どん底に突き落とされた伯爵令嬢が再び恋をする話。

七沢ななせ

第1話 絶望的な宣告

「すまないアルテミシア。君の妹が俺の子供を身ごもった」


 十八年という人生の中で、これよりも絶望的な言葉をアルテミシアは聞いたことがなかった。婚約者である公爵家長男フリードは目を伏せ、そのブルーの瞳に映る表情はうかがえない。何度も通ったフリードの執務室。一緒にお茶を飲んだり、くだらない話をして笑いあった思い出の場所は、一瞬にして地獄に変わった。


 どうして、が頭の中を数百回。


 ぐるぐると回る思考はつかみどころがなく、なんだか地面が揺れているような気もする。喉の奥が砂漠みたいに乾ききり、声を出すこともできない。


 どうしてこんなときに、が頭を数千回駆け巡った後、アルテミシアはやっとのことで口を開いた。


「婚約、破棄――ですか」


 口にするのも恐ろしい言葉。言ってしまった後、すぐに後悔する。はた目にもわかるほど唇が震えだしたからだ。息をうまく吸えない。アルテミシアにとって、彼からの婚約破棄は死刑宣告を言い渡されたも同じだった。


 大好きだった。ほんとうにほんとうに好きだったのだ。フリードの顔を見るたびうれしくて、どうやったらもっと笑ってくれるのか、そればかりを考えていた。これからの結婚生活を夢想しては幸せな気持ちに浸っていた。


 どうして。どうして? 私が何をしたというの……?

 

 けれど、ここで彼に縋りつくのはあまりにもみっともない。そして、涙を流すのはあまりにも女々しい。今アルテミシアは、ローズガーデン伯爵家の長女、という誇りと尊厳だけを支えに立っていた。どんなときも誇り高く。その姿だけは守り抜こうと、アルテミシアは浅い息を吸う。


「そうだ。アナスタシアを身ごもらせてしまった以上、私は責任を取らなければならない。君とは――婚約破棄になる」


 言いにくそうに、フリードが言う。彼の顔には悲壮感が漂っていた。どうしてあなたがそんな顔をするの? 徐々に怒りとも悲しみともつかない感情がこみあげてきて、アルテミシアはうつむいた。そうしたいのは私の方なのに。あなたがそんな顔をしたら、まるで私が悪いみたいじゃない。


 〇


 アルテミシアは、フォン・ローズガーデン家の長女だった。濡れたような黒髪と、深い紫の瞳。雪のように白い肌に、桃色の唇。その美貌は幼いころから完成されていた。外見の美しさと、どこか儚げな雰囲気。そしてローズガーデン家からあやかって、「秘された白薔薇」と呼ばれるほどである。


 方々から縁談が申し込まれていたアルテミシアだが、五歳の頃からド・ゴールドスタイン公爵家に嫁ぐことが決まっていた。その決定にアルテミシアの意思は一切反映されていない。貴族社会では当たり前の政略結婚だが、アルテミシアはいつか彼の妻になることを目標にして、これまで生きてきたのだ。


 対して、妹のアナスタシアは15歳。紫の瞳、という点はアルテミシアと同じだったが、そのほかは全く違っていた。アルテミシアが薔薇なら、妹はひまわり。活発で明るいアナスタシアの周りにはいつも人がいた。おねえさま、と慕ってくる姿は本当にかわいかったし、家族として心の底から愛していた。


 この二人が、アルテミシアの知らないところで会っていたなんて。吐き気がこみあげてきて、アルテミシアは強く唇をかみしめる。


(私、馬鹿みたい)


 自分への嘲笑が唇に浮かんだ。


 こんなに愛して、愛して、愛していたのに。すべて無駄だったというのか。アルテミシアにとっての大切は、一体何だったのか。


 もう誰も、何も信じられなかった。


 〇


 どうやって「元」婚約者の部屋を辞し、侯爵邸を後にしたのかという記憶はない。気が付けば伯爵邸の自室で横になっていた。呆然自失とするばかりで、なぜか涙は出てこない。誰にも会いたくなくて、アルテミシアはその日夕食を抜いた。


 ああ、私はどうして、ここで一人なんだろう。

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