第6話 最初の出会い

僕がわざわざベッドを立ったのも、帰宅した伊吹が鍵を失くしてしまったのだと思ってのことだったのだ、だから僕はふらりと立ち上がると、ああ伊吹、バカな奴、とそんな風に足取りを躍らせながら、玄関口に立つ、そしてドアを開けてやる、夕日が目に眩しくて僕は目を細くする、ああだけど、伊吹じゃなかったな、僕は伊吹のために用意しておいた言葉を飲み、それからじっと僕に注がれる二つの視線、久しぶりだねというようなひよりのそれと、まるで頭から食ってやろうというようなお前のそれとに、あははははは! といつまで続くのかわわからない、多分魂が抜け切るまで続いたそれに身を任せる、はははははは! ははは! ことなってしまったのだ。驚いた。というよりも、わけがわからなかった。僕が黙ると、同時にお前は感極まったようにこう声を荒げた、その言葉は落雷のようにお前自身に強いショックを与えたので、そのとき以来お前はもう自分と僕とを分けて考えることなどできない、何故ならお前はそれを読んだのだ、何故ならお前は僕を見つけ出したのだ、夜の訪れを最初に認めるカラスのように、お前はこう言った。


「荻野葉子だ、本当だった」


 ただ、僕にはわからない、僕はもうずっと前に自分が残した仕事のことなどは忘れてしまっていたし、同じようにひよりも遠い記憶の中の人物だったのだ……僕は死者も同然に清められ、穏やかで、時間が川のように僕を洗い去る以外には、どのような変化が僕に訪れるだろう? と考えることさえ忘れてしまっていたので、ああ、この眼の前の、まるであの日の僕のようにも活気付いて、今すぐ時にとどめを刺すとでも言いたげな様子や、ひより、そうだ、ひよりだ、僕がそれを思い出すことのできるひよりという名前の人物がいたのだという実感は、十分に僕を不安にした、初めて日の光の下に顔を出したモグラのように、早く土の中にでも帰りたい! ああ、広大で、途方もなく、不安だった。お前は心持ち首を傾げたように、僕があんまり慌てているのを、変だなあと見つめていた、変だなあ、こんなはずがないのに、俺がこの人を喜ぶようにはこの人は俺を喜んでくれてはいないや、まあ仕方ない、今のところは、今のところは……そしてひより、ひより? ああひよりは昨日がただ今日に乗り継いだだけなのだと言うように、そこに立っていた、太陽の


子め、昨日の喧嘩のことさえお前は覚えていた試しがないのだ、僕がどんなに死にそうな思いでも、当たり前の顔をしてまた昇って来るんだ!


「葉子君、久しぶり。前に手紙をくれたでしょ? 私、大学生になってこっちに越して来たから、もしかしたらまだ住んでるかなあと思って。こちらは、蜜君。大学で、葉子君の書いた小説を読んでたんだよ、それで葉子君に会いたいって。たまたま隣の席に座っていてね、声をかけてみたらそうだったの、ビックリ」


 お前は、お似合いでない礼儀正しさで、ぺこりとすると、ひよりの言葉を引き継ぐ。


「すみません、初めましてです。葉子さん? 喜多さんに、家の場所を教えてもらいました。どうしても会いたくて、あなた、あそこの大学に通ってるのかなあと思ってたんだけど、その様子じゃ、どのみちでしたね。迷惑じゃなかったら、いいや、あなたの言うのを真似るなら、多少とも迷惑でも、もしあなたが必要な迷惑と思うのなら、少しお話してくれませんか?」


 ああ、お前が僕に思い出させるのは、まさに天才的だったよ、僕がその誘いを断るためには、もっと修業が必要だったみたいだ、僕は、ちょっと待ってて、と言い残すと、急いで玄関を離れ、適当なシャツを羽織った、財布を掴んで、水道水でうがいをすると、連絡用のホワイトボードに、ああこれはある時期の僕があんまり手紙を書いたんで、いちいち処分に困った伊吹が解決のために導入したものだった、黒のペンで、ああ伊吹、俺は今日は帰りが遅くなるかもしれないよ、友達が来たんだよ、ずっとずっと古い友達が、ご飯食べてくるよ、すぐに帰るよ、と書き残してから、ドアを開けた。


「よし行こう! お前、あんた、君……ええと、蜜? どっかに! この家は俺の持ち家じゃないのでね、いいや、俺の借り家というのでもなく、ええっと、ええと……俺の同棲相手の部屋なのさ、すぐ行かないとその人が帰ってきちゃう、だから、行こう! 金は俺が出してあげるよ! はるばるようこそ、ひよりは、久しぶりだね!」


 *


 僕はお前らを連れてずんずん歩いた。決まって僕が落ち着くのは伊吹が最初僕を連れて行ってくれたあのカフェで、そこは信号機の立ってるところの奥の細い階段の先の……夜になると店はバーに様変わりするのだ。ハイボールを三杯注文した。お前に澄み切った水面のような目で見つめられると、僕はついそこに小石をぶん投げたいという悪意のない子供のような気持ちにもなって、ああそれに、僕はやっぱり、昔から真面目になるためには準備のいる方だったから、お前が僕の心に届かせようとする手にも、ペタペタと安物のシールを張るような気持ちで……僕は饒舌にやった、それは黙ることとそれほど変わりのない饒舌であり、ペラペラとただ思いのたけを口にすることは、なにも考えないこととそれほど変わらない。俺が沈黙を貫いた? いいや、俺はそんな意志の塊のようなものじゃなくて、もっと無意識的な存在だったわけ。河原のつつじ、あいつらが揺れているとき、また揺れていないとき、それらは単に、風の有無によって左右されるでしょ? つまりその意味じゃ、喋ることと、黙ることとに、違いはないよ、例えば自動販売機や、壊れちまったラジオ、要するに俺はたんなる入れ物なんだよ、入れ物、あるいは鏡、まあ鏡だって光の入れ物か、わかる? 俺は空洞で、場であり、なんの意味のフレーバーも付加しない吹き抜けの穴、だよ。だから俺の言葉を、あんまり俺の言葉だとは思わないでね、これは俺が考えたのでも、俺の中で熟成したのでもない、そこらに最初から転がっていたものものの反映なんだよ。俺はでたらめなやまびこ。そしてお前は僕のことをじっと見つめながらも、僕の言うことなどひとつも聞いてはいなかったのだ。お前は僕の作品ではなく、僕自身との対話を求めていた、いつ飛び出してきてもおかしくはない僕の純粋な観念を聞き逃しはしないと、その出口のところ、恐らくは口よりも目の方を注視していた。僕はこの青年に申し訳なく思いながらも、やっぱり言えることなどただのひとつもありはしなかったので、一段とペラペラやることになったのだ……じゃあ、乾杯するの?しないの?へぇひよりはあそこの大学に入ったんだ、そう、俺は違うよ、ここに住んでるだけ、早く言えばよかったね、隠す理由もなかったわけだし、はははは、それにしても、あそこの大学に入っちゃうなんてね、賢いとこでしょ? 勉強頑張ったんだね、久保は? 久保の奴は、あああの作家も不幸な事故でいなくなっちゃったことだし、他の大学へでも進学したのかなあ……作家、オエオエ、ああ酒には弱いんだ、気にしないでね、久保、あああなたも書いてるんだって? ふん、なら滞りなくやることだ、ああひより、こんな素敵な友達ができて、よかったね、ああ今更実感わいてきたよ、二人とも大学生なんだね、ははは、変な感じ、俺はどう? 違って見える? あの頃と? やけに静かだけど、そっちの男の子、お前は、蜜? 俺の小説を読んでたんだってね、あはは、久しぶりだよ、前はちょいちょいこういうことがあってさ、俺の本のことを覚えてる奴が、俺に会いに来る、みたいなことがね、ところが最近じゃ、もう誰もあれの話なんかしていない、俺でさえ忘れてたくらいだよ、でもだからって、あれのことをお前が無意味だったんだって落胆しなさい、というつもりもないよ、ただ俺としては、あれは、そうだなあ、あれがなにかなにかなにか……そう、すごいものだったって可能性はある、ただ、それはもう徹底的に今の俺とは関係のないものなんだよ、だから作者に会いたいなら俺じゃなく作品の方にいるよ、ってね、単純に、あれの作者はあれ自身だったというより他ないね、だって俺からはもうまともな言葉を聞けそうにないでしょ? こんなはるばる来てくれて申し訳ないけど……僕はペラペラとやった。ああ、お前もひよりも、僕からなけなしの銭の返済を催促しにいた責務者のようなのだ。お前は僕からある芸術的なものを、ひよりは僕からある恋愛的なものを、それぞれに取り立てに来た恫喝者みたいだ。あいにく手持ちのない僕は、もうブルブル震えるより他ない。誤魔化しの言葉の奥に隠れてやり過ごすより他なかった! どうか二人が僕になど、もう見向きもしたくないと思えるようになりますように、こんな奴、と誰からも見放されていられますように、そう願っているということを、気づいたとき、僕はあの作家のことを思い出した。僕が命までも奪い取った爺さん。さて今度こそ、僕はそれをお前に取られるときか? お前は在りし日の僕の姿にそっくりなんだよ。お前が瞳に宿したその期待は、あの日僕の眼に燃えていたそれなんだ。僕は途端に言葉に詰まった。喋れなくなると途端に今度は、なにか伝えておきたいこと、熱いイメージの塊が脳の領域をガーンと占めたようになり、喉にあるこのつっかえをお前にならそのまま食ってもらいたいほどの気分にもなったのだけど、初対面の僕たちの間じゃ流石にそれも躊躇われ、すると僕はもう次の瞬間には、裏切られた女が泣きながらキッと睨むように、怒られた子供が逃げ出すように、台風にあっけなく連れ去られるゴミ袋のように、犬のように、店を飛び出した。急な階段を落下するような勢いで転げ落ちながら、地の底で自分を今運び去った音どもを恨みっぽく振り返れば、店のドアを開けお前の顔が微笑みながら僕を見返し、僕の喉からはヒューヒューと風が吹く。まるでそのようにスムーズに、


「おい、見るなよ、バカ」 


 僕は笑いながらそう言った。お前もまた風のように笑いながら、


「葉子さん、それより大変だ、今立とうとしたら、喜多さんが酔っちゃってて歩けないんですよ、手伝ってください、恋人なんでしょ?」


 僕らの言葉はすべて比喩だった。風が形を持たないように、僕もお前もそんなことを話しているのではなかった。


「お前が介抱してやりなよ、友達なんでしょ? 俺の出しゃばる場面じゃないよ。もしもよければ、ひよりのいいところ、俺は百個でも教えてあげようか?」


「だめですよ、俺は喜多さんよりも葉子さんのことが好きです、残念ながら、恋愛とは違いますが」


 比喩の下でくすぶっていた本音が……カーテンの中でくすぐり合っていた子供たちがついに楽しさを爆発させて、どうしてもそれを脱ぎ捨て、お互いに裸体をくすぐり合うところまで行かずにはいられないというように、溢れだすと、僕たちはもうそれはそれは素直に笑い合い、するともう、すべてが愉快な夢のようにも楽しい。そうなのだ、僕はいつでも他の物事を通じてお前のことを、お前も同様に僕のことを、そして両者は両者を通じて自らのことを語っていたのだ。


「俺もお前のことが好きだよ、お前の目を、口を、顎を見ていると、死ぬのももったいないと思うくらいに、ああ俺はお前の気持ちがわかるなあ、吹き抜けで、お互いに、気持ちがいいのと、気持ち悪いのと、ぐちゃぐちゃだ、吐き気が……」


「葉子さん、早く来て、喜多さんが」


「俺にどうしろって言うの?」


「送ってあげてください、家は、すぐそこなんです。俺には荷が重いですよ」


「じゃあ、いいよ、それまでに立っとくからさ、ここまで連れてきてあげて。そんで、お前も一緒に来いよ」


 *


 お前は急いで店に戻ると、ひよりの耳元に囁く、お前はその言葉だけ深く無意識に沈み込んでいるひよりにも届くことを確信していたので、背中を叩いて突撃の最初の犠牲者を送り出すように僕の名前をその演説の頭に置いたのだ。葉子さんが、ねえ喜多さん? 外で待ってるって、歩ける? 案の定ひよりは顔を起こすとろれつの回らない舌で、どこでぇ?……そう問い返す。ひよりの言葉の遅さにうんざりしたお前は、外だよと言いながらひよりの脇の下に肩を差し込み、持ち上げると、引きずるように歩き始める。ひよりにはその臓器の浮く感じが面白く、ひよりの見る夢には拍車がかかる、その遊園地は無重力状態で、下には僕が待っている、しかもお前の送迎までついていて……お前はもう一方の肩でドアを押し開ける。すると階段の下では僕が胡坐をかいて地面に座りながら見透かすように笑っていた。お前の羞恥心が、僕には手に取るようにわかる。お前はまさに苦難を共にする信徒のようにひよりに肩を預けていたのではなく、牛の死体を背負い歩く肉屋のようにひよりを肩にぶら下げていたのだから、お前にはそれがまるで都市の中心で蜜蜂に集られているかのように具合が悪く、照れくさかった。僕はといえば、反対に、今すぐにでも飛び出してぐったりしているひよりの喉の奥に指を突っ込み、一緒にげーげーとでも唸りながら汚物をそこらにまき散らしてやりたい、というほどにも元気いっぱいだった。お前は階段を降りてきて僕の上にひよりを、負け続けたゲームにさらにその上に最後の財産まで全ベットする、とでもいうように置き捨てた。するとひよりは僕の腕の中で軟体生物のように重心を持たずこぼれ落ちてしまいそうな柔らかさだった、目も開けられず、かろうじて言葉が聞き取れるだけという状態だった。僕は服を着こむようによいしょとひよりを背負ってから、起き上がろうとも僕の筋力では難しいということを知り、お前に腕を取られ引きずり上げてもらうと、さてそれでようやく僕らはひよりの家へと歩き始めた。


 *


「ねぇ、葉子さん、もう小説はやめてしまったんですか?」


「どうだと思う? 俺が、書いてるように見える?」


「さあ、書いてないんですか? その体の中で、うるさいのはアルコールだけ?」


「ふん、こいつは、特別静かな方だよ、もっとうるさいのを、俺は他にいっぱい飼ってるよ」


「そいつらが、それでもなにも書かないって?」


「ああ、歩き方を忘れた」


「それでも歩けてるのは? 優雅に、天才の歩行だ!」


「ダンスダンスダンスダンス……」


「ねえ、あなたはあんなにすごかったのに、ほんとにもう書かないんですか?」


「お前が書いてるじゃないか、俺にはもうそれで十分だ!」


「あなたの仕事は終わり?」


「俺はやれるだけやった!」


「だけどあなたはまだ生きている、こんなにピンピンと」


「ああそうだ、元気過ぎるな、俺……」


「あはははは、冗談じゃない」


「あははは?……」


「あなたはまた書きますよ、絶対に、書かずにいられるとでも?」


「オレハシニタクナイヨー」


「鳥みたい」


「バカらしい……」


「あっ! 喜多さんがビクンってなりましたよ、これ、大丈夫ですか?」


「う~ん、これくらいなら平気なんじゃない?……もしものときは、勝手に吐くよ」


「喜多さんって」


「うん」


「変な人ですね、最初話しかけられたときも、距離感おかしいっていうか、結果俺としてはラッキーだったんですけどね、葉子さんに会えたから、あと、あとっていうか、すっげぇ美人だし」


「あははははは、聞かせてあげたかったよ、お前でも思うんだ、美人とか美人じゃないとか」


「そりゃ嫌でも思いますよ、あくまで客観的に、ですけどね」


「ああそう、ね、ひより、自分で歩いてるよ、今、起きた? お~い」


「は~い……」


「ははは、へにゃへにゃだ、もうちょっとだよ、家まで、頑張りなぁ」


 目を覚ましたひよりは前よりももっと身体をよりかけるように歩いた。意識ははっきりと目覚めていながら、まだ眠りとの接続が途絶えていないうちにその心地よさを盗みとろうとするように、ひよりは瞼の奥で瞳をくるくると転がしていた。ひよりはバレていないと思いながら、ブランコを漕ぐように僕たちの間に浮かび、ふふふと下向きに笑みを噛み殺していた。ひよりの住んでいたのは、大学の裏にある学生寮だった。アパートのエントランスでは、二人の学生が丸テーブルを囲って談笑していた。僕たちを見るなりギョッと目を見開いて話し止んだ。ひよりのポケットから鍵を探り出し、部屋に入ると、すぐにひよりをベッドに寝かせてあげた。一息つこうとしてその縁に腰を下ろすと、ひよりは寝返りをうって僕たちの方を向いた。それから、夜伽話を待つように、僕の服の袖をぎゅっと掴んで離すと、寝息を立て出した。僕はお前に耳打ちし……


「おい、もう帰る?」


 お前は僕の顔をじっと見て、崩れるように笑い、


「う~ん、どうしよう、ここで聞いてもらってもいいですか、聞きたいことがあるんですよ、ここを逃したら、葉子さん、次は会ってくれなさそうだし、外に出れば、また走って行っちゃうかもしれない」


「ここで? う~ん、今?」


「ここで、今、ですよ。聞けますか? 頭回らない?」


「いや、いいよ、じゃあ話せよ」


「じゃあやっぱり、もう会わないつもりだったんだ。一応言っておきますけど、聞けば終わるって話でもないですからね」


「うげ、気持ち悪い、ダリい、会うよ、会うよ、ダリい、話せよ」


「あははは、どれが本音で嘘なんですか」


「いいから、話せよ」


「どこまで言ったっけなあ、俺は小説を書いてるでしょ、嘘じゃなく、あなたの小説を始めて読んだとき、こんなものがあるんだと思ったんです、もしかしてこれは、まだ誰も気づいていなくとも、これは、これから書かれるもののすべてなのではないか、とね、ひとつの爆発が宇宙の全てであったように、これはあなたの比喩ですよ。正直、ショックなくらいだった、俺がここまで行けるかな?って考えこんだくらい。そして、そのあとに、あれを知らされるでしょ? あなたが、もう小説を書いてないっていうことを。それから俺は、あなたにもっと夢中になった。本のこと、高校のとき、お遊びでバンド組んでた奴がめちゃめちゃ詳しくて、現代文学特化だったんですけどね、そいつは、文芸誌毎月買ってるような奴で、あなたの文章はそいつのおかげでまあすべて読んだんじゃないかな、だから、あなたがどうして小説を書かないのかとかその辺の質問に飽き飽きしてるのも知ってます。でもね、俺は、あなたは、どうせそのうちにまた小説を書くんだろうって思ってたんですよ、あなたはそれをやめた、まあ、終えたと言ってもいいかもしれない、あなたはやり尽くした、もう思い残すこともなかった、だけど俺の思ったのは、そこですよ、あなたの生がたとえその瞬間は完全でも、あなたはいつまでもそこで満足していられるあなたじゃない、だってあなたはそれはそれは天才だったんだから、その天才のことを、もうわかったと捨ててしまえるあなたじゃない。それでも、実際に会ってみたあなたは、まあなんと言うか、呼吸するように、小説を書いていない、でしょ? なんと言うかな、あなたは、すっかり小説のことなんて忘れたと言うように、当然って風に、もう小説を書いていないんですよ。俺にはそれが、まあ不思議ってこともないかな、理解はできる、ただ、う~ん、腑に落ちない、望ましいとは思えない、自分の作品に怯えるなんて、あなたはなんて卑怯な人なんだ、と思う、あなたはそれをやめるにせよ、もっとやめないようにやめることだってできたんだ」


「チっ、俺はお前の演説の、その最後の部分にだけは拍手を送ってやるよ、こんな夜でもなかったらね、おい、静かにしないとね……ああ、俺がどうしてそれをやめたや? 俺はたんに、ああ、俺にはただなにに自分が感動を覚えるかってことの、この、なに、の部分に貴賤はないんだって思えるだけで、例えば俺の小説が素晴らしかったのだとすればそれが素晴らしかったように、もう花も石も飯もなんでも素晴らしいんだって思えるわけ。今俺は、女の人と暮らしてるんだけど、その人に必死に仕えることと、小説を頑張って書くこと、その二つの間になにか違いがあるか?と考えても、俺にはわからない。小説に宇宙があったように、石にも人にもそれがあってさ、いい? お前のどんな偉大さも簡単に飲み込んじゃえる胃袋が、どんな石にも人にも、舌にも耳たぶにも、あるんだって思うことだよ、そして、お前にもね。石の宇宙の中にはお前があって、その石の中のお前はまたその石を内包する宇宙だ、なんて。お前や俺も石もなにも変わらない。俺にはなにも腐って見えはしないよ。ただなにもかもが見えるという風に、一切が見えない。どこまでも落ち着いていて、ただそれだけ」


「わかります、葉子さんの言うこと、いや、わかる気がすると言った方がいいかな、俺にはまだそういう経験がないから、ただ、予感しますよ、確かに。でも、それを、どこまでそう思えているんですか? もう完全に? 理性との折り合いがついた? 自分もそこらの人も何も変わらないって? 生には最上なものなどなく、ただどれも完全だって? いつ本当にそれを思いました? 俺にはわからないなあ、俺には、俺は、俺だけが最上ならそれでいいと思う。もしもこの世が、俺が死ぬまでに俺が最高の小説を書くためだけにあるのだとしたら、そんなに素晴らしいことはないと思う。まあ、バカげてると思うし、葉子さんの言うこともわかるけど、ねぇ、そう言えば、思い出したけど、どっかの取材であなたが言ってたこと、挫折したことで俺はようやく俺になった、って奴、それがその考えなんですか? だとしたら、言っておくと、いいですか、俺は、あなたのあの小説が、ね……あれが、本当にあなたにとっての最上のものだったんだ、とまでは、思いませんでしたよ、俺はあなたが大好きだけど、あなたには探り忘れた可能性が、疑い忘れた未知がまだありますよ……なんて。ああ、生は尽きないものだ、現にあなたはそんなに元気じゃないか、感動が書かないなんてこともないでしょう? なにもあんたの拍手を頂戴したいわけじゃないけど、不満を垂れるばかりじゃなくても、花開くようにそれはあれる」


 僕が特大の拍手を、お望みの通りお前にくれてやろうとしたそのとき、ドアが開いて女の子が部屋に駆け込んできた。女の子は僕らを見下げるように睨むと、つかつかとベッドへと近寄り、僕たちを蹴散らして、ひよりを守るような姿勢に。それからようやく口を開いた。


「女子寮ですよ? 何のつもりですか?」


 ああ、蜜、しっかり者のお前はその女の子に頭を下げると、ごめんなさい、と、ひよりが酔ってしまって、仕方なく二人でここまで連れてきた経緯を説明したのだ、その子はすぐにピンときたようで、お前にもしかしてあなたが蜜か? とそう訊ねると、お前はそうだと不思議そうに言った。


「れいなです、ひよりの友達の」


「ああ、聞き覚えが」


「ねぇ、ひよりにこんなにまで飲ませて、こんな風に扱うなら、許さないから」


「ごめん、俺も、酔ってて、言い訳じゃないけど、この人は、俺にも喜多さんにも大切な人だったから、つい」


「今日は、出てって、ひよりは早起きだったんだから、話はひよりから聞くから、部外者が急にごめん、ここまで送ってくれてありがとう」


 *


 僕たちは夜の中に取り残された。まさに今産み落とされ双子の胎児のように僕たちは二人きりで、丸裸だった。僕は言った。おいお前、蜜? お前さあ、ふはははは、俺の小説が俺にとって最上のものではなかったと言った? それはつまり、俺の生がまだ完全には試みられていなかったって? 感動も言葉を知ってると? お前、こういうことは考えたことがある? いい? 夜の時間……家、店、人、全てがシャッターを下ろして僕たちを遮断する……では俺たちはなにに頼ればいいのか? まさか、俺たちは俺たちだけでこの闇の中に立てと言われているのではないか? しかし、この途方もない、繋がりを欠いた全体である夜の中で、あーあ、ちぇっ……あまりにもちっぽけすぎる俺たちに、なにができるというのか? ああ俺たちを押しつぶすのは何も感動だけじゃないさ、死がすぐ傍まで来てるじゃないか、俺たちは、なにか、でない以上は、この闇の中で正気を保っていられない。なんせ全くの一人ぼっちなんだから。煙草を吸う? 歌を歌う? しかし夜は足を突くあの綺麗好きの小魚のように、お前の肌にも伺いを立てるぞ、毛穴という毛穴、感覚という感覚から侵入を試みるぞ。そこでは、内側は外側へとめくれ、内向は外向へ、正常がきちがいへと裏切られる……お前がもしもお前であり続けることを願うのなら、お前が傑作の塔を建てるのなら、そうだなあ、お前はなにかと関係しないといけない、誰かと手を結ばなきゃ。では、だよ、なにが、俺たちを、遮断しないものなどがあるか? 俺たちは、なにか、であることを強いられているわけだ、昼間なら簡単だよ、俺を殺すものなどは、カフェにある、スーパーにある、遊園地、服屋に、恋人にも、でも今はあいにくの夜で、だから、子供のときのあの遊び、色取りゲームの鬼、のような奴がさ、死神が、俺たちを追いかけて来るのに、俺たちがそれと、色と手を繋いでない限り、捕まって、きちがいになっちゃうって言うのにさ、降りているシャッターを見る度に俺はこう思うよ、夜は、犯罪の時間なんだ!……夜に可能なのはそれだけだろう。俺たちは隅に追いやられたゴミ袋をあさる、不法投棄された自転車をいじくりまわす、城壁の性感帯であるインターフォンをくすぐる、俺たちを監視する、そして虫どもの惨めな集会所である街灯を叩き割る、置き忘れられた荷物を盗む、それが子供であったら、連れ去る、大声で喚く、そしてもしもひびが入れば、そこからこじ開ける、猫を、追い立てる、もしも捕まえてしまったら、優しく撫でてやる、畑を踏み荒らす、そして未成熟の野菜を引っこ抜いて食べる、吐いても歯磨きくらいには役立つさ……歩く、線路の上、屋根の上、アーケードの上!……一休みする、公園で、墓場で、街のベンチで、ゴミ捨て場で!……何日風呂に入らなければ人間ではなくなれるだろう? どれだけの言葉を忘れれば動物に近づくだろう? どれだけの主義を持たなければ、そいつは剥き出しだろう? どれだけ大きな声で笑えれば裸より潔癖でいられる? 死も、誰も、俺を思い出さなくなるだろうか?……お前にはわかるかな? この生の、夜の、死の? 途方もなさ。俺の生が、それが最上のものではなかった? 当然、俺はその、それというのは、最上の、全ての、ということだけどね、そのすべてに、神に触れた瞬間に、そのあまりに途方もなさに眩暈がして天から落っこちたんだよ!……お前が言う? あなたの生がいかに惜しいものだったか? お前が俺に小説を書けなどと言ったところで、俺の言葉はこの生のすべてを組み立てるためにはあまりにも足りなさ過ぎたのだ。だから俺は沈黙する、いいや、俺は生きようと思ったときもう殺されてしまう……それから、とぼとぼと歩いた。僕たちは、今日はもうそれ以上、話すこともなかった……


 *


お前と別れた途端、僕はなにかに操られたように笑い始めた。あはは、あはははは、お前、蜜、ははは、こんなことなんて久しぶりなんだろう、こんなに多く話したのは、こんなに多く考えたのは、耳に聞いたのは……蜜、とうとう僕とお前が出会ったね、僕の産んだ子供のようにも思えるお前と、まあ僕の読者だったわけだ、お前は、適切な比喩は気分じゃない、のに……お前は、だから、そうだなあ、言ってるうちに、適切な比喩を使いたくなり、お前は、僕の影のような奴だよ、ずっとそこにいて、とうとう姿を現したな……んてくだらない……とうとう? 僕は、そう思い当たったとき、ギクリってなったな。ああくそ、死ぬ、チっ、バッド入る、入っ……た、脚、自軸?傾いて、左側に円を描く、舌を出して左回り、タンタンとね……ふふふふらっふら……でも、くそが、そうだ、僕はお前の顔を見たあのときから、嫌な予感がしていたんだっけ? ああ、こんなこと、なんて久しぶりなんだろう……どうして今更、僕はこんなにお前のことを考えないといけないのだろう、蜜、蜜、僕は美しい彫刻作品を、あるいはボーリングの球を、撫でるが如くお前の名を呼びたい。蜜、蜜、蜜、お前の輪郭に触れ、舌のざらつきに引っかかって、鳥肌の一つ一つに忍び込み、くすくすと悪夢を流し込む……ああなんて無意味。今のところ、お前に感染したのは僕の方なんだからな。こんなにも僕に喋らせるのは。久しぶりに。そう言えば僕は……どうして小説なんか書いたんだっけ?……いいや違うや、どうして僕は小説を書かないのや? 思い返してみれば、くすくす、変な質問だ、まるでそうしないよりそうする方が自然な状態であると言ってるみたいだ! 苦しむだけ救われると思ってるんだな、馬鹿どもめ、それだったら蜜、お前は道行く全ての人の胸ぐらを締め上げ、懇願する眼つきで見上げ、そいつを問いたださないといけないことになる……どうして甘ったれて生きてんだって……なんて、詭弁使いの僕ではないから、そんなことは言わないが、お前はよりにもよってこの僕にだけはそれを訊ねるの? まるでバカみたいに、子供のように、僕はわかっていることを訊ね、ああ、どうして僕は書かないのか? 僕はどうして書いていたんだろう? 神の導き? 子供の遊び? 俺の塔は象牙か粘土細工か! ああどれも、近いようで遠い。そう言えば、お前は、どうして僕に書いていてほしいのだろう? 確か、俺のことを好きだとかどうとか……まあいいや、それは単純な理由であり、僕の生が今お前の動向を窺うなら、それとこれとは等しい、つまり誰にとっても花火を見るのは楽しく、海はおぼろげに偉大、月は落ち着く、太陽はエネルギーである、ということなんだ……僕の反論、なんて難しいこと、しないよ、ふん、どうして僕が書かないか、か。答えは簡単で、なぜなら僕にはもう僕など偉大じゃないから。お前もいつかこれを理解するかな? このことを、つまり僕なんてのはお前と同じくらい、そこらの草木、石、家、屋根、約束、小銭、大道芸人、時計、新聞、あいうえお、英文法、カタツムリ、読点、ランプ、ラクダ、濁点、嵐、ひっくり返り、死! これらと大差ない存在なんだっていうことをさ。蜜、お前はもしもお前が理解したその後も、なにかを書こうだなんて気を起こせるの? 書くことが存在することの形式だった、って言うのならそれはそれでいいさ、カエルが跳び、モグラが潜り、サルが尻を掻き、雨が落下し風が吹くように書くなら書くで……あ、そうだ、カエルは田んぼにカエル……なんてね。誰にとっても書くことは、あらゆることは、ついに、田んぼでしかなく、天への梯子を上る行為ではなかったわけだ。ただし、もしもお前を歩かせるのが期待の感覚であるなら、それは、期待は必ず裏切られるだろう。いい? 梯子を上る、そして到達する、お前が待ち望んだ全能の時、空間である瞬間そのものに到達すると同時に、お前はそこから振り落とされるのだ、ジャンプの次の瞬間を想像してみるといいさ、お前はお前の限界を超えたと同時に墜落する、捕まえた、瞬間はすでに手の中から逃げ出している。そして、大事なのはこのことなんだよ、もうお前は、知ってしまったのだから、全能の時の終わりを、お前は、一段と高くなった天上への階段を、以後も変わらずに、そして今度は、それが必ず逃げることを知りながら、そしてどのあたりで自分の息の音があがり出すのかも、すべて知りながら、もう一度、同じ道を歩まなければならないんだ! もしもお前がなにかに至ったのなら、確信のほんの一端にでも触れたのなら、お前をうんざりさせるものの正体は、他のなにでもなくそれだったんだ! ということに、お前は気づくはずだ。梯子を上る、そしてお前はほんの一瞬お前を越えた罪の罰で、自分の一番どん底まで墜落する。そのとき、お前にはもう愛すべき自己などないのだ。お前が待ち望む全能の瞬間はお前を振り落とし、それはお前を失望させるだけなんだ。絶対にそうなんだ! ということを今ここで信じてくれ、誓ってくれ、そしてもしも、それすらもお前には期待されているというのなら、歩くにせよお前は死体と似た姿では歩かないでくれ。すべて死体は寝静まり、昼間には昼間の力強さで、夜には夜の粘り強さで、僕にお前の輝きを証明してくれ。蜜、お前が僕に頼んだように、僕の才能を忘れられなかったように、僕の方からもお前を羨んでいたのだ。お前は僕の道しるべになるのか? 僕が生きていてもいいと思えるような先例に、繰り返し、そして擦り切れた生の中にあって、僕がまだ新鮮に呼吸を望める安息地に、僕の才能や観念がいかに挫折しようともそこに帰っていく生そのものにとっての故郷に、お前は足りるだろうか? ああ感動が書く、感動が書かない、髪をかき分けるように繊細に分かれ目を探ることだ、それともコインの裏表のように、表の極点こそ裏に違いないということさえ、ありえるさ……かく語りき。僕が、お前と出会ってしまったために……さて、印刷して蜜に持っていってやれば、こんなものでも喜ぶのかな、バカげてる、こんなのは、わかってる? お家芸じゃないんだ……僕がバカげてるだけさ……



今は、ただ、どこにも寄りかかるところのない僕。夜のこの強固さに対して、あまりにも弱いこの僕は、今にもどこかへ倒れてしまいたい。立っていることがつらいならせめて道端に倒れて、空洞の心地よさを味わいたい……昔、酒に酔って道端に倒れていると、色んな人の言葉が風のように聞こえた、そいつらは僕の頭の空洞を撫でては通り抜け、僕はそれらの言葉を反射させる場としてだけ存在を許されているような気がした。だからあのとき初めて僕は僕などいないということの快感を知ったのだ。ある大学生が通る。その友達が言う。助けなくてもいいのかな? どうしよう、救急車呼ぶ? 多分、寝てるだけでしょ。ある警備員が僕をライトで照らす。そいつもまた救急車のことを口にする。僕は声を出す。大丈夫ですよ。まるで無心で。男は去って行く。ある犬が通る、僕を舐め、しょんべんを引っ掻ける、酔っ払いが僕につまずく、風が懐を探る、ああそれから、ある屈強な男が通ったんだっけ? 男は僕のために立ち止まる。引かれますよ、そんなとこで寝てたら。僕は顔を見上げる。じゃあ起こしてよ。その頃には、長い長い死んだふりが功を奏したのか、もうだいぶ苦痛からも見逃されていて……僕は男の肩を借りて歩き……今日のひよりのように……自室にたどり着いた。男は去って行った。あれ? 僕はそれとも、伊吹を呼んだのだったか? どの夜かに、もしもし伊吹? どうしても歩くことが出来なくなってさ、僕は伊吹に助けを求めたのだ。伊吹はすぐに来てくれた。夜着に身を包み、風に吹き晒された姿、その髪はしとやかに濡れ、瞳は月の反射である、昆虫の嘗め回す樹液のような唇と、少女の忘れ形見みたいにちっちゃくてかわいい鼻、僕は、夜に、伊吹の顔を浮かべる。僕は僕は地面に沈み、そこは棺桶のような長方形、ベッドのようにも四角くて、そこでも僕は遊べる。僕はついに僕の言葉を追い出し、僕は空洞を生み出し、そこで物と物とを遊ばせる。僕はあくまでも空虚な穴であり続けることで、前述の通り、僕は風のようにも生きられる。いつからか考えることが苦痛になっていた、それは必ず僕を死へと突き落とすものだった……僕には僕という言葉の密度が……僕は、僕、という言葉のあとでは、唖にもなってしまいそうだ、僕、僕は、僕……僕は、そして、伊吹の元に帰りつく。伊吹は僕が酒臭いと言って、どうしてそんなに飲んできたのって、僕が、素直にお前のことを打ち明けると、伊吹は焼き魚が串刺しにされたように背を伸ばして、目に緊張感を走らせたのだ、それは、頭から刺さってあんたに指示を送る、神の声を聞いた瞬間のようであった、と、思い返す今ならわかる。あんたは過去と未来もごっちゃに受信し、思い出すように未来をすべて先取りしてしまったのかもしれない。僕らがどうなるか……さてここらで一度、一区切り、幕間を挟んですぐ、次へ……

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