第2話 憔悴

 それからの日々は激流のように過ぎていった。婚約破棄の余波は、時とともに大きくなり、貴族界にも大きな話題を呼んだのだった。


 公爵家の次期当主が婚約破棄、そしてあろうことか婚約者の妹をはらませるとは。もちろん隠し通すことは不可能で、ことが落ち着くまではフリードはアナスタシアとの面会禁止、そしてアナスタシアは自宅謹慎が王室から直々に言い渡された。


 アナスタシアのこれからの処遇については伯爵家に任せる、ということだったが、ローズガーデン当主ハイドは胃痛を起こすほどのストレスと苛立ちに満ちた日々を送ることになった。


 愛する娘がこんな形で傷つけられ、しかもその原因はよりにもよって娘にあるというのだ。捨てても捨てきれない娘への愛情が、アナスタシアを厳罰に処すことをためらわせている。それでもアルテミシアのためにも行動に移さなければならない。ずるずると決断を遅らせているうちにも、時間はどんどん過ぎ去っていった。


 そんな騒ぎも、アルテミシアにとっては別世界で起きている出来事のようにぼんやりとしていた。アルテミシアはそれから部屋にこもりきりで、誰とも会おうとしなかったのだ。メイドが食事を運んで行っても返事をしないか、珍しく食事をとってもほんのわずか。


(全部どうでもいい)


 アルテミシアの世界はもはや、粉々に壊されている。鋼のように盤石だと思っていた地面はガラスで、いとも簡単に砕け散ってしまった。こころが空っぽだった。結局、涙を流すことはなかった。なぜか、感情が湧いてこないのだ。食事をとろうとも思わないし、不思議とお腹もすかない。夜になると、とろとろと浅い眠りについてはすぐに覚醒することの繰り返しだ。


 アルテミシア自身も、自分自身というものがなんなのかわからなくなっていた。私は今ここに存在するのだろうか? もしかしたら、これも悪夢の続きなのかもしれない――。


 〇


 毎年七月には、王室主催の狩猟大会が開かれる。貴族界では名物行事で、年中行事の中でもひときわ賑わいを見せるイベントだ。貴族の男児たちが馬に乗り、制限時間内で獲物を狩る。一番多く狩った者が優勝となる。催し事には一家そろっての出席がマナーだ。だから、世間の好奇の目にさらされることになろうとも、出席せねばならない。


 アルテミシアも、それは理解していた。だから、何日かぶりに部屋のドアを開け、幼いころから世話をしてくれる専属メイド一人だけを通した。ほぼ二週間ぶりに娘同然に慕う令嬢の部屋に入ったメイドのカルラは、彼女のあまりの痛々しさに涙を流しかけた。


「お嬢様‥‥‥」


 ひどく散らかっていることを覚悟していたが、部屋の中は寒々しいほど整然として、ぽつんと窓辺に座って外を眺めるアルテミシアだけが存在感を放っていた。


 ここで自分が泣くのはお嬢様をさらに苦しめる。カルラはごまかすように両手を打ち鳴らし、微笑みかけた。ドレッサーの前にアルテミシアを座らせ、彼女の黒髪にブラシを通した。何度も何度も。まるで絹のように滑らかだった髪は、少しだけ傷んでしまっている。アルテミシアは鏡に映る自分の顔を見つめたまま微動だにしない。


 髪を解かし終えると、カルラはそっと彼女の手を引いてこちらへ向かせた。光のない目でこちらを静かに見上げてくるアルテミシア。ますます白く、青白くなったアルテミシアの頬。小さな顔の中で、ローズガーデンの一族らしい紫の瞳だけがぎらぎらとしていた。


 前は化粧などせずとも、本来の美貌だけで補ていた。けれど、こんな青白い顔で人前に出させるなどカルラのプライドと愛情が許さない。覚悟を決めて、カルラはおしろいに手を伸ばす。


 ドレスを着せる番になると、カルラはさらにアルテミシアの憔悴を思い知ることになった。


 コルセットをいくら締めても、アルテミシアの腰が細すぎてうまくいかないのだ。コルセットは使い手の体にフィットするように特注する。アルテミシアはこの2週間の間に、まるで病人のように痩せてしまったのだ。今度こそ本当に泣いてしまいそうだ。カルラはコルセットのひもを両手にうつむく。


(どうしてこんなことに)


 なぜアルテミシアはこんなに傷つかなければならないのか? この子がなにをしたというのだ。カルラは、結婚式を間近に控え、緊張しながらも楽しみにしていたアルテミシアをずっと見ていたかったのに。


 コルセットは諦め、代わりに背中をリボンで編みあげることにした。薄桃色のサテンのリボンで丁寧に。深い緑のドレスに、ピンクのリボンはよく映えた。大きなボンネットをかぶれば、誰もアルテミシアの憔悴には気づかないはずだ。


「終わりましたよ」


 アルテミシアはこちらへ振り返った。左手でスカートをなでる仕草は、アルテミシアの幼い頃からの癖だ。美しいドレスをまとって、表情をまるで変えない様子はまるで着せ替え人形のよう。怖いくらいに美人だったが、怖いくらいにこの世のものとは思えない冷たさがあった。


 口を開かないアルテミシアを優しく見やり、カルラは静かにドアの方へ向かった。部屋を辞そうとした時、ふいに凛とした声がかかった。


「カルラ」


 振り返ると、敬愛する主人が、静かな面持ちでこちらを見ていた。久しぶりに出したであろう声はかすれていたが、それでもよかった。


「ありがとう。今日はうまくやるから、心配しないで」


 それきり、アルテミシアは口を開かない。にこりともしなかったが、彼女がまだ「生きて」いることを感じ取ることができた。まだアルテミシアは息ができている。それがなんと幸せなことか。カルラは涙がこぼれたのを悟られないよう、急いでお辞儀をして部屋を出たのであった。


 〇


 王室から直々に外出禁止を言い渡されているアナスタシアを除いて、一家は馬車に乗り込み会場へと向かう。無理していかなくてもよい、とハイドは久しぶりに顔を合わせた娘に告げたが、アルテミシアは小さく、けれどしっかりと首を振った。


「貴族たちの好奇心を掻き立てることになりかねませんが――私はこれ以上弱くなりたくありません」


 母親のヴィルヘルミナは、すっかりか細くなって、目ばかり光らせている娘を抱きしめる。ヴィルヘルミナも長女が受けたあまりの仕打ちに悲しみこそすれ、強い怒りも覚えていた。娘の黒髪に鼻をうずめると、ふわりと甘い香りがする。


 会場へ迎えば、そこにはフリードがいる。これ以上にアルテミシアがショックを受けるのではないかと、一同は心配していた。七月の強い日光にさらされることも不安である。しかし、家族の不安はよそに、アルテミシアは予想を裏切る対応ぶりを見せた。


 会場は、森林を切り開き人工的に作られた芝生である。巨大な天幕がいくつも立てられ、その中では観客たちがにぎやかに談笑しながら開会を待っている。アルテミシアは深くボンネットをかぶり、一通りの知り合いにあいさつに回る。事件を知っている者たちは最初、憐憫の色をたたえてアルテミシアに接したが、思いのほかしゃんとした挨拶が返ってきた。


 悲しみのあまり正気を失って部屋にこもっている、という噂とはまるで真逆である。妹に婚約者を寝取られた、というマイナスなイメージは、アルテミシアが会場に顔を出したことによって徐々に払拭され始めていた。アルテミシアが気丈にふるまえばふるまうほど、公爵家長男フリードと、アナスタシアへの侮蔑は強まっていく。


 無理をしていないか、という父の問いにもアルテミシアは首を振った。いきなり外へ出て人に会ったことへの負担はもちろんあったけれど、何よりも気持ちが上向き始めていることがアルテミシアにはうれしかったのだ。


 もう死んでしまおうとも思った。妹が婚約者の子を産み、育てる中で生きるくらいなら、そんな屈辱を受けるくらいならいっそ死んでしまった方が良い。けれど、久しぶりに髪を整え、ドレスをまとったら、なんだか鏡に映る自分が自分ではないような気がしたのだ。


 私はまだ、生きている。


 ドレスを着て、美しく着飾ることもできる。まだ、息をしている。


 そんな思いから、アルテミシアは部屋から出ることに決めた。いつまでも悲しみに沈んでいる場合ではない。だって私は何も悪くないのだから。ちゃんと、生きよう。あちらが変わらないのなら、こちらが変わるしかない。


 〇


 角笛が鳴り響き、解除のざわめきはぴたりとやんだ。


 ひときわ大きな天幕から馬が引かれ、続いて乗り手たちが登場すると、嵐のような喝采と歓声が沸き起こる。数人の従者と猟犬を引き連れて、王子たちの後からフリードが出てきたときは、さすがに息が苦しくなった。あの日がフラッシュバックしかけて、アルテミシアは慌てて息を吸う。


 フリードの後から登場したのはその弟であるミハイル。ワインレッドの髪に緑の瞳をしている彼は、つい最近まで王子付きの近衛兵として働いていた。アルテミシアも、王室で行われるお茶会や舞踏会で何度か顔を合わせたことがある。すべてを見透かすような鋭い目つきが特徴的だったのを覚えている。そんなミハイルも、20歳という節目を受けて、役目から解放された。


 ひらりと馬にまたがり、出場者たちは角笛の合図で一斉に森へ駆けて行った。


 〇


 彼らが戻ってくるまでは、再び雑談の時間となる。お菓子やお茶、そして少しのお酒がふるまわれると、観客たちのざわめきはいっそう大きくなる。


「ローズガーデン嬢、どうかお気を強くお持ちになってね」


 隣に座っていた男爵夫人が声をかけてくる。


「〈秘された白薔薇〉のあなただもの、きっとすぐにお相手が見つかりますことよ」

「ありがとうございます。フレームガード男爵夫人」


 アルテミシアはにこりとしたが、心のうちは複雑だった。次の相手など、自分に現れるのだろうか? この世界では、評判が命だ。不祥事があれば、なるべく関わりを絶ち、悪影響が自分の家にも及ばないようにするのが自然だ。18という若さで婚約破棄されたという事実は、深い禍根を残す。婚約破棄という烙印を押され、一生つきまとわれる肩書になるだろう。


 考えるだけで頭痛がする。アルテミシアはスカートの上にそろえた手をぎゅっと強く握りしめた。


 角笛が再び鳴り響き、しばらくすると森から続々と馬が戻ってきた。歓声の中で、出場者たちは馬を寄せ合って肩を組む。お互いの戦績をたたえ合っているのだ。それぞれの獲物の数が数えられる様子を、アルテミシアはぼんやりと眺めていた。


「フリード・ド・ゴールドスタイン殿! 鹿一頭、鳥五羽、猪二頭! 暫定一位となっております」


 伝令が叫ぶと、会場から弱々しい拍手が起こる。続いてミハイルが紹介された。


「その弟、ミハイル殿は……なんと素晴らしい! 鹿三頭、鳥七羽! そして――なんと、この獲物は全て、〈秘された白薔薇〉アルテミシア・フォン・ローズガーデン嬢に献上されるということです!」


 会場が静まり返り、どよめきが広がった。


 どよめきの中で、当の本人アルテミシアは呆然としていた。思考が追いつかない。これは、一体何の冗談なのだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どん底に突き落とされた伯爵令嬢が再び恋をする話。 七沢ななせ @hinako1223

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ