第5話 蜜は僕を見つける

あの朝? 昼? 夜? お前は僕の部屋のドアをノックした? ひよりはどうして依然とほとんど変わらないように僕に微笑むのに、その頬にはぽつぽつとあったニキビが消えていたのか? そして笑うときの妙におしとやかだったあの感じさえも消え。多分、一年や二年? ああひよりは一年浪人してまでこの大学に進学することに決めたのだ。それだから二年だ、作家は死んだって言うのに! ひよりはあの日僕が出した手紙の住所を大切に記憶し、今ようやく僕の元に現れた。お前を連れて。お前とひよりは、大学で出会ったのだ。伊吹が通っていたのと同じ大学の一年生同士で、ある講義室にて読書中だったお前に、最初の友達を必要としていたひよりが声をかけたのが始まりだった。いいやひよりはそのお前の姿の中に、すでに僕のことを見ていたのかもしれない、なんせお前は僕のように髪を伸ばしていたし、僕はそんなに丸くきらきらした目は持ち合わせていないけど、その目が集中に沈むとき、それは僕のと同じような色を湛えるものだったから。ひよりは声をかける、半ば無意識的に、ああこの大学を目指していた理由さえ今では忘れてしまったのだろう、それでも私はここに来た、なんとなくあの男の子と友達になりたい……お前は鬱陶し気に顔をあげるのだ。最初の一瞥で、いいやあるいはそれよりも早く、その声の浮つきひとつでもうひよりに対してはうんざりと飽き果ててしまったお前は、まともな返事を考えてやるつもりなどない、お前はどうせこの人が望んでいるのは僕との対話なのではなく講義の友達との普通の会話なのだし、だから僕は天気のためには天気を、バカにはバカを返してやろう、そんな風にその場をやり過ごそうとする、お前の目は開いていても薄く曇っていてどこか自分自身の夢に微睡むと言ったような様子だ、声は言葉に結晶しようとも吐息となんら変わりのない無意味さなのだ。しかしひよりは気づかなかった、第一世界にそんなものがあるなんてことは、知らなかった! だからお前にも臆することなどなく、いいやむしろ、その体調の悪さ?を心配するような調子でどんどんその肉の傍に近寄る。ねぇ、それ、本? 何を読んでたの? それが僕の本だった、お前はこれ、と言って


ひよりにその表紙を見せてやると、なんとなく嬉しくなってそれを言わずにはいられなくなる、この作者が、この近くに住んでるんだよ、前にここの講師だった作家の弟子で、今も年齢的にここの学生なんじゃないかなあと思ってるんだけど、もしかしてそれがあなただった? お前はふざけてそんなことを言う、しかしひよりのその驚きようは、驚いて大きく開いた口に寄り添う手のひらの母親っぽさは……お前は少しずつその表情を歪めて行きながら、冗談だよ? と自分自身に言い聞かせるように言う、作者がこの辺りに住んでたって言うのは本当だけどね、荻野葉子、ああ一度会ってみたい。その名前を耳にしたととき、ひよりはすべてを思い出すのだ、ああ葉子君、そうだ、葉子君は小説家になったんだ、私は彼を追いかけて、というつもりではなかったにせよ、それもひとつのモチベーションとして、一浪してまでこの大学までやって来たんだった、今朝も、あの手紙を鞄に入れてきたばかりだったのに……きっと、この男の子がその本を今日のお供として選んだのと同じ気持ちで、ああ忘れていた、ではなくて、親しすぎた、当たり前で、私にはそれを思い出すことができなかった、久保君、久保君から聞いたんだっけ? どんな不吉な運命か、久保君がようやくそれと歩いて行くと決意した夜空の星である作家が、不幸な事故で死んでしまったという知らせが届くのと同時に、私は葉子君が作家になったことを知ったのだ、ああ久保君は、今はどうしているだろう? 別の大学に進学しちゃったんだったかなあ、今頃二年生にでもなって、葉子君も、確かにこの近くにいるのかもしれない、ああどういう気だかは、わからないけど、いいや私にはどういう気だってないのだ、私はただなんというか風が気持ちのいい方にただ吹くようにそうしているだけなのだし、ああ私はあれから何人恋人をつくったっけ? この男の子、見れば見るほど、葉子君の姿がちらつく、でも葉子君よりも、おとなしそうで、優しそうだ、どんな風に私のおでこを小突くのだとしても痛くはしなさそうだ。ひよりはそのときようやく、自分があんたのことをあんまりじっと見過ぎていたのだということに気が付き、急いで視線を外すと、またすぐに満面の笑みを浮かべて、あのね、と言った、あのね、私の名前はひよりだよ、ああひよりは久保から聞いてそれを知っていたのだ、おい今度雑誌に載ってる葉子の小説の、ヒロインの名はひよりと言うぞ、と、それだからひよりはお前にそう言ったのだけど、これは飛び切りの秘密なのだ、私でさえ何重にも閉ざされた記憶の箱を開けてようやく手にしたものなのだから、簡単には解かれたくない謎として、ひよりはあんたに差し出した、ニコニコと笑顔を差し向ける、お前はまだそれを疑っている、お前は本当は、それがそうであることを理解しているのに、ひよりのこの、あまりのなんでもなさと言うか、ああこれが、しかしこれさえも、符号にピタリとあてはまるものなのだ、ああどうして、あの人はこの子を選んだのだろう、このとびきりかわいらしい女の子を、かわいくて、ちょっと距離感がおかしいというか、なんとなく不器用な感じの子、その心のちょっとした、少女の意地悪のようなひん曲がり方ゆえに、真っすぐにありたいと心の底から願っているというような素直な心のただ持ち主を、ああどうして葉子さんは好きになったんだろう? お前にはいつまでもそれがわからない、わからなくてそれを信じたくはない、お前は彼女こそが我が人生のピースであるのかもしれないと思えば思うほどそれを排除したくなり、しかし僕がそうでなかった以上、そのひよりの魂に何も期待しないなんて態度はとれない。だから偶然だねとそう口にするお前の声は震えている、偶然だね、この本にも同じ名前の女の子が出て来る、ひよりは、そうだね、偶然。と、ぎゅっと泥団子を握り締めるようにお前の言葉を繰り返す。ねぇ、あなたは、まさか、その、ひよりちゃん、なの? ああ、お前は聞かなくてももうそのことに気がついている、なぜならお前は疑うより早く精神の奥深くの神を信じている。



お前とひよりは友達になったのだ。自分自身に対してはいくら疑っても疑い足りないという質のお前だったから、最後の最後までこのひよりのことを、お前は僕から出題された問いとして受け取った。お前が僕のことを尊敬している限りにおいて、お前はこのひよりのことを軽視することはできず、それだからその謎を探ろうとお前はどんどんひよりの中に入り込んで行った。ああお前にはひよりのことがまるでわからない、にこやかで愚かなただ人生の観客じゃないか、というところまでしか頭が回らない、お前はひよりの笑顔を見るたびに、ああ早く、それがもっと咲き狂い、花から花が顔を出すように、真実の姿を僕に見せてくれないだろうか? とそう思えるばかりでもどかしい。



お前たちは僕を探していたのだ、ひよりは、当然そのポケットの中に最後の銃弾を隠し持っていたのだけど、それを今知れせてしまうのは何となく嫌だ、とその不吉の星の輝きを感じ取っていた。お前たちはいつも、授業のあと学食を食いに集まり、そこでさっき受けた授業の話や、学生らの様子や、自らの期待の腐り果てて行く様を叙述した、案外気を許せば許すお前だったから、砕けた言葉遣いで、特に気の抜けているときには、お前は少しでも場の空気がゆるみを見ればそれを描いてみせないでいられるほど欲望に対して我慢強い方ではなかった。ああ、早く、葉子さんと会えないかなあ、なんだか会える気がするんだけど、俺、あの人が、やっぱりいる気がする、だってこんなに俺は会いたいんだからさ……とお前は椅子の背に大きく仰向けになりながら言った。


「それよりも、ねぇ、蜜君って、サークルはもう決めた?」


「それよりも、ねぇ? 俺が、サークルを、ああ、考えてなかった、喜多さんは? 見て回ってるの?」


「いやぁ、まだ。一緒に回らないかなと思って」


「いいよ、でも、俺は……」


「葉子君を探す?」


「うん……サークルも、面白いのがあればいいんだけど」


「どこを回る? 蜜君、スポーツとかは?」


「え? あの人が、運動してるの?」


「さあ」


「文化部のとこを回ろう、なに好きだった? あの人」


「小説と、映画と、音楽の話はあんまり聞かなかった」


「んじゃあ手間が省けるや」


 *


そしてお前たちは文芸部と映画研究部の共同部室を訪れたのだ、文芸部には誰も人がいなかった、畳の部屋で、小さなテーブルとソファがひとつと、漫画なんかの詰まった本棚が置いてあるだけ、お前は本棚をあさって、部活の同人の頁を捲っていく、けどそこに僕の名前はなかった。ため息をついて振り返ると、ひよりは一人用のソファに身体を預けてうふふと漫画を読んでいる、お前のため息は深くなる……お前はひよりを放って、次は映画研究部の方へ、黒いカーテンを捲る、恐らく光を遮るためのものなのだろう、映研の部室は大きなソファが二つL字型になって繋げてあって、その向こうには大きなスクリーンが。ディスクを再生するのはゲーム機だった、その日は、大人しそうな女の人と、パーマにジェルを着けた大人っぽい男と、小魚みたいに鬱陶しい男と、三人の部員がいた。スクリーンは何かわからない映画を再生していたけど、これは女の部員がひとりで関心を向けているだけのようで、他の二人はソファに横になりながら各々の興味に耽っていた。お前はひよりと並んでソファの端に腰かける。女の部員が、すぐに映画を止めて部活の説明を始めた。ひよりはそれに熱心に聞き入り、お前はというと欠伸を我慢しながら二人の男のだらけた姿を見ていた。ああ僕が、こんななりだから、僕の髪が長いから、そして喜多さんはあんまりかわいい女の子だから、こいつらは僕に恐怖しているわけだ、俺が来てからこいつらの態度は余計に悪化したというか、余計にだらけた、あっちの小魚は足を伸ばしきってソファを占領してやがる、そんなに僕が怖いか、はっ、何もしないよ……ただしお前が、その部活のことを、気に入らなかったというわけじゃない、少なくともひよりがそう感じていたように、ここなら伸び伸びと出来るかもしれない、とお前も少しはそれを感じていて、それだから説明を聞き終えて外に出たとき、ひよりがいい部活そうだったねと日の光のような笑顔で言うのに、わざわざ否定で返すようなことはなかった。何よりお前はここに葉子がいるか? という問いを問うことを忘れていたことに気が付き、そんな自分のうかつさに嫌気がさして、何かを拒む気などとうに失くしていたのだ。それにお前の家はここからじゃ遠すぎた、貧乏で一人暮らしも出来ないお前だったから、あの部屋なら俺が住むのにちょうどいい、それに友達の一人や二人いた方がいいだろうし、お前がそんなことを考えてぼんやりしているのも知らず、ひよりはカフェに行かない? とそうお前に訊ね、丁度今日もまた家に帰るのが億劫だったお前は、いいよ、とそう答えた。



カフェを出た頃には、日はもう落ちていた。お前は一人になりたくて、ひよりに荷物を忘れたと言うと、大学の方へ再び歩き出した、ひよりは、私の家は、寮は、大学の向こうにあるのだと言った、それも眩しいくらいの笑顔で、だからお前はその顔の前では嘘も本当もどうでもいい、怠さも気の向かなさも問題にならないのだと思い、ひよりと二人で坂道を登ると、部室へ曲がる道とこのまま大学を突き抜けて行く真っすぐな道との分かれ目で立ち止まって、熱い眼で別れたくはない別れを告げるひよりと一瞬の口づけを交わしたのだ。ひよりはまたねと去って行き、お前はぼんやりとしながら、ただ悪意もなくなんとなく口元を腕で拭うと、煙草に火をつけた、真っ暗で辺りには誰もいなかった、部室にはさっきの、パーマの男と小魚がいて、お前はお前を推し量ろうとする、動物のような二人の視線に迎えられることになった、お前は笑うこともしないでソファを陣取ると、煙草の続きを吸った。パーマの男がソファの下から灰皿を出してくれたので、それからは三人でぼーっと吸う。吸い終わるとパーマの男が帰ると言い、鍵を、と二人に言いかけると、俺も帰りますと小魚が言ったので、お前も二人に着いて行く流れになった。途中、やはりお前はこの嘘を使う、荷物を忘れた、と言うと部実に戻ろうとした。鍵はパーマに貸してもらった、ここまではよかったのだけど、返し方がわからないだろうから、と小魚が親切心を発揮して付き添うことになってしまった。小魚がついて来る、とお前は思う、こいつはそんなに俺の長い髪が気になるのだろうか? 俺の言うことの変さが? 俺の目のなんとなく何を見ているのかわからないところが?……お前はそのとき初めて、こちらから小魚に話しかけたのだ、あんたら映画は撮ってるんですか? 小魚は不思議な間を置いてからお前にうんと言い、


「うん、撮ってるよ、丁度、さっきの人、日下さん、あの人の作品に、冬から春にかけて参加していたから」


「観れるの、それ」


「多分、部室なら」


「じゃあ、行こう」



それはやはりなんてこともない映画だった、お前は始まると同時に退屈し、煙草に火をつけて小魚に話しかけた。


「あんたは映画が好きなの?」


「俺は……」


「俺は?」


「漫才をしてるよ、芸人、わかる?」


「へぇ、相方は? さっきの人?」


「いいや、高校の同級生の、体のでかい奴、すごいんだよ、そいつは」


「そっちがリーダーなわけだ」


「うん、ネタは、俺が書いてるけど」


「なんでそいつに従うわけ?」


「怖いから、そいつが」


「へぇ」


 お前は急にそいつのことを許せなくなった、そいつではなくその怖い男のことを、お前は大声で笑いだし、あははは、俺の方が怖い! とそう小魚に教えてあげないでは気が済まなかった。小魚はふーんとそれをやり過ごした。お前が、ちょっとやさしくし過ぎたかな? と本気にでもなく反省している間に、小魚が訊いた。


「なんて名前なの?」


「俺は、蜜、さっき喜多さんが言ってなかった? あの、一緒に来た女の子が」


「彼女?」


「さあ」


「俺も、今、もう一つコンビを組んでてさ、その相方の子が女の子だよ、同じ大学の、お笑いサークルの」


「葉子って人はいない?」


「葉子? 知らないなあ、どんな子?」


「男だよ、多分本名で……いいよ、お前に聞くことじゃなかった」


「ならいいんだけど」


「ああ……」


「大学生? その、葉子は」


「知らない、多分、そうかもしれない、作家だよ、この辺に住んでた」


「そっかあ、探しとくよ」


「お前の名前は?」


「切り干し……芸名だよ」


「それが面白いの?」


「相方の奴は、綺羅星」


「ああ、はは、ちょっと面白い」


「ダイナマイトって言うんだ、コンビ名」


「聞いてないよ、なあ、お前、帰らないの?」


「うん、もうそろそろ帰ろうかな、荷物は? あった?」


「俺は、鍵を貸してよ、今日はいいや、家が遠いんだよ、泊まるよ」


「そう? じゃあ」


 *


 切り干しが出てくと、お前は部屋に一人になった、切り干しと、綺羅星のことを思い出して、くっくと笑った。それから気を取り直して、部室を膝で這いながら、棚という棚から本やDVDを床に落として、片っ端から開いて行った、お前は白紙のノートを一冊見つけると、今度はソファに戻って、今日あったことを書きつけた、それからそこに詩を書いた。


 *


 ああタバコの火の先で、世界が終わる


 火から火へ、命のリレーを


 太陽の奴、決してこの俺のことを好きなはずさ


 なんせおれは一番気が知れないんだから


 あんたは俺の無関心を許せやしないよ


 眠る僕、エネルギーゼロの僕


 あんたとは生きる原動力が違うのさ


 俺はいつでもあんたらの裏をかける


 俺はバカにするわけでもなく泥で城を建てられる


 あんたに俺の秘密は、掴ませないよ


 どんなに追いかけたって俺はそこにはいないよ


 *


 よし耳を、澄ませることだ


 風が


 ああ


 夜が


 *


 夜の音


 誰の咳?


 バイクの車輪


 いいや犬の散歩か……


 *


 祭り


 喜び


 おもしろ


 ああ……


 風と風


 太陽の振舞の横暴の、あれでもなんという慎ましさだろうか?……


 ダンスダンスダンスダンスダンスダンス……


 *


日が昇り、ひよりは目覚めて寮の友達の女の子と、朝の散歩をすることにした。誰もいない大学を歩いてみようよ! 友達は化粧をしないで顔にマスクを着けて、ひよりはこのまま授業を受けるつもりで、化粧をして荷物を持って。犬と散歩する老爺がいた、大学から帰りらしいくたびれて脂ぎった顔の男がいた、母親が小さな娘を連れて木の下でお弁当を食べていた、鳥がいたるところで鳴いていた、鳥にとっては止まっているすべてが彼らの足場らしかった、風が道路を吹きすぎて落ち葉を揺らせた。ひよりは髪を抑えると、そのときにたまたま視線が出会った、今初めてそれを思ったわけではないけど、改めてその友達の服のセンスがいいのをわあというような目で見つめた。友達は、なに? とうっとうしそうな目でひよりを見つめ、ひよりは慌てて視線をそらせた。


「ひより、昨日はすぐに寝た? 私、寝れなかったんだよねぇ」


「考え事?」


「そうそ、ひよりのこと、あのね、その男は、れいな的には、あり、でも、深く入れ込み過ぎないように」


 ひよりはふふっと笑う。れいなが大学に入学してすぐに、ずっと年上の社会人の男と付き合い、その誕生日に高価な財布をプレゼントした挙句に、直ぐに価値観の相違だとかいう適当な理由で別れてしまったのを知っていたから、なにをれいなが、と思ったのだ。れいなはあくびをして、


「ひより、授業あるんだっけ? 一限?」


「違うけど、映研の部室に行ってみようかなあって」


「そいつのいるところ?」


「まだ決めてないけど、二人で入りそう」


「気をつけろよ~、あっちがどう思ってるかなんてわかんないんだから」


「ふふっ」


「また笑った、なにさ」


「別に~、れいなちゃんは、どうなのかなあと思って?」


「私? 授業で声かけて来た奴と、今度デートする、ほらあの、金髪の、メッシュの、ダンス部の」


「好きなの?」


「流れかな~」


 れいなはひよりを映研の部室前まで連れて行くと、マスクの下で大きく欠伸をして、顔の前でひらひらと手を振りながら、じゃあね~、と言った。


 *


 部室のドアは開いていた、ひよりはお邪魔しま~すと小さな声でいいながら、重いそのドアを身体全体で押し開けた、靴が一足置いてあった、それはお前の物だった、ひよりは胸を高鳴らせながら、黒い幕のカーテンを潜った、そこにはお前が、ソファの上で、ノートを顔に乗せたまま、とぐろを巻く蛇のように眠っていたので、ひよりは思わずふふっと微笑んでそのノートを手に取ると、お前の横に腰を下ろした。


 *


お前は長く長く眠った。部室に誰がやって来ても起きる気配さえなかった、それだからお前の代わりにひよりが客人の相手を務めることになった、ひよりが、寝てるんです、とまず初めにそれを伝えると、大抵みんな、ああ、とか言いながらお前が寝ているのに目をやり、クスッとでも笑ってから静かに部屋を出て行った。その日は、ひよりは授業にも行かず、ずっとお前の寝ずの番をしていたのだ。この場所が、そしてお前の寝ているのを見守ることが、なんだか心地よかったから? ああ、ひよりはあの時のことを思い出していたのだろう、あの午後、僕と二人で保健室にいた午後を……ずっとずっと、夕方になるまで時間をかけてノートの文章を読むと、その上に僕のあの手紙を開いて、ゆっくりと一字一字、指で追いながら、無意識に、口を動かした。お前はそのとき跳ね起きると、驚いたようなひよりの表情は無視して、その手の中にあるノートを奪い取ったのだ。そこには手紙が被さっていて、お前はなんとはなしにそれに目を通した。ああそして、お前は思い出した、このひよりはあの人の国のお姫様、なんだったってことを、どうして俺は忘れていたんだろう! ああ、ああ、この手紙は?


「ねぇ、これは? あの人からの?」


「さっき届いたんじゃないよ」


「わかってる、いつの?」


「ずっと前、二年も」


「あの頃だ、あの人がまだ小説を書いてた頃、ああ、この手紙……」


 お前はそこに僕の家の住所を認める、思わずひよりの手を掴んでいた、ありがとう、ありがとうと繰り返しながらその手を熱く握る、お前はひよりを連れて走る。

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