を踏み入れてしまっていたのだ。そんな想いが段々と膨らんできて、綺麗だと思っていた店内に、もはや慄然としたものを感じていた。

 (たぶん……いや、絶対に、この店から生きて出るには頼むしかない、このコーヒーを)

 意を決し、俺は言った。

 「すみませーん」

 唇が震え、情けない上擦った声になった。

 すると奥の暗闇から、と例の店員が出てきて、すーっと滑るような足取りでこちらに近付いてきた。

 「ご注文する気になられましたか」

 「……はい」

 俺は生唾をごくりと飲んで、

 「『特製コーヒー』をお願いします」

 と言った。

 「かしこまりました」

 そう云うなり、店員は軽く一礼し、こちらの決然とした想いなど、気にも留めないようなテキパキとした動きでメニューを片付け、またすーっと奥の暗がりに消えていった。

 しばらく経って、店員が姿を現した。湯気が立ち上るコーヒーを盆に載せて、今度は、いやに慎重な足取りで、こちらに来た。

 「——どうぞ」

 「どうも」

 (これも……この会話も……)

 そして机に置かれたそのコーヒーは、白くゆらめく湯気と共に、丁寧に焙煎されたとわかる香ばしい匂いを燻らせていた。

 恐怖を和らげる程に良い匂いのコーヒーだったため、一瞬、『カフェでゆっくり読書でも』という本来の目的が思い出されたが、それも次の瞬間で打ち砕かれることになる。

 「こ、このカップって一体……」

 またも俺が疑問を口にする前に、店員は去って行ってしまった。

 そのカップ——真っ黒なコーヒーが注がれた白いコーヒーカップは、明らかに異常な形をしていた。指を掛ける把手はなく、さらにはカップ自体が、なんとの形状をしていた。つまり、工事現場などに置かれているカラーコーンを、そのまま逆さにしたような、「こぼれます」と言わんばかりの形なのだ。流石には、若干ひらたくなっていて、それでやっと受け皿の上で均衡を保てているという感じだ。

 「これを溢さず飲み干せと?」

 特異な形状。熱々の本体。……しかしここでまたしても、「温かくて美味しいうちに飲みたい」という気の抜けた欲求がもたげてきた。どう考えても、これの“攻略法”は、テーブルには一切触れず、振動で転倒するリスクを避け、高温に対する脊髄反射を考慮して、きちんと冷めるのを待ってから、一気に飲み干す、こと。

 が、しかし——。

 (こんな美味しそうなコーヒーだ。やっぱり冷ましちゃ勿体無い)

 その香りに幻惑されるようにして、俺は瞬時に自制の意志が吹っ飛んでしまった。ただ目の前のカップの中身を飲み干したいという衝動が、唾液の分泌を促し、喉を刺激した。

 「よし。とにかく溢さなきゃいいんだ」

 逆カラーコーンの縁を両手の親指と人差し指で、爪を立てるようにして持ち上げ(つっ……熱い)、気持ちははやりながらも、なるべく慎重に、口元へ運んだ。

 ずずっと啜る。

 「美味しい。これはうまい」

 酸味は控えめで、苦味や香ばしさを中心に構成された複雑味。だけど、「うまい」と単純な感想を述べられる、そんなコーヒーだった。

 「ふぅ」と副交感神経が優位になったとわかる息を漏らしながら、俺はカップを皿に置いた——はずだった。

 カップを持ち上げ、コーヒーを飲んで、その味を舌の上で転がしている間——その数瞬の間ですっかり俺は、そのカップが異常な形状であることを失念していた。

 「ああ! あぁ……」

 黒い液体が、白い皿、テーブル、と侵食して、気付いた時にはもう「覆したコーヒー、カップに返らず」という状況になっていた。

 (やっちまった……)

 恐る恐る店の奥を見遣る。倒れたカップの音は結構響いたはずだが、あの店員は出て来ない。

 (仕方ない。拭くか)

 そこでまた気付く。このテーブルの妙な点。通常テーブルには置いてあるものが、今度は、のだ。

 「あれ? 紙ナプキンは? あれ……」

 なんと紙ナプキンがなかった。普通、カフェのテーブルには常置してあるはずの、汚れた口やテーブルを拭くための、あの……。

 一度、カップを元に戻したが再び倒れ、中身は一滴残らず外へ流出してしまった。

 「くそ。もう……なんでこんな。……って、があった。が」

 履いてきた——今や黒いシミが出来てしまった——ジーンズの狭苦しいポケットから、あさ駅前でもらったポケットティッシュを取り出した。

 「よし、これで」

 1枚、2枚と取り出して、まずジーンズのシミになった部分に当てた。そして残りの全部を無造作に取り出して、テーブルに広がったコーヒーに浸して、吸い込ませた。

 ……しかし、あまり水分を吸い込んでくれない。すぐにふやけて千切れてしまう。吸水を目的として作られたわけではないような、そういう感じだった。質感が何というか、“ティッシュ”というより“紙”。それこそ、“和紙”のような……。

 「お客さん」

 「うわっ!」

 店員がすぐ側まで来ていた。

 「コーヒーを溢してしまいましたか」

 「えぇ。その、すみません……」

 「そして手近に紙ナプキン等、が無かったから、ポケットに入っていたポケットティッシュを使って、コーヒーを拭いたと」

 「……はい。でも、これではうまく拭けなくて」

 店員は落胆した様子で溜め息をついた。

 「紙の悲鳴が、ティッシュの悲鳴が聴こえませんか?」

 「はい?」

 「紙ナプキンだって、ポケットティッシュだって、れっきとした“紙”なのです。それを、人間の生み出した醜い汚れの尻拭いに使われて。本当は人の責任なのに、人々はこぞって、ティッシュなどの“紙”に自らの責任を押し付けて、責任転嫁を……」

 そこでようやく俺は思い出した、このポケットティッシュの裏——この店のコースターと酷似したあの文句を。


 『●ティッシュは大切に使うこと』

 『●ティッシュの尊厳を踏みにじらないこと』

 『●ティッシュへの責任転嫁は絶対にやめること』


 そして、あさ駅前でティッシュ配りをやっていた若者(?)と酷似しているこの店員。帽子を目深に被った店員(彼? 彼女?)は、先ほどから、“紙”を“”のイントネーションで発音している。

 「あなたは、あなた方は、そんな“紙”であるティッシュを、せめて白紙のノートや覚書めもとして使うこともせず、冒涜的な用途にしか使わない」

 「でもティッシュは、ペンを走らすのには向いていないじゃないですか」

 と半ば反射的に口を挟んだ。

 「いえ、そのポケットティッシュは、それができたはずです。質感でわかるでしょう。なのに、あなたはしなかった。溢したコーヒーを吸わせることに使った」

 「で、でも……」

 俺の発言を遮るように、

 「この素晴らしき“紙”たちを見てください」

 店員は天井を振り仰いだ。

 「“紙”は本来、こう使われるべきなのです。人という下卑た存在の手からでも、紙はこんなにも美しい姿形へと変化を遂げることができるのです」

 「……」

 「あなたは失格です。不本意かもしれませんが、あなたを、まだ見ぬ同志の選別に利用させてもらいます」

 そう云って店員は、目にも止まらぬ滑らかな所作で、胸ポケットから白く柔らかな紙(布?)を取り出し、それを俺の顔に被せた。

 「ちょっと、何を……」

 ふわっと何やら良い香りがして、と思うが早いか、一気に意識が薄らいでいき、不思議とリラックスした気分に包まれていった。

 (……これは、美容院で頭を洗ってもらう時の……)

 (いやこれは……お葬式で故人の顔に載せられる……あの……)

 「に召されなさい」

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