第7話 二度目の出会い

ねぇあんた、おれはあんたの淡水魚のエラのような笑顔が大好きだった、日の光に輝くあんたの薄い瞼や、揺れる瞳の色が。それは映画のフェルムのように、様々な情景、感情をそこに映し出す鏡だった。川の流れのようであり、幼さを未だそこに隠し通しているあんたの可愛らしい反抗精神だった。あんたがおれを見て、きっ、とにらみつけるように笑うとき、おれは朝日に目を細くするみたいになって、それからはもうあんたの美しさを直視することができなかった。あんたは無邪気に、水面に沈んだレンズが七色の光を通過させてまるで口をいっぱいに広げて笑う元気な女の子のようであるみたいに笑い、おれにはあんたは手には余る、まるでその中に腕を突っ込んだとて触れられない光やなにやのようにも思えた。眠れない夜が明け、煙草を吸いに春の朝日の元にも出れば、決まって僕は朝の厳粛な気分に浸され、これからはもう真っすぐ見定めたこの道をただひたむきに歩んでいくんだ、そんな風に思うことが出来た。あんたが笑うといつでもそこには新鮮なおれにとっての朝が用意されていたんだねぇ。そしておれにはそれさえあればなにもかも足りていたのだ。朝のまだ意味を含んではいない空気と、柔らかくこの身を解きほぐしてくれる温度とがあれば、おれは今日も生きていけるんだってね。


 覚えてる? おれとあんたとが初めて出会ったときのこと? おれとあんたはなにしてた? ふたりだった? そうだ、あんたはまるで年中雨に降られっぱなしというようにそこにいて、おれはそんなあんたを笑ったんだ。はははって、しけって火のつかないマッチのように。するとあんたは泣きながら少しずつあんたではなくなっていって、それに応えるようにおれもまた……あんたがおれの肩に噛みつくので、おれはこそばゆい、照れくさくて、やっぱり少し気持ちがいい……河原の、それも人気のない高架下で、おれたちはもつれ合う、接吻を重ねながらキャベツの葉の一枚一枚であるようにひとつになっちゃったみたいだった。なにを問いかけてもあんたは崩れ落ちてしまいそうで……仕方なく、おれは黙る。川の向こう側に並ぶ、街灯の光が斜めにおれたちに向かって射している、おれたちのところから見ているんだから当たり前のこと? おれには、光は波の上に揺れ、どんどんおれのだらりと伸ばした手の内にまで伸びてくるよう、に思えた。この光がおれの手のなかに入ったとき、おれは死ぬ……そう考えていた、あんたは肩じゃ満足できなくておれの髪までも噛む。代わりにおれは一本一本毛づくろいをするようにあんたの髪を唾液で濡らしてあげる……ふふふ、ねぇ、匂いだよ、残るのは匂いなんだってね、これは野生の世界での話だよ、あんたの噛みあとよりも、おれの匂いの方がさ……風が吹いても、唾液で重くしめった髪だけは風に揺られない、おれたちはこの夜の中でまさに異物同士、どんな風にも置いて行かれた……って感じがしない? まさに、そんな感じ……いつの間にかあんたは、木に登る蛇のようにおれの身体を複雑に昇ると、その手をおれの首に巻き付ける。おれにはあんたの表情が見えないよ? でもおれは指先のどんな細かい動き、力の入り方からも、あんたの考えていることがすぐにわかってしまう。わからないのは、あんたがなぜそのように考えるのかということだけ。ねぇあんたには、おれをどうする気もないんだねぇ。でもどうしてあんたは、おれを絞め殺しもしないの? それが錯覚であることはわかっていながら、光が波の上で揺れる度、どんどんおれの方へ伸びてきたのだ……あんたは人のいない着ぐるみのようになり、おれの肩に重い頭を乗せる、あんたがあちらを見ているとき、おれはこっちを見てる。おれは、また押し倒される、おれはまた首を噛まれる、おれはまたあの錯覚を強く覚え、おれが伸ばした手は、とうとう光を捕まえてしまう。おれは見る。吸い終えたばかりの煙草が春に笑う花のように明滅を繰り返しているのを。おれの眼は羽ばたくように瞬きする。おれの口は空気を分解し、おれの身体は冷たいまま夢を見ている……



「伊吹に話したことあったかなあ? ひよりって子、高校のとき仲良かった子なんだけどね、その子が、その子じゃないよ、その子もだけど、その子が連れてきた子。そいつが昔の俺の小説、伊吹に清書してもらったあれだよ、覚えてる? 四六時中取りつかれたみたいに俺が喋りまくって、伊吹はというと現に俺に取りつかれ?てそれをパソコンに打ち込んで、完成させた、あれがあったでしょ、あれを読んでいたく感動したって、それで大学がたまたまひよりと同じだったからって仲良くなって、この前この家まで会いに来た奴がいたんだよ。仲良くなった、かは、知らないけど、魅力的な奴だよ、かわいらしくて、髪なんか伸ばしてるの、ひょろっとしてて背が高くてさ、黒の簡単な服を着てる、安そうなのをね。そいつだよ、そいつがさ、あははは、こんな風じゃなく俺は笑ったんだよ、あいつが俺の目の前に現れたとき、だってあいつの隣にはひよりがいてさ、俺とひよりはまるで仲良しだったんだから、あの日、あの日以来だったんだよ、伊吹と出会った日だよ、いつものように俺が保健室で眠っていると、貧血を起こしたひよりが現れて、カーテンの向こう側に、その声が聞こえる、先生はどうやらいないようで、俺はカーテンを開ける、ヤッホー……ひよりは、にやりと笑う、先ずは熱を測ってくださいね、と俺はふざけた口調で言う、するとひよりは大きく笑って、ぼそり、と一言だけ、仮病だよ、と、とびきり可愛らしく、というよりは、かわいらしさの前に用意されてた段差に躓くように、ね……ひよりは、かわいくない子が部屋の中で祈り続けてたら、ある日突然そのとびきりのかわいさを神から授かった、ような子でさ、そのせいでそのかわいさを絶賛持て余してる、無自覚ってことはないんだよ、だってひよりは誰より自分の可愛さを羨ましく思ってるんだもん、ただ、というか、だから? その振る舞い方がどうにも無器用なでさ、伊吹なら女の子なんだからわかるでしょ? かわいい子ってもう骨まで全部可愛いわけじゃん、そりゃ世間が押し付けた神話や自己欺瞞なんかが大いに働いた結果とも言えるだろうけど、ひとまず考察は置いとけば、あの子らは間違えないでしょ、何をって言うと、彼女らのかわいさを。何をするにもピッタリとかわいさと一致してるというようでさ、でもその点をひよりは全部間違えるわけ。ひよりって中学のときは陸上部で、最初は短距離走の選手だったんだけど、どうにもタイムがあがらないからその内長距離の方に回されて、それでも結果が出ないから最後にはハンマー投げだよ、あははは、そこでも結果は出なかったんだけどね、とにかくその子は間違える? んだっけ?……そうそう、その仮病の言い方もなんだか変な感じ、ぶりっこしすぎって言えば分かりやすいけど、それより、そうだなあ……まあそう、鏡の前で何度も練習した祈り、みたいな風で、どうにかバレませんように、と言うようなそれ。ああひよりの、持って生まれた、純粋培養の、それのくせ似合ってない着ぐるみのようなかわいさ。そんな言い方をされてさ、俺は笑っちゃったなあ、ひよりはぼーっと突っ立ってるしさ、俺はもううずうずしてどうしようもないからベッドを出ると、書くんだよ、そう保健室の先輩らしく言って、ひよりに名前と病名を書かせた。それからはもう俺の体の中には犬みたいなのがい座ってるんだよ、そいつが居ても立っても居られないっていうから散歩に連れてったげないと……ということでひよりと散歩にでも行こうよ、というわけ。老婆と会いました、スイカ食べました。そのひよりが、今よくわかんない男の子と一緒に、俺の部屋のドアを叩く。驚くでしょ?



 その男の子が、どうやら俺の読者らしくてさ、なんて言うんだろ、あんなに濁っていない奴? 真っすぐで、疲れていたとしてもその疲れも喜びである、ような奴、は、初めてだなあ。今朝、そいつから小説が送られて来たんだよ、前に会ったのが、それがその訪ねて来た日、確か二週間前くらいだったかなあ、なんだけど、それでも、それなりに知ってることはあるよ。これは言うまでもないことかもしれないけど、あそこの大学生でさ、伊吹と同じ文学部だったと思うよ、後輩だねぇ、ふふふふ、密って名前なんだけどね、この映研の飲み会があったって言ってたっけなあ、あれ、俺は、どっちに聞いたんだから忘れたけど、ひよりか、確かひよりから、写真が送られてきて。


 蜜とひよりと映画研究部ってところに二人して入ることになってさ、その新歓が、少し時期が遅いけど、飲み屋の座敷の席で行われた。二人は同じテーブルに着いたんだよ。ただ、蜜、君としてはどうにも引っかかるものがある。ひよりの隣に、遅れて腰掛けたとにお前は、どうして自分がこんなところに座っているのか、途端にわからなくなる、パーティーは嫌いな方だった。こんなところになにかがあるかもしれないなんて、思ってみたこともないお前だったのだ、それがこんなことになったのは、喜多さんに誘われたからだろうか? 多分そうだ、それだけのことだ、ただ、葉子さんと会ってからというもの、どうにも調子が変なんだ。いいや、喜多さんと仲良くするようになってから、かな。どうにも変だ。僕が書くことをやめて、こんなところに来るなんて、喜多さんの隣で、座っていてさえ心がどこか弾むようなのは。お前は踊る心を押さえつけるように、体をじっと固くする、それでも、喉が前に突き出て口が、浮かれて何か言いそうになるのを我慢することができない。我慢? まあ、今日くらいは、楽しめるうちは、楽しんでいればいいさ。あの人もそんなことを言っていたっけ? ああ神は、どんなところにでもある、それがあの人の吃音の正体だっけ? あはははは、よく喋る吃音もあったものだ、これじゃ何より饒舌な沈黙じゃないか、そうかあの人が書かなくたって平気な顔をしていられるのは……


すぐにひよりは酔ってしまう。あのときのように蜜はひよりを気にかけ、先輩らとあやとりをするような会話をこなしながら、その肩の上にとんでもない腫瘍が膨れ上がるのを熱く熱く感じる。切り干し、だっけ? 日下さん、はいないようだな。ああどうにかしないと俺はこの熱い育つもの、酒に? 頭が変になってしまう、本を一頁も読まなかったことがこの十年に一度でもあっただろうか? 僕に書いていない夜が? あれのことについて考えると、頭が痛すぎて、俺は気が狂ってしまいそうだ、喜多さん、喜多さん、と、蜜はひよりの肩を叩いて、どうにかその話題を共有したいと思う。葉子さんもここにいればよかったのにねぇ、いったい、何がよかったというんだろう、あの人がいたら、俺がどうなっていたというんだろう? 蜜の頭の中だそんな連想がスタートしたように、ひよりの中でも酔いの素敵な連想が夢のテーマパークを駆け巡り、一周して戻って来たときにはいつのまにか手に色んなものを抱えてしまっている、というわけ、蜜にとっては急に、ひよりにとってはごく当たり前の発想として、写真を撮ろうよ、そして葉子君に送ってあげようよ、あんたは面食らってしまう、ひよりはすぐに携帯を取り出してパシャリとやる。俺はその写真を見たんだよ! あはは、どうぞ、という文面と一緒に送られて来たのは、それはそれは素敵な写真で、手前側に写ってる一人は蜜の表情など何も見えていなくていやに楽しそうなんだな、心から気を許しているようで、蜜の中でどんな考えが私から離れて育っているかもしれないとは、思いもしないというような。奥の、蜜、あんたは、重苦しそうに笑ってた、笑みがそっちに引きずられそうになるのを食い止めるように理性の手が伸びて表情筋を掴み、硬直させ、引き攣らせる。ああ一体何と何とが戦い、誰が勝利を収めるというのか? いいや、俺には見通しがついてる。なんせ……まあいいや。


そのあと蜜は部室に用事があると言って二次会を回避した、でも、ひよりの家のあるのもそっちだったから、一人になるつもりが二人になってしまい、君たちはもう何度目かもわからない夜道を二人で帰ることになった。蜜はひよりと話しながら、やはりこんなことを考えている。ああこの抗おうとするものは何だ? そして敵などがどこにいる? 楽しいということの何が不都合だろう、そのとき隣で声がする。蜜君。蜜君? 今俺の名前を呼んだの? ああ蜜は、その声を、古本に這いずる虫食いのようにも思う。それが僕の文字を食う、と思う。それならそれよりも速い速度で書けばいいさ、そうしてあんたの中の景色が軋む、どうして愛するということが景色をこんなにしてしまうんだろうか? あんたにはわからない、もう目を閉じてもいいと思う、今日はお酒を入っていることだし、ろくに頭も回ってないんだ。どうしてこんなときにでも、書きたいなんてことがあるだろうか? いいや、僕は書きなくなんかない、ただ僕にある、したい! の声、この欲望の正体は、そうだ、これは、太陽の、死への、欲望だ。これがどうしてこれほど俺に君臨するの? ああなんという、絶えず終わることの終わりの終わりを欲望する、落下するコインの裏の裏の裏の裏のようにも定まらない思いだろうか、半狂乱の季節よ……どうして感動していながら、それを殺すことができるだろう……



さてその青年、蜜の小説がね、今朝ようやく届いてさ。今さっき俺はそれを読んだんだよ。会いませんか、とも言われだから、今日は、出かけてくるよ。すぐそこの、大学までね。どうやら蜜が住んでるらしい部室のところまで。映画研のは共同部屋らしくてさ、文芸部と、あとはボードゲーム部と……そんなことまあどうでもいいんだけど……」


 ただ今朝伊吹はどうにも話に興味を示そうとしない、正座を崩さずに、伏し目がちに箸をさっさと口元に運ぶ。仕方なく話を結び、僕も箸を握ると、伊吹はすくっと顔を起こして、じっと僕の眼を見つめて来るので、驚いた。その眼はまるで、僕に、あんたが話すのはどういうことか? と、言葉の完璧な真っ白さで問いかけるようで、僕はその真っ白に今朝の雑談を清書するか、そんなものはなんでもなかったと真っ白に横たわるか、二つに一つを迫られたようになる。しかし僕はペンではなく箸を持っていたのだし、この口は話すよりも食べるために開いていたのだ。僕がおずおずと食事を再開すると、伊吹は不機嫌そうに言った。


「なんでそんな風に話すの? 変だよ。怖いから、そんな風に話さないで。葉子、少しバカになったんじゃないの。その、蜜とかいう子と会ってから、何度も同じ話してるよ。何を考えてるのか知らないけどさ、あんまり考えすぎない方がいいんじゃない、葉子なんてすぐダメになっちゃうんだから、昨日も、夜、なんなの? 最近? うめいてるよ、寝ながら、気づいてないの?」


「そう? 俺が? 知らなかった、起こしてくれたらよかったのに」


「それでも寝てるんだもん」


 そう言いながら伊吹は、今日初めての笑みをこぼす。僕が合わせるようにはははと笑うと、そうだ、と思いついたように言う。


「私も用事があるから、今日は帰りが遅くなるから」


「用事? 何の?」


 僕が訊ねても伊吹は返事をしなかった。食事を終えると、伊吹はいつのものようにクローゼットの中に入って、寝巻からスーツへ着替えた。僕は適当なシャツを羽織る。それから二人で、外へ出た。ひとつしかない鍵を伊吹が僕に渡そうとするので、俺の方が遅いかもよ、そう言っても、私もいつになるかわからないから、と言い張るので、それじゃ俺が持っとくけどさ、予定あるの? 珍しいね、昔の友達? そう訊いても、伊吹は返事をしないで軽蔑するように僕を見るばかりで、僕は鳥が飼い主を見返すように、はてな? という調子で見返す、見返しながら、もし早く帰るようだったら連絡してね、と言い、伊吹を駅まで送って別れた。


 *


 ドアには張り紙がしてある。それはここで寝泊まりを始めてしばらく、お前が不便を感じてさっそく作ったもので「作業中・立ち入り禁止」と書いてある。一段高くなっている畳の部屋で、靴を脱いで上がると、右手には文芸部の部室が、そして左手にはボードゲーム部。文芸部のフロアを通り抜けると奥に映画研究部のスペースがあった。映画の上映の都合上、暗闇を作るために降りた黒色の遮光のカーテンに、そこは覆われている、小さくて、確かに寝泊まりするには便利そうな部屋だった。お前はカーテンの内側で朝の日課である煙草を気のすむまで吸っている最中だった。僕はカーテンの、ソファの背にかかって少し捲れているところを押しのけ、中に入った。お前はソファに寝転がっていて、煙草を顔から遠ざけると、顔をあげて、うすぼんやりとした瞼を持ち上げて、にっこりと静かに笑った。それから殊更に下品にふるまうように、手と頭と足とを同時にへこへことひっくり返った虫のように動かす。お前はその勢いを利用して起き上がると、どうぞどうぞと僕に空いている方のソファを勧めた。僕が腰かけると、お前はゆっくりと、毛繕いをするような調子で、黄ばんだシャツの襟を正し、ズボンの皺を丁寧に伸ばしていく。僕の視線に気づくと、お前はからっと笑い、


「住み心地いいんですよ、ここ、案外、静かだし、店も何もないから、何のことも考えなくていい」


 僕は返事をする代わりに「んあああああ」と欠伸をするように笑った。


「うん。確かに集中するには、何もないところが一番いいさ。いつそれが深まりすぎてばちんとお前を弾き出してしまうか、わからないけど」


「んふふ、俺も同じこと感じてた。ああ滑る滑る滑る、どこへだろうか? 何もないはずのこの場所が、加速して、どこかへ、滑ってく……って。それで言うと、あの送った俺の文章は、ただの途中で通過した夢なんですよ。やけに風景的というか、スケッチっぽいところなんかは特に。そうだ、あの冷蔵庫も自前ですよ、落ちてたのを拾った。服も、演劇部が捨ててった安いのが三階の角に落ちてたんですよ、エナメルのバレーシューズとか黒のスラックスや、あとこのシャツなんか、あはは、案外やれるもんだなあ」


 まだ少し眠たいのと、空気が悪いのとで、僕はあくびを繰り返していた。煙草に火をつけると、やけにから回る今日のお前は、


「ふふふ、ああ、ははは、快適だなあ、ちょっと言葉にならないや、感じられます? 俺の、なんて言うんだろう、う~ん、この、エネルギーでギンギンな感じ、調子いいんですよ、最近、潰れちゃうときもあるんですけど、大抵は叫んでればそれでよくなる。葉子さんの小説を読み直しましたよ。美しいなあ、あの主人公は、ひとりのときにこそよく笑うんですよ、う~ん、ちょっと待っててくださいね、俺ももう少し吸えば、まともになるんです、これくらいの時間が、一番あれで、そうだ、喫煙がてらに感想が聞きたいなあ、今日はちょっと無口ですね。俺が、たくさん喋りすぎてるのがいけないのか」


「そうだよ、俺たちじゃどっちが話してても同じで、うんざりする」


「あははは、違いないですね、なんなら、喋らなくてもいいくらいだ、でもせっかくまた会えたんだし、まあしばらく、付き合ってくださいよ、いまちょっと、喋りたい……そうだ、そこの紙束、適当に見てくださいよ、どれがいいかなあ、絵と、詩が書いてあるんですけどね、乱れちゃってるなあ、どれどれ、ああ、一晩立つと自分でもなに言ってるんだかわからないや……世界の言葉の根を捕まえること、沈黙の一瞬の隙間を捉えて入り込みそこから急沸騰的に沸き立つ純粋言語を感動の立体的な線として立たせること……あははははは、結構言えてるんじゃないか? ね、ペン取ってください、ソファの下の、そうそれ……」


 お前はそして、紙に詩を書きつけていく。ペンを置くと、にっこりと笑って、


「遊びですよ、これはあくまでも、無意識の整理というかな、ここに来てからあんまり寝なくなったんで、夢を見る代わりです、葉子さんに送ったのも、そういう風に書いたものですよ、どうです、あれはあれで、形になってるでしょ? 俺の本当に書いてるのは、というかね、まだ書いてはいないんですけど、毎晩毎晩書こうとしているのは、う~ん、まあ同じと言えば同じなのかな、俺には言葉がひとつでもあればそれでいいんですよ。それが見つからないだけで。なにか確信がひとつでも、なにか事実だったり、確定的ななにかがひとつでも書かれてあったら、それでいいんですよ。小説に限らず、芸術は作るより先にそこにあったもの、だって思いません? いや、これは先週の会話で葉子さんに壊された考えだったかな? 塔は、塔は、いくつでもある……ああ俺もそう思う、俺には言葉がひとつでも、ひとつでも、何かが絶対的に俺のものになれば、なんて、なんてバカな考えなんだろう、とにかく、まあいいや、俺は神的な小説のことを考えるんですよ、いいや小説に限らず、神的ななにか、瞬間のことを、どうなるだろう、ばちんと弾けたら」


 僕はノートの切れ端を拾ってお前の書きつけた詩を拾い読みしていく。曰く、感動が間違っているなどと言うことはありえない、感動はそれ自体がある貴重な意義を帯びているのだから、その意義をそれ以上追及することは、命を知るためにそれを分解しようとすることだ、大いに存在すること、これは葉子さんの考え、美しいあの人の主人公のイメージがずっと俺の中で生きている、俺と人生を並走する、兄弟のように、俺は夜道で一人きりだったあのときを忘れないどころか感覚から常に引きはがすことが出来ない、苦悩すら喜びであると確信できる夜、苦痛の底が抜けて快楽に溺れる感覚、夜に泣く鳥の静けさ、肉欲そのものではなくその振舞い方の貧しさ、肉、地への憎悪、うすぼんやりとしたことの耐えられないハクチらしさ、弱いもの目にするとまだ、撫でるより踏んづけてやりたくなる、この感覚に比べれば、言葉なんかもうハチの巣にされた罪人くらいに死体だ……そのときお前は丁度新作を書き終えた。


「ふふ、まあいいや、読みますよ。さて俺は錯乱を通して魂を偉大というところまで育て上げたが、この錯乱には形式が欠けていた。形でないという形である錯乱に形を授けること、ああ、今度は、時の試練が俺の魂を磨滅する。まさか時が俺を振るい落とそうとするとは……さて俺の、魂は、腐り落ちる、時代の肥やしになってしまおうか? ああ、錯乱にはいつも形式が、時の試練には手心が、魂には怪物以外のすべてが、ことごとく欠けてしまっている、俺はもうあることさえもできない」


 お前は読み終わると紙をそこらに投げ捨て、その紙の動きを追いかけるようにソファを下りて地面に膝をつくと、僕の足元まで這って来て、そこにずらっと並べてあるDVDを物色し始める。


「結構色々あるんですよ、部長が適当な人で、これまでの代で蓄えてきた繰越金で好きなの何でも買ってくれるんです。適当なの観ましょう」


「さんせー……」


 *


 ひよりは授業を受け終えると、れいなと二人学食に行く。途中、コンビニに立ち寄りそこでパックの野菜ジュースを買う。食堂では、れいなのたくさんいる女友達たちが待っている。彼女らはみんなれいなの二面性の内のひよりが得意ではない方の性格に近い子たちであり、ひよりは計五人となった集団の端で、ちびちびとストローに口づけながら、時折愛想笑いと相槌を打つ。ひよりはれいなの友達がうどんを啜る動作を見つめながら、目よりも自分の口元に意識を集中させる。吸い上げて、舌の上を転がし、飲み込むころにはジュースは口の中に消えてしまっている。しかしれいなは、彼女らのなかでもやっぱりひより一人に対してそう振る舞うように、最も活発で、もっともリーダー然としていて、最もあけすけである、そのことがひよりには今救いに感じられる、どこか私のための加護のようにも思える。れいなはその言葉数の多さのせいで食べるのが遅く、その友達の一人が彼女らのノリでれいなに、置いてくよーと言うのをひよりは心苦しく思う。ひよりはそのとき、れいなの表情の上に暗い影が落ちていないかを心配してさっと視線をやる。れいなはからっと晴れやかに笑いながら、おい、と彼女本来の少し濁点の混じった声でそう答えるので、ひよりはほっと一安心し、れいなのことをやっぱり私は好きだと思う。やがて、四人は次の講義のために席を立ち、ひとり学部の違うひよりだけが、もう少しだけその席に残ることになる。みんなの姿が食堂から完全に消えると、ひよりも席を立ち、早歩きで学生会館に向かう。頭の中には、昨日まで何度も繰り返した、ひよりとお前、蜜君との喜びの時間のことだけがあり、ひよりはいつでも行けばそこにお前がいることを知っているから、早くそこにたどりつきたいと思う。早く早く。扉の前で、ひよりはようやくほっと肩をなでおろす。そこには剥がされるたびに新しい文句がひとつ追加されていくお前お手製の張り紙がしてあり、今度増えたのは……とひよりは目で言葉を撫でていく「立ち入り禁止、作業中、就寝中、俺の眠りを乱す奴は誰だ? 可能なものだけがこのドアを開けてもいい」最後のこれだ、それを見つけ、ひよりはひとりにっこりとほほ笑む。斜め後ろを振り返ればそこは別の部屋で、そこには漫画研究部がたむろしている。今日もお前が部屋に閉じこもっている都合上、映画研の先輩たちまでもそこに集まっていて、開け放された扉の向こうにその中の一人と目を合わせると、ひよりは会釈する。ひよりと目を合わせた女の人は、控えめに笑いながら「中がどうなってるか教えて」そのように、余裕を保ちながら、呆れたような言い方で言う。ひよりは「はい」と答え、ドアに手を触れる。初めは重くて一人では開けるのに難儀した扉でも、力の加減を覚えた今は最小限の力でもスムーズに開くことが出来る。ひよりは扉を押し開けながら「蜜く~ん」と呼びかける。部屋はいつも以上に煙たく、ひよりは不信に思う。なにかよくないことがなければいいけど。先輩たちを呼ぶ前に十分に換気をして、それから、そうだ、いつものようにアニメでも観ながらお喋をしたい。ひよりは黒いカーテンを潜る。押せば、もうすでにそちら側へと飲み込まれている軽いカーテンだ。そこには僕たちがいる。


 *


 お前は一瞬目の端にしわを寄せると、床を経由して僕の眼を見つめてこう言う。


「どうです、楽しそうな部活でしょ?」


「ここはお前の部屋なんじゃなかったの?」


 僕がからかうようにそう言うと、お前はあっけらかんとして、


「さあね、他の人だって入ってくればいいんですよ、あんな張り紙なんて、なんの効果もないんだから、無視して、喜多さんや、葉子さんみたいにね」


「お前に呼ばれて来たんだよ」


 そう言うと、


「そうでしたね」


 とお前はくすりと笑う。それからひよりに向かって、このような報告が日課になっているという風に、


「朝から、葉子さんと話してた」


「どんな話だったの?」


「なんでしたっけ」


「さあね」


「まあ、そんな話」


「なにそれ~」


 それから、ひよりはそのことを思い出す。


「そうだ。先輩たちが、漫研に避難してたよ」


「いいよ、呼んできても。あ、葉子さん、いいですか?」


「いいよ、呼んできてあげて」


 ひよりは唇の端をキュッと噛み締めながら立ち上がり、


「わかった」


 嬉しそうに言うと、パタパタと部屋を出て行く……そのときお前は、にやりと重ったらしく微笑すると、蝶が花から飛び立ったようなひよりのそれとは大きく異なる様子で、ひらりと肉体から魂が抜け出るように立ち上がると、カーテンの向こうに消える。音、ひたひたひた……そのときお前は、扉の鍵を閉めた。鉄でできた棒を穴に通して。それからパイプ椅子の足を掴んで、そのときまでそんなことを考えていたのではなかった、ただそれが目について、握りしめると、ひんやりと心地よく、また細く握りしめやすいので、お前はそれを持ち上げて、鉄でできた鍵を見下ろすと、廊下の足音がなんとなくその金属の表面を揺らし、反射したような気がした、そしてお前は鏡の中を飛ぶ虫を叩くつぶすようにそれを鍵の上に打ち降ろしたのだ。音に驚いて僕がカーテンから顔を出したとき、お前は丁度、二撃目を加えるところで、反射的に僕が目を閉じた瞬間にはもう、お前の中からはさっきまでのエネルギーが霧散しており、お前は脱力し、さっきまでそれそのものが意義として働いていた力から見放されてしまったように、茫然と、立ち尽くしていた。お前は気の抜けたように笑い、炭酸が抜けるようにどんどんみすぼらしくなっていった。かろうじて、僕に獲物を誇示するように、指で鍵の歪みを指し示す。扉の向こうではひよりの声がした。それからガチャガチャと鍵を回す音。でも、鍵は鉄のループの上でカタカタと笑い声に似た音を立てる、まな板の上の新鮮な魚といった様子。お前はそれに、優しく指を添わせ、優しさの、冷淡さが、指先から心に流れて来くのを感じ取ると、ぐったりとへたり込んで、扉に背をつけて三角座りになった。


「ああ、もう、クソっ、なにがあれなんだろう……」


 お前が独り言ちている間にも、扉の向こうでは事件が進行中であり、沢山の声が、うなだれているお前の背中を揺らした。蜜はしゃっくりするように震えると、ひとつひとつの声に応えるように、拳で扉をガンガンと叩いた。僕が段差に腰かけて座るとお前は上目遣いで僕を見つめ、


「喜多さんといると、いったい人ってどれだけお人好しなんだろうって思いますよ、今でも、ほぉら、一人だけ、俺がなにしてる、なんて考えもしないんだから。心配してるんですよ、中で俺になにか悪いことがあったんじゃないかって。俺に、じゃなくて、俺がそうしたに決まってるのに。あの調子じゃ、後ろからなら、殴ったって俺がやったとは気づかないんじゃないかなあ、バカだなあ、それが、たまあに、かなり、うんざりする……」


 ひよりは「蜜君」としきりに向こうから呼びかける。


「白けちゃうなあ、あの声を聞いてると。……喜多さん、どう? 扉開かない?」


「開かないよお」


「あはは、ほら、こうなんだから。せっかく気分がよくなったって、すぐにあの人が見てる当たり前の世界に引きずり戻されちゃうんですよ。なんて言うか、そうだなあ、あの人は、あり得ること以外はありえない、なんて考え方をする人だ。そんで、無視するよりももっとひどい、信じない、なんて方法で、堕落を許さない人だ、どのような理性のたるみも、衝動の逃避的な表れも、あの人は決して裁くわけではなく、ただ、そのものの価値を剥いでしまう、あんまり純朴?……って言うのも違うのかな? あんまり……素直過ぎるから、善は最初から善、女は最初から女だったってように納得が上手な人だ。俺が我慢できない、そんな当たり前ってあり方には。ああ、俺は、あの人のことを、もっと踏み躙れるようになったら、一人前だ。そうだなあ。あの人と一緒に泥まみれの小動物をでも蹴り飛ばせれば、それとも、もし俺が、撮りたい映画のワンシーンだとか言ったら、きっとあの人はカメラの前で裸にもなるんだろうなあ。こんなこと、とてもバカバカしいって、事が起こったあとだから思えますけど、たまあに、どうしてもあの人のことを、壊してやりたくなる、無茶苦茶に、イラつく。あの人といると、俺も当たり前に普通の人なんだと思わされるんですよ。そうとすれば、あの人は、牛みたいな人だなあってこれまでは思ってたんだけど、山、あははは、山のような人に思えてきたなあ」


 そのとき、僕の携帯電話に着信があった。お前も思わず顔をあげる。そして、深刻さも今は別の種類の深刻さに席を譲ってあげるべきだと言うように口を結んだので、僕は電話に出た。伊吹からだった。


「もしもしどうしたの伊吹? 風邪? 熱があるの? 今? 俺はまだ学校にいるよ、ほら言ったでしょ、俺の方が遅いだろうって、このあと約束? なにそれ? どういうことなの? それをすっぽかして帰るの? よくわからないよ、変なの。ふーん、まあ別にいいよ、俺のが遅い早いなんて、どうすればいい? 迎えに行こうか? 駅? うん、いいよわかった、じゃあね……」


 僕が電話を切ると、お前はぷっと道端に唾を吐くように笑う。


「なんだよ、失礼な奴」


「あはは、ごめんなさい、いやあ、葉子さんでもそうかあと思って」


「そんなことどうでもいいよ。でさ、実際に、この扉は開くの?」


「さあ……鍵、曲がっちゃってるけど、ここ、無理やり通せれば」


 そう言いながら、お前は鍵の歪みに触れる。掌底の要領で鍵をガンガンと叩くと、棒状のロックはあと少しで枠を通り抜けそうなところまで進む。僕が「おい」と呼びかけてお前の顔を起こさせると、お前は素早く意図を了解し、扉の前を僕に明け渡してくれる、僕は、扉を思い切り蹴り飛ばした。扉は揺れ、やがて衝撃は鍵に集まり、もう少しで……僕たちは二人で扉を蹴りまくった。足がビリビリしびれ息が切れても、扉は開かなかったので、仕方なく僕とお前はうなずき合って部屋の窓を開けると、ひらりと一跨ぎして外に出た。


「葉子さんに、俺の友達たちを見せてやりたかったのに」


「日下? 切り干し?」


「まだあと何人かいますよ、名前は、忘れちゃったけど」


 僕とお前は、草むらをかき分けて大学内の道路に出た。


「葉子さん、じゃあ、彼女さんのとこに行きますか?」


「そうするよ、バイバイ」


「そっかあ、じゃあ、俺は喜多さん拾ってきます。じゃあ、また」


「またねぇ」


「そうだ、電話、今夜か、明日にでも、かけていいですか? 夜に、どうしても人と会いたくなるときがあるんですよ、そのままのテンションで、一度葉子さんと話してみたいから。でも、約束こぎつける、会う、じゃ遅すぎて怠いでしょ? だから電話がいいんですよ、さっきので気づいた」


 お前は子供っぽく笑いながら、携帯を耳に当てる動作を真似る。ふっとかき消すようにその自分を笑いながら、さよならと僕に手を振る。その振る手も間抜けだと気づいて、あははと笑い飛ばす。それから、夢の潮が引いて行き、とうとうその浅瀬からも別れたあとも、未練っぽくその波の泡で足の指をくすぐる、というように、徐々に、闇の中に紛れる……僕も、お前も、夢で見たことだったというように、お互いのことを一時忘れる。

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