第8話 僕は飛び出して、夜のような女の子と出会う

伊吹から二度目の着信があった。伊吹は電話が繋がるずっと前からこの言葉を繰り返していたというように「葉子、早く早く早く早く……」そう繰り返すので、僕は「どこにいるの? 今はもう家なの? 伊吹? 今向かってるよ」すると伊吹は「駅」と一言だけ言い電話を切った。駅はすぐそこだった。走って、漁船のように街を繰り抜いてぽかんと浮かぶ駅のホームの前にたどり着いくと、改札の向こうには、男に肩を持たれてぐったりとした、あくまでも肩と手のひらとで簡易的な壁を作ってはいても、身体の全体を男に預けてしまっているという印象の、伊吹が見えた。伊吹は、まるで少女にまだなついてはいないぬいぐるみのように素っ気なさを装っていようと、その牙城の崩壊が確実に予想できるというようには無抵抗だった。まるで溶けかけるアイスのような不機嫌さで、じっとりと恨みっぽい眼を通して少しずつ男に身を任せていく……伊吹の一歩一歩は確かに前進するためのものだが、それでも改札まではまだ遠い。僕は声をかけた。


「伊吹、そいつのことで俺を呼んだ?」


 僕の声が聞こえると、急に伊吹は、そこで子供が遊んでいることを絶えず認識している母親が、ママ友との会話の間からたまあに子に向かって特別な注意を払う際に見せるような清らかな笑顔でにっこりと笑って、


「葉子だぁ……」


 そう言ったのだった。それから肩と手の壁でぐいと男を押しやると、つかつかと歩いて改札を通った。冗談のように当たり前に僕の手を取ると、僕がまだ男の、自慢の握力をすり抜けた水を驚くような茫然自失の表情から目が離せないというのに、ひとりまったくその光景を振り返ろうともしないで、伊吹は僕の手を引っ張って行く。男が、なんだよ約束が違うだろ!……それから、短い沈黙を置いて、逃げた! と叫んだとき、僕は隣で伊吹がくすくす笑うのを見て、電話のときのゲームなら僕の到着と同時にすでに終わっていたのだ、と悟り、おとなしく伊吹と二人帰路についたのだった。


 *


 部屋に入るなり、ジャケットも脱がずに伊吹はベッドに倒れ込んだ。しばらくうつむいてじっとしていたかと思うと、急にひっくり返って天井を仰ぎ、バタバタと足を動かしてから静止し、試合に負けた少年のように言った。


「風邪、ひいたっぽい、くそっ……」


「風邪?」


「うん、風邪」


「あはは、伊吹、そう、じゃあいいよ、何でもいいなよ、何して欲しい? 食べたいものとか……」


「いらない」


「いらない? 何か食べるべきだよ、風邪んときは……お粥? ゼリー、アイス、アイス好きじゃん、アイスいる?」


「そんなの家にないよ」


「買いに行くよ、すぐ、走って、早く早く」


「どちらかと言えば、そこにいて欲しいかなあ、出来るだけ静かに」


「俺はむしろ、それ以外のすべてしてあげたい気分だけど」


「じゃあ、話そ」


「いいよ、それじゃあさあ、伊吹、さっきのあいつはなんだったの?」


「ん……明日、あいつと飲み行くんだよ、ホントは今日の予定だったんだけど、私が熱出しちゃったから、別の日にしてくれって言ったら、食い下がられた」


「あはは、なにそれ、バカな奴、そんな奴と飲むの? 楽しみ?」


「なわけないじゃん、あんな奴、今日でもう、完っ全に嫌い」


「じゃあ、別の日っての断ってやればぁ?」


「嫌だよ、私、あんな奴に貸しつくるの、スパッと付き合って終わらせて来る」


「それじゃ、最初から断ればよかったのに、どうして今日は飲むつもりだったんだよ」


「え? だって、顔は綺麗だったでしょ? 話すのも、ぼんやり聞いてる分には面白い人だし、ちょっと裏ではキモそうだけど」


「ああそう、俺は何も言わないよ、でも、教えといてくれたらよかったのに」


 伊吹は急に「あっはっはっ」と容態も忘れて大声で笑いだす。


「そうだね、これからはそうする」


「これまでも、こんなことがあった?」


「え? あ~、いや、なかったよ、本当に、どうしてか自分でもわからないくらい、そんなことはなかったよ」


「あっそ」


「あっはっはっ、はぁ……あぁ……」


「どうしたの、ほんと」


「いやぁ、葉子は中卒の無職だなぁと思ったんだよね、さっき、それで途端に」


「そんなこと思ってたの? いつも?」


「いつもは思わないけどさあ」


「ふーん、まあねぇ、だろうねぇ、俺は伊吹が俺をふるんだったら、そんな風に笑いながらだって思ってた」


「ふったってわけじゃないじゃん、飲むだけだよ、会社の終わりに、二人で、男と」


「ははは、ほらね、そんなつもりだ、でも俺が黙って出てくと思う? あんたのような人をあんな奴に触れさせるとでも?」


「出てくよ、どうせ、葉子は、黙って、今日もそうだったでしょ、わかるんだ、私にだけは」


「なにそれ、あんた熱があるんじゃないの」


「出てくよ、葉子は、ゼェ~ッタイに」


 ただの風邪のくせに、高温にうなされた伊吹は、その苦痛の分だけいつもより高級な真理を垣間見ているのだというように、じっと僕の眼に視線を注ぐ。伊吹は僕の目の中に字を書くようにじっと見つめ、それから声を出さずに言った、私にはわかるんだ、って、ねぇ、僕のことを一番近くで知っていた君、伊吹? あんたにはほのときいったい、何がわかっていたと言うの? 


「どういう意味? 出てかないよ、あんたがなにを言ったとしてもね」


「出てくよ、葉子のことは、全部わかるんだよ。現に、今日だって、出てったでしょ、出てった、出てった!」


 伊吹は開き直るようにそう言って笑う。


「そのことを言ってたの? 蜜だよ、そうだって言ってなかった、男だよ、俺が会ってたのだってね、あははは」


伊吹は僕の言うのを無視して、ごろんと横向きになると、猫が甘えるみたいに、


「私、熱があるみたいだ、今日はもう寝るね、葉子は、まだ出てかないんでしょ? 私のこれが治るまでは、見ててね、そうだ、その日は、葉子も見に来ればいいよ、葉子が見て何を思うか知らないけどさ、見に来て、どんなか確かめなよ、お店に来たら? 別の席から見てみなよ、私のことを、だってさ、私だってあんな奴と二人で飲むのは、嫌だ、葉子が途中から来て、連れて帰ってよ」


 やがて、伊吹の瞼は、とろんと落ちる。まるで熟した果実がその自重によって枝から離れ落ちるように。伊吹は眠る。目覚めと同時に孕んだ眠りが、今ようやく産み落とされたのだというように。まるで、伊吹の営みの全てが、この産み落とされた眠りのための供物だったのだというように。伊吹は夢を見ながら、僕を手を握る。僕は夢を見ながらも伊吹が僕のことをしっかり監視していることを知っていたから、しっかりと伊吹の手を握り返す。伊吹は僕に「何か話して」そう子供のように懇願するので、僕は頭の中をひっくり返す。伊吹は中でも「あの小説を書いてるっていう男の子」の話をご所望で、仕方なく僕は今日あったことを話してあげる。


「あのね、まず、ドアには張り紙がしてある……やがて、僕もまた眠りにつく。伊吹の背中に顔をくっ付けて。伊吹は薄いTシャツと下着だけの姿で眠る。伊吹はすーすーと鼻息を立てて眠り、たまに眠ったまま手探りをする。僕は、見つけやすいところに僕の手を置き、伊吹はそれを捕まえると、口の前までもっていく。ぱくり、と食べるのではなく、お守りのように握りしめる。伊吹は再び深い眠りの中へ……僕も、今夜は、シャワーも浴びていないので少し蒸れた垢の匂いのする伊吹の背中の上で、ぐっすり眠る。


 * 


 伊吹の熱は、一週間も治らなかった。それは伊吹が精一杯力を出して、下げようとしたのではなく、むしろ熱を出し続けたような、そんな一週間で、今振り返って思えば、伊吹には、その日が来ればどうなるのか、本当にわかっていたのかもしれないと思うほどなのだ。その間僕たちは、食べ物を買うためにさえ、一歩も外には出なかった。僕は煙草をやめていたし、散歩にもいかなかった。部屋の電気は切ったまま、カーテンはずっと閉め切り、携帯電話はどこかに言ってしまっていた。僕と伊吹は、これまでのように、本を少し読んだ、映画を一緒に見た、ギターを時折弾いた、思い出すことなど何もなかった、ここはどんな何さえもないところだった。


 * 


 朝、伊吹は仕事のために家を出て行った。僕はこんな夢を見た。


そこはひよりの部屋だった。まるでおままごとのセットのように整頓された、かわいらしくバカバカしい部屋。僕はひよりの後をついて行く。ひよりは、部屋の鍵を開ける、ドアノブを回しドアを開ける、屈んで靴を脱ぐ、振り返って笑う、手を伸ばしてドアを引き寄せる、閉める、小走りでキッチンへ向かう、うなずくように蛇口をひねる、聞こえない口笛のために唇を尖らせながら、手を洗う、次に僕が手を洗うのを監督する、よし、とうなずいてタオルを渡す、僕の手はタオルに繋がれた囚人のよう、ひよりのあとを歩く、ひよりはしゃがんで冷蔵庫を開ける、一段一段指さして確認する、空っぽだと言って振り返ると笑う、バレエの要領でつま先でターンする、一瞬、花の香りが僕の鼻の先で香る、ひよりは部屋の奥へ消える、ベッドの上に座っていて、僕はそこらに腰かける、するとひよりはすぐに立ち止まり、テーブルを回って僕の方へ、その後ろ手を突いた奥、小さなドアつきの本棚を紹介してくれる、知らない本、知らない本、知らない本、よく見るとそれは僕の本で……ひよりは手に取る、ページを捲る、そのとき、ベッドの上から手が天井に向かって伸び、電気のひもを引っ張る、部屋の電気は消える、ひよりは「あ、そうだ」と思い出したように、ベッドに向かい、僕は取り残される。焦って電気をつけようと、上空でまだゆれている電気のひも目掛けてめいっぱい手を伸ばすけど、届かない、空はどんどん高く……僕の身は落下し……そして僕は弾かれたパチンコ玉のように部屋を飛び出す、まるで迷路のように入り組んだ部屋で、ひよりが僕の後を追ってくる、僕は転んで地面に横たわる。ひよりに捕る直前、この地面こそがドアだったのだ、ということに気が付く、瞬間、部屋の外に出ると、僕は足音を聞き、瞬間的に冷たいドアに耳を当てる、その次の瞬間には、僕はナイフを身体に押し当てるギリギリ直前の状態で相手を脅しながら自分でも刺してしまうことにならないか……と怯えているように、ドアノブを固く掴み、力いっぱい身体でドアを押している。


「ひより? 来ないで、今泣いてるんだよ」


 それは本当のことだった。ひよりも本当だと理解してくれた。


「ごめんね、ごめんね」


「ひよりが謝らないで、余計に泣けてくるよ」


 ひよりは口惜しそうに、


「葉子君、上着」


「ああ、忘れてた? いいよ、このままで、熱いくらい、使ってていいよ、おやすみひより。どうか眠って」


「どうして?」


「もう寝てきてよ」


「まだ泣いてるの?」


「そうだよ、耳を近づけて……しくしく、ほぉらね」


 しくしく、しくしく、やがて僕はドアから手も口を離す、泣いているのは実は僕ではなくドアで、僕は知らぬ顔をして立ち去る。


 *


 伊吹の表情はいつも僕に向けられるものとまるで変わらなく、呆れたようにやさしいもので、伊吹がはっと笑うと、その声は、吐き出される息の加減は、まるで僕に笑いかけているのではないかと思うほどだった。そこはバーのカウンターで、伊吹と男は平凡過ぎるほどお似合いだった。体格がよく、顔立ちがはっきりとしていて、大きく見開かれた眼に奥行きがない、自信に満ち溢れた会社員と、倦怠感そのものである伊吹の身体、退屈を噛むような口元と、少女のように小さくてかわいらしく元気いっぱいの鼻、煙たくも甘い二つの眼たち。仕事ができそうな、二人の男女。伊吹は完全にただ会社帰りの女であり、男はその同僚だった。ああ、そうだった、それは、伊吹が仕掛けたことだったのじゃないだろうか? それは、伊吹は、わざと、僕を試すように、そんな真似を、しかし僕にはその伊吹の姿を、吐いて捨てることなどできない。なぜなら、ああ、演じることがあるときには身につける下着のように軽いものなのだとしたら、僕が伊吹にとっての真実の顔と断定できるそのひとつの層にだけこだわり続けるということさえも、あまりにくだらないことだった。伊吹、僕は伊吹というイメージが、覚めてしまった夢のように消えゆくことを感じていた。葉子は出ていく、葉子は出ていく……


「熱はもう大丈夫?」


「うん、休んだから、平気」


「そっか、よかった。あの日は、ごめんね。無理やり誘ってさ。あのときはさ、なんだか俺、伊吹に裏切られた! って思っちゃってさ、昔から、苦手なんだよ、一度約束したりなんかすると、もう是が非でもって思い込んじゃって、それでついカーっとなって、何度も失敗もしてきた。でも、伊吹は、今日こうしてまた誘ってくれたでしょ? 嬉しかったよ、ありがとう」


「そんなこといいよ、言わなくて、照れる」


 今にもガーンと夜明けを告げる鐘がなり、これらの会話はガラスの劇だったと言うようにガラガラと音を立てて崩れてしまうのではないか? 僕が、これを、壊してしまうのではないか?


「ねぇ、伊吹って、趣味とかはないの?」


「趣味? う~ん、ドラマ、あとは、ちょい古い少女漫画とか、音楽?」


「じゃあ、休日は家にいる感じ? 意外」


「そうだねぇ、あ、でもたまに、高校のときの友達とかとは、会ったりするよ」


「高校? 俺は滅多に会わないかなあ、大学の奴らとは、よく飲むけど」


「大学の友達とも、たまに遊ぶよ」


「じゃあ彼氏とかはいない感じ?」


「え? 全然いないよお」


「へぇ、意外だなあ、職場じゃ結構ツンとしてる印象だったからさ、その代わり外で遊んでるんだと思ってた」


「ふふっ、私そんな感じ? ツンとしてる?」


 ああ、なんて退屈な奴ら、常套句たちの見た夢のまた夢、いくつの窓の中を覗いたってこんな情景は腐るほどあるだろう、子供たちのポケットの中でさえ、失格の烙印を押されることだろう、ああ僕と伊吹、あんたも、ひよりと仲良くしてるってわけ? ああ、ははは、久しぶりにこんなことを思ったなあ、なんて、これが、くだらないなあ! なんてことをさ、お前のがうつったのかな、お前のくだらなさに対する、あの憎しみがさ、俺も思い出したような気がするよ、久しぶりに、ああ、あはは。そうだ、お前は今日も孤独の映画研の部室に立てこもっており、そこにはやがてひよりがやってきたことだろう。そしてひよりは肉の笑みを浮かべ、お前は痙攣する自らの肉をこそ憎み、ひっそりと唇の端を噛みちぎる。今お前にある憎悪が僕の憎悪だ。お前が酔いつぶれて肉の塊のようであるひよりを肩からぶら下げていたときのあの恥が、お前がひよりとひとつ写真の中に収められたときのあの痙攣が、そして僕とお前とでひとつの心のようだったあの部屋へと闖入したひよりへのあの倦厭こそが、恐らくは、今日もお前の表情を歪めるもの、お前の在り方をゆがめるもの、お前の純粋の精神に残された残留物であり、きっと、最初のとき、ひよりがお前の読んでいる本を、なに? と訊ねたときに、喜色にまみれた泥団子のようだった声にも、どうせ、最後のとき、お前がひよりと、プッツンと縁を切る、そのときまでついて回ったそれは、骨折した指に差し込む鉄芯のようなものであり、バイオリンを弾く弓のようにも、表情をギリギリと引きその顔を痙攣させるお前の肉への憎悪だったのだ。今僕にはそれがよくわかる。


ああ伊吹、僕は今、目の前で伊吹のことを見ている。肉と、山と。それらはお前の口から出た言葉だった。男に笑いかける伊吹の表情とは、その肉の歪みとは、窪みとは、観念への飛翔などとうに諦めた地上の残留物である……お前がひよりを見るように伊吹を見るなら、その鼻息、甘えた視線も、媚びた語尾の調子も、こう思える、どうしてそんなに退屈なんだ……ああ、かつて自分自身が望んだものが今ではゴミも同然なんて、そんな風に考えるなんて……僕はたんに気怠いひとつの塊となると、耐えきれず席を立ち、トイレに籠る。そこでなら、僕は墓の中でのように冷静に聞くことが出来たし、考えることも出来た。伊吹の声はここにも届く。それは伊吹のものではないなにかだった。僕は伊吹のあの慈愛に満ちた目や声の表情が好きだった。僕は何度も何度も手を洗い、洗面所にたまる水は伊吹の笑い声を反射して震え……パシャパシャと夢の火花が弾けるような音を立てながら、手を、手を洗い、詰めの甘い殺人者がべったりと指紋を残すような無我夢中さ、無防備、忘我的に水滴をズボンにこすりつけると、その中の振動に、僕はお前からの着信があったことに気がつく。なんだよ、俺は丁度、お前のことを考えてたんだよ、今まさに、お前は夜の気分というわけ? そうかなあ、そうですね、多分、まあ、思った通り、言葉が捕まらない、こういうのはやっぱり会って話した方がいいのかもしれない、あの、俺が言いたいのは、ていうか今思ってることは、どうしてこう、え? いやいいですよ、じゃあ言ってください、あのさ、どうして、こうまで、俺もお前も、精神に王座を与えたがるのか、肉の匂いを嗅ぐと、どうしても逃げたくなるのはどうしてなんだろう……それは俺の話ですか? それとも自分の? まあいいや、う~ん、まさにそれが、俺にとっても問題ですね、果たして精神と肉のどちらが偉大なのか、俺は、あなたはてっきり、肉の信者になったんだと思ってたけど、肉の、肉のね、精神的に飼いならされた肉ならようやく口に入れれるくらいの、なんという偽装っぷり、うん、俺はそれを言いたかった、二度目、夢の中に出てきたあなたも相変わらず影のような姿をしていたから、俺はそのときから自分の方が正しいって考えるようになった! いいや、正しさを指し示せるというか、漂いの傾きの先にそれを感じることをよしとすることが出来る気がした……あんたの、文学的吃音、拒食症と、俺のこの夢を食む体質と……はっ、お前なんかよりも、肉の方が健康的だよ……いい? 俺は今伊吹の恋人と会ってるの、どうしようもないサラリー男で、クラクラするよ、でもお前の一人きりよりはましだねぇ、はあ、俺の餌はどこ? 俺の飯、食い物、この世に会って甘美なるは……僕はドアノブをべったりと回す、冷たく開放的な空気は、無邪気な子供たちのように僕の正体を知っている。この光の中で死産児のようだった僕は、男のコップを奪い取ると、杯を一気に飲み干し……そうしようとして、大きくむせかえると、伊吹と男の服に、べっとりと、それを吐きかけしまった。あー……と涎が引くような僕のだらしない声も、次第に重力にひかれてさらにもっと垂れ下がると、あー……あはははは……笑える、笑う、男の顔を指して、べっとりと笑う、僕は、今年でいくつになっただろうか……それで、これは何の話だった?……


 *


 夜だ……果てしなくすべて晒されているということによってその姿を隠蔽する、無限大の事実の奥にそっと隠れてしまい、どのような手も、言葉も、そのほんの手前の空虚を掴むことしかできない……夜、夜、夜を、多くの人が口ずさむのは、時計の秒針を監視する子供の関心にも似たところ? では僕の、こんな詩はなんのためにや? とにかく、それはなにかを語らせたがる。不可能への沈黙は、たんにその誘惑に対しての戒めにすぎないのか? そうだ、不可能にこそ、未知にこそ惹かれる感性もあるということだよ……ふふふ、いったいなんの話をしていたんだっけ? そうそう、僕は夜道に投げ出され……もうこれで何度目のことだろう、ふふふ、まるでやんちゃな猫ほどの頻度で僕は建物を追われる……そうして、見上げた夜はとっても高かった。笑ったところで、笑いごと墜落するしかないというほどの、この夜の高さと、広がり、反響のなさ。僕はたった一人だった。懐にはなにも持たず、せめてあるものはと言うと……ああ、この頬の痛さ。先ずはこれをどうにかしないと、ズキズキと傷んで、その度に僕をあの現場へと連れ戻しやがる……頭からびっしょり濡れたあの男の激昂した表情、握りこぶし、少し伸びてる親指の爪……そして、未来の悪いものをすべて先取りしたように突然の不安に襲われてしまった伊吹の、恐怖に波打つ白眼、それに溺れてしまった黒眼……僕がお酒を吐きかけ、男が怒り、伊吹の恐怖の大きさがわかったから、僕は笑っていられなくなったのだ。途端に殴打が飛んできて……僕は一瞬、待てを言われた犬のようになり……しかし男の方には選択肢の浮かぶ猶予などないと言ったように、すかさず男は距離を詰め、僕の胸ぐらを掴んで残りの腕を振り上げると、そこに伊吹が割り込んできて、僕が受けるはずの拳を、伊吹は僕とおそろいの頬に受け……どのような恐怖の演算がそこにはあったのだろう? 少なくとも、伊吹にとっては殴られる恐怖よりも重大なものがそこにはあったのだ。伊吹は、僕のため? それだけではない、自分を取り巻く環境の正常化のためにも、喜んで我が身を投げた。男に打たれたあと、勇敢で、忍耐強い姉のような目をして、地面にうずくまっていた。僕に耐えられなかったのは、痛みでも男の屈強さでもなく、伊吹のその耐え忍ぶ表情だった。どうして? と問われてもわからない。とにかく、僕には声が聞こえるより先に鳴る信号があったから、それはいつも僕の観測の範囲では正しいので、考えるのはいつもそのあとだ……そんな癖がつかないことはありえなかった、僕はただその伊吹の忍耐の世界から逃げ出したのだ。僕の頬が痛み、伊吹の頬も……それは呪いのようで、僕は伊吹のことを考えないではいられない。伊吹、僕はあの言葉を思い出す、葉子は私の元を出てくよ、というあの言葉、そんなことを言ったって、先に僕から離れようとしたのは伊吹じゃないか、あんな男と飲む約束なんかしちゃってさ……思えば伊吹、伊吹はどうして僕と一緒にいたのだろう、どうして今夜、あんな男と飲んだのや? 伊吹、僕はわかってる、伊吹がまた今夜僕のために伊吹ではなくなってしまったこと。あの据わった目からはまたひとつ幼少期にはあった伊吹の人格の椅子のようなものが一つ減り、いよいよ伊吹は僕の家の住民になるしかないのだということを。奪われれば奪われただけ、伊吹は僕のものになりたがるんだ。そして僕は、逃れられないとわかった今になってまた、そこから逃げ出したいと思うようになるの? そうして逃げ出すわけだ。でも、僕に、伊吹に捧げて惜しいような部分など残っている? それに逃げる場所は? あのときは、伊吹がいた。今度はなにに運ばれてどこに行く? ああ、伊吹より、また僕は、僕の生が大切か? お前のような考えなんて、自分の生が他のなにを差し置いても大切だなんて考えはとうに捨てたはずだったのに。それはあのときに、伊吹の目が、借用書のように冷たく僕を見つめたときに、我が蛙がとうとうそれに睨まれたことに気づいたときに……そうだ、伊吹のあの表情、あれはじじい作家の死のあとに僕を見つめた以来のものだったなあ。伊吹の冷たい眼、覚悟のたびに、自分の中にあったなにかを殺してしまう伊吹の、寂しくて、有無を言わさない眼。でも僕はその眼が好きだった。伊吹の肉体的でありながら死体のようだったところが大好きだったんだ。


 * 


 煙草を吸いながら歩いていると、向こうから女の子がやって来た。手に白色のバスタオルを抱えていて、これから捨て犬でも拾いに行くというような恰好をした子。ズドンと落ちる形の、くすんだ黄色いワンピースに、星入りのグレーのスニーカー。その子、ひよりは夜が産み落とした飛び切りの一人娘のように無防備に、ぽかんとなにもわからないというようにそこに立ち止まったのだ。


「あれ? ひより? どうしたの? なに? その手に持ってるのは」


「え? 葉子君? これ、バスタオルだよ」


「あははは、どこかからの帰りで?」


 ひよりは、部屋の洗濯機が壊れていること、バスタオルが足りなくなったこと、れいなに借りようとしたこと、結局、二人で銭湯に行くことになったこと、そしてこのタオルを間違えて持って帰ってきてしまったこと、これからそれを返しに行くのだということ、それらをたどたどしく語ってくれた。物語の証拠を誇示するようにひよりがバスタオルをふいと前に突き出したので、僕は受け取った。手元で広げると、それを円錐型の涙のような形に丸めて、帰り道に蹴る傘のように、蹴った、蹴りながら歩いた。


「れいなってどんな子? その子も映画研なの?」


「ううん、そことは別の、授業の友達。いい子だよ、明るくて、素直で」


「ひより、あんたは驚くべきことに、自らそのことに気づいていないようだけど、ひよりくらい明るくて素直な人って少ないと思うよ」


「そぉお? 私、ひねくれてるよ、結構」


「そうなんだとしたら、そういうのも全部含めた明るさ、素直さってものがあるんじゃない?」


「う~ん、わかんないけど」


「あははは、ねぇ、俺が最初ひよりを見つけたとき、なんて思ったか知りたい?」


「え? 最初?」


「そうそう、最初」


「……うん、知りたい」


「子犬でも拾ってきたのかなあって、なんせこんなバスタオルを広げてたからさ」


「あはははぁ、なんだあ、あのね、これは風で乾かしてたの、匂いとか、ちょっとでもなくならないかなあと思って」


「匂い? それならもう絶望的だよ、煙草の、ほら、煙が、あははは、風がさ、見事に煙を全部そっちにやるからねぇ、これ、結構吸水性よかったんじゃない?」


「え? あはは」


 ひよりは知らない鳥が鳴くようなよくわからない笑い方をした。僕は屈みこんで火を消した。乱暴すぎて、火花が少し服の袖にかかり、あっと目を閉じて、瞬きするだけでそこは僕の全く知らないところだった。


「ひより? ああ、変な感じだ。どうしてだろう、どうして、ここ、だって、俺とひよりがいるからさ、全然知らない街だね」


「私は、もう結構なれたよ」


「そう? 俺なんて、ひよりより、一年も二年も長くここにいるんだよ? でも全然まだ住んでるって感じがしない」


「二年もかぁ……葉子君」


「なに?」


「もしあれなら、全然答えなくていんだけど」


「うん」


「こっちに来てもう二年でしょ? 二年、どう過ごしてたの? 私、今も、葉子君がなにをしているのかとか、全然知らない」


「蜜から聞かない?」


「あ、聞くよ、いっつも、でも断片的なことばっかりだからなあ。あの人は何々だ、あの人は何々だって。今、女の人と住んでるんでしょ?」


 ひよりは、そう余裕ぶった笑みを浮かべて訊ねた、訊ねるというよりも、確認するように、なにか共犯関係を持ちかけるかのように。


「あ、すごいよ、ひより、昔なら絶対に自分からそんなこと聞けなかったのに」


 ひよりは砕けたように笑いながら、


「図太くなったんだよ」


「まあ、やり過ごす方法を知ったとも言う……」


「それで、今葉子君はどんな感じなんだろうと思って」


「どんな感じ? う~ん、例えば、今もまだその人と一緒にいるよ。それ以外には、なんにもだなあ」


「どういう人なの?」


 ひよりはにっこりと首を傾けながらそれを訊ねた。それは一番仲良しの女友達を困らせてやろうとしているような問い方だった。


「えーっとね、難しいし、失礼なことだけど、ひと言で言うならねぇ、う~ん、でも少しイヤだなあ。あのね、蜜がひよりのことを「山」?「天?」だって言ってたんだよ、正確には、どっちだったか忘れちゃったけど。でも、そういう比喩が一番危ないでしょ、その人を、ひと言なんかで表しちゃうと、こっちがそれに囚われ過ぎちゃうからさ。そういう場合、あっちから引き寄せられて現実が変容してしまう、比喩的なものは、やっぱりかなりの具合で圧倒的なわけで、だからよくわからない、ってことにしてもいい?」


「山? どういう意味だろう……」


「さあねぇ」


 新しい煙草に火をつけると同時に、僕は盛大にむせかえり、ゲホゲホと、ひよりのバスタオルに向かってむせてしまった。咳はなかなか止まらなくて、僕はタオルの中に顔を埋めた。そのまま頭がくらくらしてきて、目を閉じれば天地もさかさまになるほど、自分がどこに立っているのかも曖昧だった。顔を起こすと、街はやっぱりさっきまでの街ではなくて、僕は眼をしばしばさせながら、なんだか笑いたいような気分だった。


「葉子君、風邪? 熱は大丈夫なの?」


 そう言ってひよりは僕のおでこに手を差し伸べた。僕は髪をかき上げてひよりの手のひらにおでこを置いた。


「熱いよ! いつから?」


 ひよりはバカみたいに間抜けにそう言った。


「さあね、伊吹のがうつったのかも。でも、まだひき始めだから、なんともないよ」


 僕は咳で台無しにしてしまったバスタオルに目を落とす。


「これ、まだ返そうと思ってる?」


「じゃあ、もういい」


 ひよりはかわいい女の子のように笑う。


「じゃあ、代わりに家の近くまで送ってったげるよ、俺の家も、途中までは同じ道だからさ」


「私が送ってあげるよ、葉子君、風邪引いたから」


「あっはっは……引いた、瞬間の目撃者だねぇ」


 僕たちは来た道を引き返し始めた。


「会うなんて思ってなかったから、私すごい変な格好だ、今更だけど」


「そんなことないよ、よく似合ってるよ。あれ、適当だって服にそれじゃあ失礼かな。いやぁ、でも、結構いい服だよ」


「似合ってる? ならよかったぁ、これ試着しないで買ったから」


「似合ってる似合ってる、とってもかわいい」


 ひよりの家の近くの公園で、僕たちは別れることにした。


「じゃあここで。俺は煙草吸ってから帰るよぉ」


「公園で?」


「まあねぇ」


「どうせ道でも吸うくせに」


「あははは、まあねぇぇ」


 ひよりはなかなか笑い止まなくて、僕はそんなひよりを今更ながら不思議に思うと、その目の奥を覗きこんでみた。するとそこからひよりの中の小さなひよりが僕を見つめ返して来たので、驚いた。ひよりは確信的ににっこりと笑い、


「昨日、夢に出てきたよっ」


 ふふっと僕は僕らしく微笑んだ。それから僕も夢でひよりを見たのだということを思い出し、それからお前のひよりへの愛憎を、そして僕はそのお前の姿にかつての僕の姿を重ね、僕はひよりと二人だった日々の記憶を蘇らせたのだ。ああ、僕はひよりの幼い夢の中に閉じ込められる……


「ねぇひよりは覚えてるの? あんたが最初、俺に話しかけたのは、テスト返しのあとの教室だったってこと。あんたは隣の席だった俺の点数を覗き込み、自分と大して変わらなかった俺の点数を、大袈裟に褒め上げたんだよ、壊れた天秤みたいにさ、八百長試合の審判みたいに持ち上げたんだ、天才だ、すごいねぇって、そんなのが俺たちの最初の出会いだった。ひより、ひよりは俺のことを贔屓しすぎていて、笛のテストのとき俺の笛が一番よかったってみんなの前で言っちゃうし、俺は恥かしかったんだよ、俺がヒューヒューと下手な笛鳴らしてたこと、みんなまだ覚えてたんだから、覚えてる? ひより、俺とひよりはそうやって仲良くなったんだよ。ひよりが俺の走ってる姿を見て、本読んでるところを見て、寝てるとこを見て、夢を見て、俺のことを褒め上げたんだよ。俺の方はもう、ひよりのことが大好きで、時にイラつくくらい、確かにあんたは山だったよ、天近くまで続く、あんたは牛ではなく山だった……」


 嘘だ、以上は、僕が頭ん中でだけ喋ったこと。本当に言ったのは……二本の指で小人をかたどりながら、


「こんなにちっちゃかったでしょ?」


 と冗談のつもりで言った。ひよりは赤子のように、何もわからないくせに笑うので、


「きっと、夢に出てきたのは、中学、高校のころの俺だったでしょ? ってこと」


「それと、今の葉子君と、三人出てきた」


「あっははははは」


「なんで笑うの~」


「笑うよ、バカらしい、ひよりは一人だけ?」


「うん、私は寝てたから」


「それは夢の中で、現実の方で?」


「え? 夢だよ?」


「はははは」


 僕はまた思い出した。交差点の向こうで信号機の変わるのを待つひよりの姿を、グラウンドにやってきた犬の背を撫でるのを最後まで怖がっていたひよりの手を、廊下ですれ違いざまに面と向かって僕がひよりを無視すれば、あちらからはどのようにも不満を言えはしないあんたの臆病さを、グラウンドの端でネットに向かって下手なハンマーをしかし真面目にぶん投げていたあんたを、煙草の吸殻を集めるあんた、お姉ちゃんの自転車に乗るあんた、あんたの自転車に乗るお姉ちゃんも、自販機で買った紙パックのコーヒーを誰にあげるつもりでもあげられず、机の端っこに隠しておくあんたのことを……


「葉子君?」


「なに?」


「またね」


「うん」


 別れて僕は遠くからばかでかいバスタオルを、ひよりに振ってあげた。ひよりは急にそのことを思い出したように「熱!」そう大声で叫んだのだった、僕は「大丈夫だよ、バイバーイ」それで僕はもう一度、バスタオルに顔を埋めて、咳を、ひとつ、そして置き去りにして歩いた。

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