第4話 そのように僕は墜落した
明け方、僕はひよりに手紙を書いた。それはひよりが二年間大切に持ち続け、二年後のあの日、とうとうお前と一緒に僕のこの家のドアを叩くための手紙だったのだ、お前は僕の部屋のドアを叩いてこう言った「荻野葉子!」それこそが僕の名であり、すっかり忘れていた僕の仕事の名残だった。僕は笑いをこらえることができなかった。なんせ、ひよりは、この二年の歳月なんて、僕とひよりが再開した今、すっかり綺麗になくしてしまったというように、昨日の隣には当然今日があるとのだとでも言いたげに、にっこりと微笑みかけてきたのだから。僕が、たんに二階から降りてきた朝寝坊の息子ででもあるかのように、ああ、あったことすべてを無視するようににっこりと。僕の小説がお前を呼び、僕のこの手紙がひよりをここへ連れてきたのだ。まさかそのことまでを、僕は僕の運命の射程と捉えるべきなのか? 僕があの作家の部屋を叩いたように、お前が僕を叩き起こすことを? 僕は、昨日の僕のためにも、絶えず怯えていないといけないのだろうか? それはほんの短い手紙で、どんな真心でも大切にしようとは思えないようなもの。ひより、俺はしばらく学校を休むよ、そっちにも帰らない、俺は、この住所の通りの場所にいる、できれば誰にも話さないで、久保や誰かが詮索してきても、内密に。ねぇ、俺が、こっちでなにを始めるんだと思う? そのうちまた手紙を送って伝えるよ、安心して、決して危ないことではないんだよ、ひよりはひよりで元気でね。またね。
*
僕は書く、ああ、僕は、散文日本語の爆弾を、あそこ、太陽の位置で爆発させてやりたい。僕はあいつらの金ぴかのナイフとフォークを前に裸体で銀のさらに寝転がり、誰にも無視できないやり方で内側からあいつらを食いちぎってやりたい、そしてまったく新しく始める。
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僕は書く、僕はこの速さを、やるべきことを、才能を、すべて使い尽くしたかった、僕はすっかり空っぽになり、口をぽかんと開けながらわあとすべての朝日や風にからかわれる幼児のようになってしまいたい。
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僕は書く、僕はいつまでも苦しめる、僕は満足などしないだろう、この生にはそのような意味で終わりがないだろう、果てがないだろう、死は僕の体の中を流れる血液の色違いというのではないだろう、ああ僕は死なないだろう、僕には終わりがないだろう、僕はいつまでも続けるだろう。
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僕は書く、言葉は電撃的に再起する、すべての瞬間が、まさしくすべての瞬間として立ち上がる、意識の光、思い出すこと、感覚すること、予感することにはすべての風景がある。そして風に耳を澄ませれば、それにも根が、あるとも言えない根があることに気がつくことができる。それは、あると感じられるだけだし、あると感じられることは、それがあることのすべてなのだから、しかし、自分の中にだけ? いいや、それがあると感じられるなら、それはある、それはそのようにある、その根っこのような魂、わあと驚いている赤子のような自分自身を見つけだすことだ。言葉をそこまで退化させることだ、そう退化だ、言葉をなくすことだ、僕の体を差し出すことで、僕はこの体でもう戻ってこれないところまで分け入る、踏み込む、視界は目まぐるしく回転し、僕は墓穴に寝転んでいながら塔のてっぺんを踏んづける、そこから太陽の口である至高性に手を伸ばして届き、僕は無限の重力の中を無限に引き伸ばされた沈黙として漂う、それから僕はすべてを見る。ここでは僕はもうどうなってもいいと思う、眠りの極限でもう帰ってはこれないと思う、僕は心の底からどうなってもいいと思う、僕はそれが掴めれば、赤子の魂と出会えれば、それは再会というのでもなく、それは、たんに、なんというか、わからないけど、これまで僕の出会ってきた中で最も出会いたかったものだ、それはゼロだ、言葉のむき出しの、死にかけの、なによりの生と立ち会うことができるなら、僕はそのために、いつでも電撃的に始める、神に撃たれたように気がつく、気がつくと、僕は走り出している、
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僕は書く、やがて、完璧に降り、僕は今、明白に神である、僕はごく個人的なものとして行為する、と同時に、世界にこの行為の可能の可能性のすべてを要求する、つまり、速やかに果たされるべき行為が果たされるように要求する、この場合には、僕が要求しているのか、僕の中の神が僕に要求しているのか、わからないくらいだが、少なくとも僕は全的に答える、そのために世界の方でもそうであることを要求する。
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僕は書く、僕はまた見舞われ、乗っ取られると、彼とこの速度を遊ぶ、死ぬほどの思いで、絶えず死と引き換えにして、圧倒的な生を、早く早く、完成させなければと焦ることになる、僕はわかっている、僕にはもう死ぬしかないのだということを、僕が再び気がつくとき、そのときが僕の死なときなのだということを、僕にはわかっている、この生は完成など望んでいないのだということを、太陽は僕らにあまりにも気を配らなさ過ぎるときうことを。
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僕は書く、僕はゼロになる、言葉はまるでゼロになる、そのときだ、いいや、そのときじゃない、そのとき、なんてものは僕のためには現れない、僕が僕じゃないとき、つまり僕のためのときではないとき、ああそれは現れる、僕はゼロになる、だからそのときは現れない、そのときが、そのときにやってくる、やってきはしない、僕は死ぬ、それと決定的に出会うためには、僕は無防備でないといけない、裸で、死んでしないといけない、だから気づかぬうちに初めて終わること、僕には始まりも終わりもない。
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僕は書く、やがて僕は至高の領域に辿り着き僕はもう夢の夢などは見ないだろう、僕は世界の果ての景色を見た、そこには、僕の姿などなかった、いいや、僕は挫折したのではなく、完成したのだ。ああ僕は確かにその塔を確かに建てたが、もう登り方など忘れてしまった、そして都市を振り返れば、塔の群れ、それに飽き飽きしたような、そんな風が吹き、僕はどこにもいなくなった。
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僕は書いた、指を動かすのが億劫なときは、伊吹の肩の上で、僕は話した、そして伊吹が清書するのを、止まり木の上の鳥のようにもじっと見つめていた。ああそれは、伊吹が書いたのは、僕にもわからないことだった、僕はどうして自分がそれを書けたのか、全然わからなかった。
*
ああ僕は書いた、書いた、信じられないことに、それにもやっぱり終わりがあった。僕はそれでその小説が完成したのだと、それでもうことがすんだのだと、ペンを置いた、ああ僕は小説を、完成させた。それは紛れもない完成であり、僕からはもうあまりに遠すぎる城だったのだ。
*
僕は放り出された、城は僕に知らん顔をした。それは余りに完璧に建てられた城だったので、入り口などどこにも見当たらなかった。ああ、僕はそいつにどうか雇ってくれと惨めにも希うべきだったか? それとも別の城を建てろとでも? もしもその仕事を完璧にやり終えたなら、そのときが自分自身の死のときだと知りながら?
*
ああ、僕にはわかった。僕はすべてわかった。僕はなにものでもないものだった。僕の城は確かに完璧だったけど、僕の書いた小説は、僕など遠く及ばないほど素晴らしいものだったけど、それでもそれは城だった、それはひとつの素晴らしい小説だった、そして素晴らしさとは素晴らしさのことなのだと、ああ、僕は理解した、すべての言葉が孤独に震えているのだということを、ああ、城は城だった、小説は小説だった、僕は僕だった、天才は宇宙ではなく、ペンは速さなどではなかった。
*
僕はこのときに初めて、ただ震えであるところの震えに震え、それから、ただ小説である小説に暖を求めることなど到底不可能なのだと気づいたので、ああ不安は百パーセントの不安だった、僕はもう逃れられない。
*
伊吹の肩の上に止まっていた、顎を置いて、生まれてくる文章の羅列を、ただぼーっと眺めていた。あの作家も今頃小説を書いてるのかなあ? こんな歳にもなってまだ小説を書くなんて、あいつはそうとうのろまな奴らしい。そう思うと、僕は小説の最後にこんな言葉を付け足さずにはいられなくなった。
ねぇあんた、完成することがどういうことなのか、あんたは本当にわかってる? どうやらこの歳になってまだ完成していないあんたは、それがいったいどういうわけあってのことなのか、また今度、俺に教えてくださいね、ねぇ、いったい、ただの小説、ではない小説がこの世にありますか? ああ、超越というのは頭の中だけの話なんですか? 僕らは一歩一歩、地の糧を稼ぐものなりや? 生きるということが誰にとってもそうなのだとすれば、ああ、俺は、そんな退屈には耐えられそうもないや……
*
そのあとは、もうどんな言葉も生まれてこなかった。すべては完全であり満ち足りていて、子供に見せる紙芝居のようにも世界は当たり前のものだった。僕は鼻をかみたいと思い、鼻をかみ、お腹が空いたので、冷蔵庫からソーセージを取り出して食べた。伊吹は追いかけてきて終わったよと言い、光をその顔の半分に受け笑った。僕は喉が枯れ、声も立てずに静かに笑みを浮かべると、伊吹を押しのけてベッドに倒れ込んで眠った。作家のところに原稿を持っていくと言う伊吹の声が聞こえた気がして、僕は夢の中でありがとうと言った。
*
僕は、お前になにを聞かせたいと思っていたんだっけ? ああそうだ、僕は、伊吹が作家に原稿を届けてくれたその次の日に、ひとり作家のところに出向いたのだった、伊吹は確か大学に行ってたんだっけ、僕はというと、はやくも少し亡霊じみていた、僕には何をすべきということもなかったのだし、ああどこが家ということもなかったのだ、それでふらりと散歩の途中に、先生はもう僕のを読んだかなあ? そんなことが思い浮かぶと、その足で家を訪ねたのだ、ドアは開いていたんだっけ? 僕は不思議な静かさにとりまかれながら、そのドアを開けた、自分の家に帰るように、ごく当たり前と言った感じに、僕は作家がどこにいるのかは、伊吹から聞いて知っていた、ああ作家は、彼の書斎で、じっと身動きもしないで、雨漏れの音に耳をすませるように、ソファの上で放心状態だった、いいやそれは放心状態なんてものではなくて、作家は、まさに集中力の極地だった、しかしそれは作家自身の集中力というか、作家の体の中にすくったある病の、死の肉食植物めいた集中力であり、それがいつ作家の心臓をパクリとしてしまうかと、伺いを立てているというようなものだったのだ。僕はテーブルの上から煙草を取ると、マッチを擦って火をつけた、煙を吹かしながら、ときおり煙が作家の顔にかかったりなんかすると、どうにも気まずい思いで、あははと笑ってみせた。作家はときおり僕を見つめるばかりで、なにも言わなかった。僕は、こんなこと聞かなくてもよかったのだけど、今日の天気を訊ねるような具合で、作家に、僕の手紙は読みましたか? と質問した。作家は目にある一色を落とすことでそれに返事をした。それじゃあ、僕の小説は読みましたか? 作家は今度は動きにくい首を回してまで僕から視線をそらせ、体をねじって背後の本棚を見やった。僕はいつ帰ってもよかったのだ、ただ少し話したい気分だった、どうせだから、と言うような気分で、僕としては、どうせならこんな人とでも、一人でいるよりはいい、と思っていたのだと思う、なんだか、一人でいると死んでしまうような気がしていたんだ、僕はもう死んでしまっているような感じだった。ねぇ、俺はあなたが佳作をひとつかふたつ出したあとで、大きな犬を一匹や二匹飼いだしたのが好きでしたよ、あの犬は今はもういないんですか? ああ、俺はあいつらに会いに来たっていうのに。ねぇ何か楽しいことを、俺は、ねにもあなたや僕が、死ぬべきだと、ああそんなことを四六時中思っているわけではないんだ、ただ、僕は、すっかり空っぽになった僕や、比喩でもなく老人のあんたなんかを見てると、一体なんのためにその死に怯えながらも死を死に切ることをしないんだ、と思うわけです、いったい、僕たちはこの死から逃れることができない、それは絶対なんだ、絶対の絶対なんだ、僕の傑作が僕の命を救ったと、頭のめでたい奴らは思うかもしれない、ああ、だけど僕の傑作は、完全に僕を殺してしまった、僕は空っぽになった、持てるだけの意味を奪われてしまった、僕が生きる意味なんて、もう何処にもない、こうなってようやく僕は気づいたのです、僕は弱かった、孤独には強いはずだったのに、僕は余りにも惨めに震えていた、僕は死ぬのが怖い、僕は死にたい、いいや僕は死にたいのではない、僕は絶対に死んでしまうんだと強く思わなければならないということが、たまらなく怖いんです、僕はもうじき自殺するでしょう、僕は、それが絶対にそうであると自分自身で確信しているのが怖い、ああ、どの一歩が自殺に繋がっているかもわからない、この家には紐がありますね? 包丁が? 睡眠薬が? 高さが? ああ角さえあれば、それと引き換えの命だ、惜しくはないよ、はん、俺にはもうするべきことなんてないんだからね、ああ俺はもう死んだっていいんだ、死んだっていい、本当に、多分ね、潔くこの生にありがとうと言うべきときが来る、もうすぐに、え? どうして死ななければならないのか? ああそれはだって、それは、ああ、確かにそうだ、俺は死ななくてもいい、ただね、僕はあまりにもあの速度に慣れてしまった、だからそれに見放された今ではもう、あまりにも退屈だから、僕は、天才という奴は、宇宙で一番孤独に弱いのかもしれないなあ、だから、僕にはもっと多くの空気が必要だった、それでも僕はもうもっと多く空気を吸うことの、吸うことの吸うことの吸うことがなんだったのか、まるで思い出せないんですよ、ああ、僕はそれだから死ぬ、僕には傑作のない生などは、退屈過ぎたのだ、ねぇ、あんたはどうしてたんですか? そんなになるまで、あんたはもしかしてまだ小説なんて書いてるんじゃないですかね? それならあんたの書斎のどこかで、確か先日、完成したはずですよ、ああ果実は腐れば地に落ちるのだ、どうでもいい、どうでもいい、いつまでこれを続ける気ですか、あんたらは、まったく、よくも飽きないものだ、何が楽しいのか、僕にちょっと教えてくださいよ、何がそんなに楽しいのですか? ああ、小説なんて、よくもまあ、あんたらは次に書くために書くんだ、いいや、ために、なんてなくても、あんたらは虫けらのようにも低能だから書くんだ、ああ、ねぇ、だけど、バカげたことだけど、ひとつだけお願いがあるんです、僕の小説、あれがもしもいいものだったなら、あなた、あなたはそれを雑誌に掲載してくれなきゃ、嘘だ、僕がこんな風に頼むからって、僕を醜い奴とは思わないでくださいね。ああ僕は、そうだ、今となってはなんの責任感からも解放された自由の身だけど、あれだけはどうにか世に出してやることで、最後の仕事ということにしたいと思うのです、そうなる前には、死ねない、と思う。ああ、それにそんなことにもしなれば、みんなのためにもいいことなんだと思う、こんなことにはこれまで興味がなかったけど、それが誰かの役に立つのなら、今ではすごく嬉しいと思う。うん、僕は、世界の時計を随分と前に進めることができたし、役に立つと思う、例え善でなくても、与えるべきものを与えられたと思う、それで奴らがそれほどバカじゃなければ、もう誰も小説なんて書かないだろうし、恥ずかしくて太陽の奴も二度と再び登っては来れないと思う。
*
ある日、作家のところから帰ってくると、伊吹は手紙を渡してくれた。そこにはこんなことが書かれてあった。
「あなたの小説を雑誌に掲載させます。それ以上のことを、私があなたにしてやれないことを残念に思いますが、どうか恨まないように。その代わりというわけではないが、私には恩に着せるつもりなど少しもないのだから、これからは、あなたと私と、お互いに好きなように振る舞うことにいたしましょう。私のしたことに、いちいち気を病まないようにしてください、これらはすべて私と、あなたがひとりでしたことです」
*
それからしばらくして、僕の小説は確かに雑誌に載った。それからすぐに、作家の死の知らせを、僕は街の野外掲示板で知った。今週のニュースという蘭に、〇〇大学の××が死んだと書いてあったのだ。僕は目を疑った。見ていても、自分が何を見ているのかわからなかった、現実は何重写しものようで、僕は何ひとつ選び取ることができなかった、どこにも参加できず、彷徨い歩いた。歩きながら、思い出すに、作家のは、事故だと、書かれてあったっけ? ああ、信じられない、信じられない。
*
僕は夜を彷徨い歩く。僕は理解した。ああ、死は生のどの瞬間とも隣り合わせているのだということを、この死からは絶対に逃れられないのだということを、この死がいつも僕を見張っているのだということを、この死が、常に大口を開けて、僕は生きているよりも死に踊らされているだけなのだということを、本当に肉の次元で理解してしまった、僕の体は震えることをやめることができない、僕は芯から怯え、吐き気を乗り越える吐き気を乗り越える吐き気を乗り越える吐き気が……ああ僕は気狂いにでもなりそうだ。
*
そうだ、ここには何もなかったのだ。僕の生には、見渡す限り、何もなかった。何も超越的なものなど。僕のこの生は、死そのものであったに違いない。僕を満足させる食べ物など何もない、僕を完全に停止させてしまう愛も、僕を完璧に死から救い出す超越的な神や傑作も、僕のこの人生には欠けていた。もう騒ぐ必要もないのだ。それはなかったのだから、これ以上僕には、どうする必要もない。ただおとなしく、毎晩帰宅する全ての子供たち同様に、僕のいるべきところへ、死の場所へ、僕は帰るだけなのだ。当たり前に、何でもないことのように、静かに、わめきたてず、誰を責めることもなく、潔く、一人で死んでしまうだけだ。僕はこの人生を救い出すことが出来なかった。死ぬことはただ僕の結果だった、だから僕はただ死ぬのだ。ああ、こんな風に考える必要さえない、僕は理性のために死ぬのではなく、ただ死のために死ぬのだし、脳みその方はアルコールで事前に眠らせておけば、結果の方もスムーズだったかもしれないなあ、ああ!……ワインを、ワインを!
*
ああ、夜風が心地よく、僕はどの一歩が生から死への横断線を越えてしまっていたとしても、気づくことができないのに違いない。僕は思い出すように死ぬだろう、僕は、思い出すようにそれと出会うだろう。
*
ああ、伊吹、伊吹、それからひより? ああ僕のどの愛も、僕を生かすのには十分なのに違いない、それでも僕は死ぬ、僕は結局、この僕意外には何も愛しきることなどできなかったのだ、その僕が死んだ、僕には生きることの全てがこの僕を肥え太らせるための餌にすぎなかった、その僕が死んだ、ああつまらない、ここはなんて見晴らしのいい、何もないところなんだろう、こんなところまで上って来ても、ああ結局、なにも見つかりはしなかった。何が? さあね。ああ超越的な質よ、永遠よ。僕の夢が僕を殺すのだ。僕の眼が口があんたを殺した。僕、ああこの鼻水のように垂れ下がった言葉、俺? ああこの変質者の吐息のようにも臭いもの、それが僕には邪魔だった、ああ生はついに僕のすべてではありえなかった。僕は、あるということのすべてなどではなかった、ああ僕も、草木もあんたも、変わりはしない、今ならはっきりとわかる、だから僕はやっぱり死ぬべきなのだ、僕は死ぬからこそ、あんたのことを愛せるわけだ。ああ、死が、死は僕を殺すのではなかった、死は僕を完全に満たした、ああ、時が来る、ああ、完璧な水平線が僕を迎えに来る、もう苦しくない、もう満たされた、ああ僕は、静かに、死の肉の中に、ドール………………のように満ちた。
*
僕を、助け起こしたのは誰だった? ああそれは、そのときは、伊吹、伊吹だった、それは伊吹であり、僕らは二人で帰路についた。僕はてっきり、伊吹が、胃の中のものはすべて吐き出し、部屋は燃やしてしまい、二人でどこか旅に出よう、と誘うのだと思っていた。そうではなく、伊吹は僕に、大丈夫? とただ問うのだ、まるで大丈夫でない理由など、どこにもないではないかと言うように、ああ、それでも僕には、伊吹が先に眠ったあとも、僕ら二人分の命を死から遠ざけておくことは、もう泣きそうになるほど大変で、何度も何度も、僕は伊吹がまだ死んでいないかと、その頬の温もりを確かめる……
*
俺の作品は、死ぬことを考えながらでは到底書けないような、ずいぶんと気の抜けたもの、だった、死ぬことを前提としていなかったあのときの言葉など、もう俺のものでないし、今俺は、死ぬことについてだけ考えている、俺が死ぬことについて? それとも、あの作家の死でも、もっとありふれたものでも、とにかく死ぬことを、時間を、そういうことを、ああ、それがとても、ありふれた、なんでもないことだと思えるときもあれば、どうしようもなく苦しいときもある、僕としては、このまま死をどうにか手懐けられればと思ってる、僕はとても一人では生きていけないし、あのときのようにペンを持とうという気にも、とてもじゃないけどなれない。語れるような内容はないのだ、僕が例えば今どんな風にこれを書いていようが、僕は書かないということをだけ、書いている、つまり書いてなどいないつもりなのだ。ああだから、しいて言えば、それは語れないということだけを、俺は今でも語れる、でもこんなことは、あまりにもくだらなすぎて、語るまでもないよ。ああそうだなあ、思い返せば、あの大袈裟さは、俺が飾り立てた文章の、生の大袈裟さが、今ではひどく、俺の中で腐っているような気がする、死が竜巻のように、まあなんて言うか、俺という麦を、荒らし尽くしてしまった、残っているのは、この荒野のような果てしなさと、ぽつねんとした気分くらいのもの、多分、どんな一語の中にでも、どんな傑作も及びもしない豊かさがある、耳を澄ませることだ、黙ることだ……
*
僕は作家の死の床に投げ入れる花束として、そして自分の小説を飾り立ててやる王冠として、そんな文章を書いた。記者にせがまれたのだ。それが僕の最後の文章だった。そういやこれを読んではるばる僕に会いに来た作家がひとりいたっけな。名前は忘れちゃったけど、背の低い男で、無造作で短い髪と退屈な眼鏡とぼんやりした顔、中学生みたいに堅く正座していたっけ。そいつは記者の隣にじっと座ってさ、僕の一挙手一投足にうんうんとうなずいていたんだよ、ファンだったのかな? 不快な奴……ああそいつが僕のある言葉をメモし出したとき、とうとう僕は、おい、とそいつに語りかけてしまった。今なにを書いたの? そしたらそいつは一瞬肩を震わせたかと思うと、記者に耳打ちし、それから僕に頭を下げて、部屋を出て行った。僕は笑いながらあいつはなんだったんだと記者に問いかけた。彼は、次回作のための、取材です、とね、ああ、なんて無礼な奴だろう、彼にこそ、祈りを! ここは人間の土地なんだ! ああ、あんなのは多分、死んでしまった方が、あいつにとっても幸せなはずなんだろうけど、ああ記者は、そいつが今度でっかい賞を取ったのだと言ってたっけな、僕が冗談をといつまでも笑っていても、その夢はやたらしつこく覚めはしなかったっけ? ああばかばかしいや。勝手にしてろよ、だ。
*
僕がお前に言いたかったのは、これだった。僕はあれを完成させると同時にこれまで僕があんなにも望んでいた僕自身となった。つまり僕は天に到達したのだ。神と同化し、僕はその僕自身に失望した、天から墜落し、神を殺してしまった。僕はそれ以来、もうどんな小説も書かなかった。死はそれほど重いもので、生には決して傑作などはない。人生は天ではなく地の領域なのだ。そして地はそれ自体、無限に広がる荒野である。
*
隣では伊吹が眠っていた。僕は、伊吹が布団の中で僕の手を探すのに気づいた。しかし僕はまだ眠っていた。伊吹は僕の手を取ると再び眠りにつき、次に僕が目覚めると、身体をゆすろうとも伊吹はうーんと深い眠りのこだまを響かせるだけだった。仕方なく僕は伊吹の汗ばんだ背中を背中で押しやり、作ったスペースに自分の身を横たえ、自らの墓に死体を置くように、眠る、伊吹は少しうるさいいびきを中断して起き、また眠り、寝返りが僕の領土を侵すと、僕は寝ながら起き、眠り、やがて、犬が鳴き、僕たちは同時に目覚める。幾度この覚醒がすれ違っていたのかはわからない。伊吹がおはようと言い僕はおはようと言う。伊吹はベッドを出て、カーテンを開ける。窓の外に、鳴き声の主を探そうとして、毎日のように断念している、多分あそこの家なんだけどなあ、あの、あれでしょ、ちっちゃくて、貴族っぽい、茶色のトイプー、そうそう、あの賢そうな子。まだベッドの上で微睡んでいる僕をおいて、伊吹は洗面所へ。そこで蛇口をひねり、顔を洗う、長々と化粧水を塗り込む。歯を磨き、口をゆすぐ。僕は伸びをする。折れ曲がったワンピースの裾を直す。ベッドの上に座り、ワンピースの裾をお尻から避難させる。そして太ももに生えた毛を一本引き抜く。痛くて、あくびをし、涙をにじませる。植物のように朝日の方に目をやり、眩しい、と目を細くする。あくびをし、伸びをする。伊吹はキッチンに立ち、フライパンを温める。卵とソーセージをその上に落とす。あくびをし、伸びを、俺は、いらないよ、朝ごはん。全然いらない? うん。でももう一袋開けちゃったよ? じゃあ食べるよ。何本。三本。そんなに? だって半分でしょ。なんで食い意地張ってるの。伊吹は笑う。僕は、何がおかしいのかわからずに笑い、止まっているような時間の中で、犬の鳴き声がする。別の犬なのだ。伊吹、知ってる?あのでかい犬、白と、黒の、二匹、いつもこの時間なんだよ、俺煙草吸うときに見るんだよ。僕は机の上から煙草を拾い、部屋を出てく。再びドアを開け、顔だけを部屋に入れて伊吹に言う。あ、もういないや。伊吹は言う。煙草はどうしたの? 僕は、小雨降って来た。散歩も大変だねぇ。そうだね、でも俺犬、飼いたいよ、でっかいの、でっかいプードルをさ、着ぐるみみたいな奴。かわいいねぇ。うんかわいいんだよ、賢そうだしさ、でも金掛かるらしいよ、カット代が、専門の店もあるくらいだって。プードルの? 犬の、でも最近はプードルばっかって。そんなの聞いたことないよ、流行ってるの? プードル。さあね、なんたら効果かもなあ、ほらあのさあ、ジャストの時間ばっかに出くわす、とかの一種の。それ、私だ。あれ、錯覚だってさ。ふーん、葉子ご飯解凍して。うん、と言いながら僕は伊吹の後ろを通る。電子レンジを回してご飯の解凍を待つ。つま先立ちをして、直る、髪に手櫛を入れ、後ろから伊吹の髪を撫でる。伊吹は振りかえって、電子レンジの中を覗き込む。ねぇ、こんなに食べられる? そんな多い? こんなにあったけど。嘘だ、と伊吹は光に似て簡単に笑う。そのご飯が解凍し終わり、伊吹はフライパンからお皿へ卵とソーセージを移動させる。僕たちはソファに移動し、二人で一つの皿を突っつく。それ今日洗濯するからあとで脱いでね。ほんとに?まだ俺二、三日しか着てないよ。だってどうせ土日にしか洗濯できないし。うーん、じゃあそうしてね、俺の服なかったっけ。あるでしょ、その山に。着る気しねぇ。いい加減買いなよ、他に服。あのさあ、無人古着屋できてたよ、あっこに、大学のとこ、カレー屋の隣らへん。行ったの?どうだった? ん、まあ、びみょ~。まあ、学生相手だろうしねぇ。そうなんだよ、つまんないのばっかり。でも安いんじゃないの、安い服、好きじゃん。安いことが好きなんだよ、安い服じゃなくて、いいもんが安いことが、生れが貧乏なんでね。ふーん。でもあそこ、高いのは五千円とかしてた。え、無人でしょ?大丈夫なの、それ。さあねぇ、大丈夫じゃないんじゃない? 実際に、これを、あんたはなんだと思ってるのさ。これ? これ、このワンピースちゃん。盗ってきたの? 返せなんて言わないでよ? 高いところから低いところに、だよ、気流、水、銭、どれもね、すべて流れる者は流れよ。はいはい、私し~らない、捕まれ、葉子。でもいいでしょ、これ、ほんとに気づかなかったの? 気づかないよ、葉子、そう言うの好きじゃん、そういう、変なの、あは、思い出した、あのね、最初さ、葉子、ポンチョとマフラー、あははは! なにさそんなに笑って、あれはその場でこしらえたものなんだよ、カエル男の隣に座るげきがおれが云々、だってさ、実際に濡れた制服着てたんじゃ伊吹も誘わなかったでしょ? はいはい、あーお腹いた。ん、ごちそうさま。ごちそうさま~。伊吹はぴょんとベッドの上に飛び乗り、寝転がってスマホを弄り始める。僕はベッドの縁に腰かけ、あくびして、伸びをして、伊吹と交差するように寝転がる。伊吹は寝返りをうって、僕を強引に寝ころばせる、僕は寝転がり、脚だけで布団を整える。そのときインターフォンが鳴り、それは宅配便だとわかっていたけれど、二人とも動きはしなくて、ひそひそと言い交わす。葉子が行ってきてよ、嫌だよ、伊吹が、眠いよ、無理、寝る。ふーん。それで、僕らは二人とも眠ってしまう。伊吹は眠っている僕の手を取る。それを胸に抱く。それから僕たちは話し合い、愛し合い、眠り、また眠り……
*
これでようやくだ、ようやく僕はまたお前と出会えるし、ようやく僕はこれを始めることができる。まったく、僕たちの出会いはそれと似ていた、街頭での風の風との、一瞬にしてすべてである、あああのすべてを変えてしまえる、あの出会いの本来的な素晴らしさと! それはたった一度だけ交わるのだ、それはたった一度だけ真に交わることで、もう僕も、お前も、ないものとなる、いいや、僕などいなかった、お前などいなかった、僕たちである風と、お前たちである風とが、出会い、それは次の僕たち、という意味ではすでに僕たちと呼ぶことさえできない、超越的な僕たちとして生まれ変わる、のでさえなく編み直される、そして忘れられる、まるで平気な顔をして吹き過ぎていく……
*
それは埃を含む、空き家を通り過ぎる、山肌を撫でる、流星のように夜空をかける、本のページをからかう、カーテンを揺らせる、髪を落ち着かなくさせる、大切なものを盗んで行ってしまう、そして道端に置き捨てる、臭いを運ぶ、音を揺らし変容させる、鳥の進路を妨げる、衣服を乾かす、足を運ばせる、砂を転がす、時計を傾ける、風車を回す、空に駆け上る、子供と遊ぶ、老爺を揶揄う、バースデーケーキの灯を消す、音楽のように踊る、それがすべてでない、などとは言わせない、それがすべてだ、よし僕たちはこれから風のように出会おう、名前も持たず、どれがどれ? という区別など持たず、どこからどこへ? 誰から誰へ? ああ、誰が持ち寄ったのでもない場所で、想起し、その日のうちに別れよう、そうであればこそ……ついに風は、僕のこのドアを叩いた、僕はいくら待ちわびた? 何本の煙草の先で、火がそれを繋いでいたか? もう、何日が落ちた? 何度眠りが僕を準備したことだっただろう……
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