第9話 一番高い塔の上で

ああ、考えが僕の無意識に入り込む前に、繊細な日々の医者の指でそいつを摘出出来はしないだろうか? 寝て覚めれば、僕はまた、これまで通りの僕ではいられないか?……僕は昨日のことを上手に、いつまでも全く同じに、思い出せる?……伊吹、伊吹の輪郭を一度掴み損ねれば、指先から落ちる砂粒のように失われていく、だったら、過去は、もう完全に今僕の目の前にある分だけだろうか?……どうか、僕の動物としての機能が、そして生活の習慣が、どうか上手に今日の僕から昨日の僕よりはみ出す部分を削除してくれますように……あの憎たらしいがん細胞が僕を一新してしまうより先に……夢は覚めると同時に輪郭を失い、現実は夢のなかに溶けいるように、僕が昨日のままの僕でありますように! なあ、お前が身もだえするほどに望んだ神の恩寵など、伊吹の中に消えてしまえ……目を閉じると隣には伊吹がいた。天を仰がなくとも伊吹の鼻呼吸を肌に感じることが出来た。話しても、話さなくても、僕と伊吹はいた。そして僕は思い出したのだ。そうだこんな日だった。僕が熱でぶっ倒れ、道端で伊吹に電話したのは。もしもし伊吹? 聞こえる? 迎えに来てよ、ちょっと歩けなくてさ、うん、風邪かなあ、うつったの、あの公園だよ、お願いね、ごめんね、この夜だった、お風呂上がりの伊吹は夜着に身を包んで、熱でうなされた僕をさらいに来たのだった。なんだよ伊吹、もう頬は痛まない? 遠い昔のことだったみたいだね、まるで本で読んだ出来事みたいだ、家にもう帰ってたんだねぇぇぇ、俺も、もうちょいで帰るところだったんだけど……ああ、考えがまとまらないよ、あのときみたいにさ、口から言葉が零れてく零れてく……もう、こんな口塞いじゃっていいよ伊吹、その手のひら、唇、眼?で見つめられるだけで……ええっと、それから僕たちは家に帰って、僕と、伊吹は、ベ……ッドに寝転がり、話をする。今日、明日、明後日、未来永劫をその中に閉じ込め、僕、僕は、ひそかに唇の端を噛み、目の端に原因不明の涙を溜めながら、伊吹のことを睨む、その腹の肉、その目尻の、その耳の痙攣の、その黒目の不動の……夜が、風が、窓の外で、絵の具のように渇いてくのを感じるんだ……伊吹はごめんねと謝る、あんな男と飲みになんか行ってごめんねと、もうしないよ、もう、だって私には葉子がいるでしょ? と……伊吹は、んーー、んーー、と鼻で息をし、眠る……やがて、僕は、そっと抜け出して……


 *


 僕にはもう寄りかかるところなどどこにもなかった。怠惰の底が抜け……落下が始まると、僕の手は四方に伸びた、なにか掴むことができるもの……僕のこの精神? あるいは僕を僕たらしめる過去の存在? はたまた、輝かしい未来? 神の導き、恩寵? 天上から垂れた一縷の蜘蛛の糸……そんなのどこを見渡したって……やがて、僕は目も眩むほどの落下の果て、惨めにも床に倒れる、敗北はもはや様式美的にあっけなく、滑稽で、僕はこのマゾヒズムというせめてもの地の塩を舌で舐める、ざらついていてとっても不快……この夜に僕は横たわる。言葉? 記憶は猛スピードで沸騰し、もう僕の意識では追うことが出来ない。それは文字も刻まないタイプライターみたく、紙の上に、僕の頭ん中に定着しない。ただ走り去る? 走馬灯? そんなものではない。記憶は思い出すようなそんなものではなく、ランダムに光る夜の海、のように、僕の無意識領域の中からぱっと沸き立ち消える。ランダム? そうではなく、単に途方もなくて僕には規則性を見つけられない規則だ……僕はその発光の奴隷になる、穏やかに小人に身を譲り渡したガリバーのようになる。今夜、僕は伊吹に迎えに来てもらい、その肩に身をよりかけると、心音が止まってしまったかのように落ち着いた気分になることが出来た。僕のこの身体にひとつの心臓では重すぎて、僕は伊吹とそれを分け合うことで、ようやく安心することが出来た。伊吹が風邪をひいてしまった僕を、それはそれは丁寧にベッドに寝かしつけて、大丈夫? 大丈夫? そうやってうろたえてた。僕は、伊吹らしくないよ、そんな言い方、今日はやけに弱ってるよ、俺じゃないよ、伊吹が。だって私のせいだ、葉子、痛いところはない? ないよありがとう、痛くないよ、まるで痛くない、死なないよ、こんなことでは、俺は、ねぇ伊吹覚えてる? 俺は一晩中、俺や、伊吹が、いつ死んだっておかしくはないんだって考えに取りつかれてたときのこと、あのときは怖かったなあ、死ぬことが、ねぇ、俺もあんたもいつかは死ぬんだねえ……熱を帯びた頭はずっと同じ記憶をぐるぐると、繰り返した。伊吹……初めに伊吹がいて、お前が現れたんだ、お前がひよりを引き連れて……そうではなく、初めにひよりがあった、そして僕は伊吹と出会い、ああそうだ、ははは、そう僕は伊吹と二人で老作家を脅し、殺し、そして僕自身の才能にも飽き飽きし……ちぇっ……途端に死ぬことが怖くなり……お前が現れたんだ、僕は夜のベッドを抜け出し……なんのために? あるいは、誰のために? 恩着せがましくも僕は何度でもこれを言うけれども、それはお前のためだったんだ。お前のために、僕は考えることをやめない、お前、ああひよりも伊吹も、ねぇ、おい、分け与えるということを俺はようやく理解しそうなんだよ、感動がどのように語るか? 走るか? 生きるのか、ああ、思うだけでガタガタ震えるほどの壮大さだ。この天の高さ。夜の深さ。昼間の、明瞭さ。ああ、一粒の小石でさえ僕よりどれだけ意味を帯びていることだろう……やっぱりもう死んでやろうか? 歯がガチガチとなる。目が、やけどした皮膚のようにずり落ちそうだ。舌は、実際に、もう犬みたいに垂れさがっている。僕はナメクジのように地を這う。腹が減ったなあ!……耳、ぴくぴくと動く、鼻も、感じないことを感じられる、嫌な汗をかいて初めて、身体がこんなにも熱いんだってことに気づけた。熱い、しかしどうして? 僕の身体はまるで丸太のように汗をかき無意味だ、シンプルで、死体じみてる……そして、それら感覚の総体すべては、僕の死への滑走だったのだ……とりとめのない夢想が、痛みが痛みを呼ぶように、夜の深いところまで、僕を連れ、滑っていく、死へ向け、速く速く、意識はもうどんなにあがいても這いあがれはしない、この斜面、滑り、回転し、そしてはじき出す、自殺! するより他ない……ああ伊吹、伊吹! どう思おうと、僕は伊吹のことが好きだった、あの笑み、あの偉大な肉……わかってる、俺が一番よくわかってるんだよ……伊吹、そんでそこのお前、俺は、俺はもう絶対にそれから逃れられないんだってことを……あはは、まるで雨の日に裸で家を放り出された子供のように惨めであけすけだ、涙と雨の違いがわからないくらい気分は晴れやかだ……裸で、僕は歩き出す。なにを目指して? 僕が呼び声を聞いたのは? そう、僕の肉はどこにあるか? もしないのなら、僕の神は? そのとき一台のバイクの光が僕を見つける。バイクは止まり、よくなついた犬のように僕の足先で旋回する……


 *


 お前はヘルメットを脱ぐと、遠くに、光の中に目を細くして、僕を見つける。信じられないと言うように「葉子さんですか?」そう訊ねるから、僕は「やっほー……」力なくそう答える。お前は酒で高揚した顔に笑顔を咲かせて、かわいい犬のように頭をブルブルと振ると「丁度、迎えに行くところだった」そう嘘かほんとかわからないことを言う。僕が微笑で答えると、お前は「乗ってくださいよ、これ、買ったばっかりなんですよ」大して新しそうには見えないそのバイクの荷台にはヘルメットが結びつけられている。僕はそれを頭につける。お前の腹に手を回すと、バイクはぐんと加速する。僕はお前の忘れられた翼のように、後ろにはためき、落っこちてしまいそうだ。腕を伸ばし、ポールダンスを踊る女のように、天を仰ぐ。退化した尻尾や、つけっぱなしのアクセサリーのように、お前の速度の犠牲となって風にはためく。脱力しきってもの同然の僕の身体に、そのとき振動が届き、よく見ると、バイクを握るお前の手は、神経のせいか、それともたんに酒の影響なのか、ぶるぶる震えている。僕がくすくす笑うと、お前も呼応するように笑う。その笑いが余震であったように、僕の口はなにかしゃべりたそうにする。口を開こうとしたそのとき、トップスピードに乗り込もうと加速するバイクの速度にとうとう耐え切れず、ひもを結んでいなかった僕のヘルメットが後方に飛んでいった。そのとき……お前はビクンと身体を芯から震わせる。僕はお前の身体に巻いた腕をきつく締め付け「止まるな」そう命令する。するとお前は大きな声で「ヘルメ飛ばしました?」そう聞く「困ったなあ、あれ使うんですよ、俺、今のところ毎日、喜多さんを迎えに行ってるんですから、バイトの帰りに」お前が自嘲気に笑いながらそう言うので、僕も笑いながら「なんのバイト」するとお前は「俺じゃないですよ、喜多さんの、居酒屋ですよ、俺、免許取りたて」僕は「帰りに落ちてたら拾おう」そう言った途端、僕はそのアイデアのうんざりするほど遠い未来の部分に呆れ、会話を打ち切った。ズボンのポケットをまさぐるため、身体をよじって指を動かす隙間を作ろうとすると、お前も気が付き「どうかしました?」僕は「煙草」するとお前は「俺にも一本」僕は煙草を引っ張り出すと、じんわりと汗をかいて微振動するお前の背中に顔をぴたりと横向きにつけることで、風をしのぎ、何度もカチカチやって、ようやく火をつけることに成功した。細かく何度か吸い、しっかりと燃やすと、それを使って二本目に火をつけた。僕が名前を呼ぶと、お前は正面を向きながら器用に口だけ僕の手元に差し出すので、僕はその唇をこじ開けるよう、乱暴に、煙草を突っ込む。ようやく後部座席に落ち着くと、僕もふーと一服し……


「あははは、蜜、飛ばせよ、もっと」


「ちょい危ないかもですよ」


「飛ばせ!」


「気楽だなあ」


 お前は、言われた通りにする……


「今日も、ひよりを迎えに行ってた?」


「今日? 今日ですか? 今日はあの人、仕事なかったみたいですよ」


「なかった? ああそうか、そうなんだ」


「そうですよ? 何かありましたか? 喜多さんと」


「いいや、この前、ついさっき? そこらを歩いてたら、たまたま出くわしてさあ!」


「はい」


「それだけなんだけど。ああそうそう、お前のことも、なにか話してた気がするよ、最近はどう? なにか変わった?」


「俺ですか。俺は、とくに変わってないですね。それこそ、バイク買って、こうして送迎するようになったくらい」


「変わってるじゃん。それにしても、なんでまたお前がひよりのお迎えなんてしてあげることになったの?」


「どうして……いいや、わからない、聞きたいくらいですよ」


「いつだったっけ? 俺とお前が最後に話したの」


「さあ、いつだろう」


「あははは、お前も変わるよ、ひよりを迎えに行ってやる、なんて素晴らしいことなんだろう、詩だ、それこそが、あんたは紙の前でなく道路の上でそれを拾うんだ、頭ではなく体で書くんだ! ああ、なんてことだ!」


「あはは、ほんと、お上手で」


「何が?」


「口が」


「そう? あっ……言ったっけ? 俺はあの小説を、伊吹に喋りまくることで書いたんだよ、今でもその弊害で、たまあにペラペラ口が回るのかなあ……」


「さあ……聞いたか、聞いてないか、ともかく、葉子さん、吹っ切れてません?」


「そう思うんなら、飛ばしてよ、もっと、事故ってもいいんだよ、お前が嫌?」


「葉子さんとなら、嫌だなんて言えないなあ」


「ふふふふ」


 ひっひっひ……と痙攣するように僕は笑ってた。そのとき、目の中に突然飛び込んできたそれに、僕は完全に意識をのっとられてしまった。その、なにか、に僕は見惚れて、母親の服の袖をつかんで離さない子供のように、バイクを傾けた。お前は「うわっ!」と声をあげながら、僕と争うことはしないで思いっ切りハンドルを同じ方向に切る。バイクは道の上を滑り、道端のフェンスに絡まって止まり、僕がどうにかそこから抜け出すと、続いてお前もバイクのことは二の次にして僕の後からついて来た。僕は、ふらふらと道を渡ると「それ」と正面から見つめ合った。


「蜜、見てる? これは……」


 僕はそれと出会った。もう決定的に、それと、触れ合ってしまった。それは僕が知るよりも先に知っていたもの、出会ったことよりもであり、出会うまでにあったその予感の方が、出会った今、出会いよりも強く現前する。それは僕の生み出したまぼろしなんじゃないか? そう思うくらい、それは僕の予感そっくりの形をしていて、僕は今ぴったりとそれがはまり込むための空洞を残していたことに気が付く……出会うよりも先に僕はそれの名前を知らされていた、知るよりも先に、僕はそのことを知っていた。それは、これまでもずっとそうだった、そしてこれからもずっとそうだ、と言うように、あっけなくそこに絶望的なまでに立っていた。それは、それの名前は……お前は、ヘルメットを脱ぎ、ようやく僕の見ているものを見る。


「なんですか? これのこと?」


 それは工事中のアパートにかかった梯子なのだ。地から天井までにかけられている、地面と垂直に立つ、ただの梯子……


「蜜、俺のこの感動がわかるかな? どうやって伝えよう、あのね、これは、この梯子はさ、天と地とをイコールで結んでる。わかるかな、ついに、天は地だったってことが、最初の一歩目が、もう最後の一歩を予感してる、全ては同時間的で、一体だったんだってことが……俺の言葉、ちょっと冷静になれなくて自分じゃわからないんだけどさ、だいぶスピリチュアル?」


「まあ、かなりですね」


「でも俺はお前にもこれを知ってほしいんだよ、俺からなくなっちまわないうちに。あれを見て、あの、梯子、あのてっぺんが天で、地面が地だよ、梯子がイコールで、だから天は地だった、無限は無の言い換えなどではなく二つは完全に等しかった。ただ、無から無限への歩みだけがある……しかしその間は瞬間だ、何故なら二つは結ばれているから」


 *


 信じてくれようとくれなくても結構……なんて言ったって僕の気分? 確信は万華鏡の中の一風景くらいに転がりやすいものなのだから。ただ、これは、こればかりは、それが肯定されているときも、否定されているときも、ずっと僕の中に残り続けるだろう、ある確信と言うだけでは弱い、ある決定的な変化だったのだ。僕はもう、完全にすべてを感じていた、なにもかも悟った。もう僕の歩みには喜びこそあれ悲しみなど存在せず、穏やかに、真っすぐに進む、耐え忍ぶこと、苦悩することも喜びである。なぜなら最初の一歩はすでに最後の一歩だったんだから。もう理性が僕の無我を邪魔することはなく、もう、もうなどない、もう、僕は僕でしかなかったのだ。未来は、完全に現在と一致した。時が止まり、一点に収束して、完全に平たくなってから、無限の空間が開けた……完全に明晰な夜、僕は今死んでもいい。


 *


 僕は存在している、死が僕を存在していたのだ。天上に導かれて僕はある、世界は僕としてあった、そして僕は世界として存在する、ただ、イコールの序列が壊れている、そこにはもう存在以外の何もなく、以後、以後などない、その後では、その後も、もう、ももう存在し得ない。そのような存在の確信に僕は触れた。僕は「ある」なにかを捉えた。僕は夜空みたいに大きな口を開けて笑った。よろよろと近づき……よろけること、転ぶことにも、もうどのような意味でも躊躇いはなかった、転ぶこと、仮にそれが僕になにか外傷を残したとしても、それらはなんでもなかったのだ、なぜなら、外傷はたんに外傷というにすぎないのだから、そしてよろけること、転ぶこと、これらもたんにそれでしかないのだ、僕は梯子に足をかける。その瞬間、風が吹いて、アパートを覆っていた白い布が一斉にはためく。僕は梯子を両手で掴んだまま、息を殺し、白い布に飲まれた状態で、じっと梯子から手を放さない。風が止むと、昇り始めた。ようやく天井に手をかけると、それから右足を脱ぎ捨てるように上へ乗り上げ、今度はその右足を軸に、体を天井に投げ捨てた……下では丁度、お前が梯子に足をかけたところだ。お前は昇り、僕は手を差し出し、僕はお前を引きずり上げる。僕たちはそれから屋上で大の字に寝転がり……空は、真っ黒なひとつの目のようで、僕には目を閉じていてもすべてが見える。


「はあ……蜜、俺は、今ここにあるということを全身で感じている、言葉の端々が、震えるでしょ?……もう、すべてが許される。死ぬことが本当の意味で救済だと思えたことがある?」


「死ぬことがですか? 俺は、まだないかなあ、俺には自分が惜しいですよ。ただ、死ぬことが出来るほどの、そうですね、葉子さんにとってこれがそうなら、それだけの確信がほしい」


「そう、蜜、俺はもう、存在と許し合えたような気がする。全部と認め合って、理性の折り合いもついた、死ぬことは、生きていることと変わらずに特別じゃない」


「今ですか?」


「今」


「じゃあ、もう思い残したことはない?」


「ない」


「すげぇ」


「死ねるよ、今死ねる、ただ、その意味も、もうない、生きてることは死んでることだから……」


 そして僕は立ち上がると、ふらふらと歩いて天井から顔を出した。そのとき、落下の虚脱感が全身を覆う恍惚に取って代わると、僕は予兆もなく突然その場所にうずくまってしまった。体中がガタガタと震え、物凄い悪寒が走り去ると、僕はぼろ雑巾ほどにも空っぽだった。無が僕の胸を支配し、僕は石ころのように天井に墜落する。


お前は駆け寄ると、僕の耳元で言った。


「葉子さん、大丈夫?」


 僕は微笑みながら、


「大丈夫だよ、もう笑っちゃうくらい、大丈夫なんだよ、今なら、なんだってできる、なにをしようが、俺はなんだってないんだから。ああ、書くよ、書いてやろうか? なんでもできる」


 そのときお前は一瞬、表情を険しくした。僕はその傍を抜け、天井から顔を垂らす、舌を突き出してみる。やがて、くるっと起きて、脚を垂らす。お前と並んで座る。鼻歌を歌う。色々なことに思いをはせる。


「ああ、俺は、今お前と会えてよかったよ。今夜、会えてよかった。今日この時が、今夜に予定されていたのはよかった。もうなにもいらない。沈黙……それが無限に吹き抜ける風であってもいい、流れる川でも、音楽でも、言葉でもいい、の最後の準備をしよう……いいや、最後のための、最後の準備なのだ、もう終わり続けることもない、すべてがある……そのために、俺は死んでもよかったんだけど、でもそれも今ではあんまりだ。酒、酒があったら飲み交わしたいな、なにかない? 煙草か……一緒に吸おう……それで別れよう……」


 *


蜜と別れたあとは、歩くしかなかった。高架下をずっと。小雨が降り始めていた。僕はあるインド人とすれ違った。彼は僕のことをキュートと言って指さし、僕は力なく「いぇ~」と言いながら、長い髪をツインテールに持ち上げた。そして歩いた。次に僕はある二人組の男と出会った。二人は僕に「手伝ってくれ」と呼びかけた。二人は高架下に胡坐をかいて座っていた。僕を真ん中に入れると、二人は何気ない手つきで僕にジョイントを持たせた。僕は口にくわえ、あいにく火を失くしてしまっていた、右手側の男がライターを貸してくれたので、顎を突き出した。僕は吸い、チカチカといい気分になりながら、合計六個ある膝の森の中に紛れた。僕は男の肘上にあるタトゥーを撫で「いいね、それ」男は就活を始める前にそれを掘ったのだと言った。もう一人の男は長袖を着こんでいて、そいつは農業をしていると言った。野菜を作って、小学校に提供しているのだと。そいつはキマるとべらべらとアフォリズムを並べ立て始めた。そいつがある定理を口で捕らえる、そしてもう一人がそれを記録する、二人は小宗教のような体形を作り上げていたのだ。僕はその一端をお目にかかった。簡単な言葉でも、そいつらの確信に染まれば、案外息を吹き返すのだということを知った。ひとつ、人生を加速させるための方法、カニバリズムと近親相姦と親殺し、ただし後戻りはできない。ひとつ、人生は常に円を描くものだ、何かをする、そして何かをする、そして何かをする……この最後の何かが最初の何かに結び付いたとき、人生は本来の姿を取り戻す。ひとつ、人は両極端を持つべきだ、その両方が、お互いを支え合い、お互いを確信するための支えとなる、決して二つの真逆は反発し合うものではない。ひとつ、感動はそれそのものが素晴らしい、体験は身体の中にある、肉にある。ひとつ、芸術的な作品は、行為ではなく行為された結果であるから、作る行為に意味があるのであり、作られたものに関心を払いすぎるべきではない。ひとつ、唯一性に価値を置くべきではない、大切なのは多様性であり、凡庸が凡庸それ自体として認められて初めて唯一性の届かない唯一の「物」の次元に到達する。ひとつ、個性は多くの場合たんにまやかしに過ぎない、それはある個性的なるものというありふれたイメージの取捨選択であり、そこに個人としての真の在り方はない。ひとつ、多くの場合、肉は味わわれるべきだ、禁欲的な態度は、ほとんどの場合、結果的に肉に縛られることとなる。ひとつ、最も素晴らしいことは、全てが必ずあるということだ。ひとつ、僕は僕だ、という循環、それはそれ、物は物、世界は世界、というこの「は」によって結ばれたひとつのうちのふたつの間に、すべてが住んでいる。だから、お前は僕だ。そして僕などいない、は、は世界に宙づりとなった梯子なのだ。僕、と、お前と、は、そしてとけていく……



 そして僕は、あのときのことを思い出す。あの日、お前が僕の部屋のドアをノックしたとき、そして再び部屋の扉を叩いたとき、そこにはお前はいなくて、ただひよりだけ、僕はそのとき、ひよりから全てを聞いた……いいや、僕はそのあとで、ひよりの部屋で、二人で時間をかけて、経緯を聞き出したのだ。ひよりはまるで錯乱していて、その言葉を組み立てるためには、こんなにも多くの時間がかかった。僕はひよりの言葉を集め、陳腐な例でも、パズルのようにあるひとつの情景を、具に再現した。あの夜、僕と別れたお前が雨の降る道路をバイクで走り、ひよりを迎えに行ったこと。そして、妙に取り乱した様子のお前は、ひよりにヘルメットをかぶせると、それから目的地も告げずにバイクを走らせた。お前の両手はやっぱり僕を乗せたときにそうだったように震え、ひよりが何度も何度も「どうしたの」と問いただすたび、そのわずらわしさに震えた。お前は「今ここで死ねるということを誓え」そう繰り返し、ひよりはあまりの恐ろしさに涙を流した。お前にはそれすらも煩わしくて、一人で勝手に宣誓を繰り返した。このように「ああ葉子さん、俺は死ねます、今ここで、俺はすべてわかった、あの天と地の結ばれるとき、すべてわかりました、俺とあなたは、深い因果で結ばれている、全てが必然だ、全てが、そうであったということを理由にして必然だ、俺とあなた! どうして出会ってしまったんだろう、神があるなら、どれほどの苦悩が生まれたことか! どうして恍惚と苦悩は、天と地は、無限と無は、こんなにも隣り合わせているんだろう、時は、空間は、こんなにも一瞬で、あるということはそれだけで全瞬間、全場所を表してしまうのだろう! ああ、俺は全て理解してしまったんです。俺と、あなただ。いいや、まだ俺は怖がっている。誠実さを、あんなにも誓い続けてきたのに。ああ、そうだ、俺はその為にこそ存在した。生きた。俺はあなたを立ち直らせるために……いいや、違う、あなたが真理を生きたということが、俺をこうさせるんだ。必然だ、必然だった! 俺はあなたの部屋のドアを叩いたんだ。俺はひよりを連れて、ああこの呼び方、ひより! ひより? バカみたいだ。俺はあの人が喜多さんを呼ぶように、ひより、だなんて言っている! ああ、俺ははじけ飛んでしまいたい、死にたい、ああ俺は、真理にくれてやれるのなら、こんな命は惜しくはないと、俺はこの身を引き渡すためのなにかをずっと探していたんだ。捧げよう、捧げてしまおう、俺も、一度は死んでみるべきなんだ、愛していると、そう叫ぶことだ、ああ愛を、愛を、俺は、そうだ、こんな涙が吹きこぼれるくらいなら、このままあなたのために、俺はぴったりとあなたとひとつになった!」


 *


 僕は男らと別れると、伊吹の待つ家に帰った。伊吹は静かで、僕たちはひとつのベッドの中ですやすやと眠った。夜中に、伊吹が、僕の寝顔を見つめているのがわかった。僕が目を開けると、伊吹はあの僕の大好きな笑顔を見せた。それは僕の存在することすべてを包み込んだ……僕はそんな伊吹のために、墓に花をそっと添えてやるように微笑んだ。伊吹は「ほらやっぱり」と口からこぼし、僕は伊吹が浮かべているものを自分の表情の上にも浮かべ「ほんとうにそうだったね、ごめんね」そう言うように笑った。


 *


 お前はそのとき、ひよりの制止するのにも耳を貸さずにバイクを走らせ、まるで喋りまくり、そして、ふとあるものが眼前で閃くのに気を取られた。お前はバイクを斜めにして路上のそれに手を伸ばすと、それを掴んだ。そしてそのままの勢いで、傾いたバイクのハンドルはお前の震える手の中で暴れ、ガードレールに突っ込んだ。お前の頭は刺し花のように白いガードレールの中で潰れ、ひよりは後部座席からお前のお辞儀をする背中を見下ろしていた。


 *


 僕たちに朝日が射すと、僕は目覚め、お前は動かなかった。ひよりは何時間バイクの後部座席に座っていたのだろう? やがてひよりは夜の道を歩き始めた。ようやく僕の家にたどり着くと、そのドアを叩いた。僕は伊吹の目を覗き込んで笑った。そして、伊吹の肉は僕の肉になった。僕は上からシャツを一枚羽織ると、ドアを開けた。そこにはひとりひよりだけがいて、その姿は随分雨に濡らされてしまっていた。


 *


これで終わりだ。さて、幕が、こうして降りた今、俺がなにを成し遂げられたか? 誰か見かけたと言う奴がいたなら教えてくれ。俺はどんな姿をしていた? 俺のどんな言葉が殺人的で、特になにを殺したか? 俺を? お前を? 時を? ポエジーを? 俺のどんな言葉がお前の気に障った? 俺のどの言葉がお前の中に根付いた? 俺に見えている美や欠伸は、お前のと同じものだった? 違うのなら、どの点が違ってた? お前の人生は俺のとそっくりだった? 違うのなら、どの意味で違っていた? 感じないということなどは、絶対に嘘の領域である。さて、これで、本当に終わりだ。しかし、生も死も、お前も俺も、すべては輪廻的に入れ替わり、回転する。軽やかなタッチ、それだけで、次の鬼は俺の番なのだ。お前は未来で俺になにを語ったのか? そのとき、俺はどんな言葉でお前に答えることができた?

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一番高い塔 葉子 @yokofuruno

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