第3話 このように僕は作家になる
タクシーを捕まえると、僕は紙を読み、住所を伝えた。運転手は僕が制服を着て、さらに雨に完璧に濡れているのにもかかわらず、こんな遠くまで行こうとするのを不思議がるように、こちらを振り返ったのだけど、僕が運転手にこれまた手渡されたタオルを頭の上に置いてぼんやりと睨みつけながら、出せ! と大声で言うと、驚いた様子もなく渋々車を走らせることにしたようだった。金は? とぶっきらぼうに訊かれた際に、僕の方でも適当な口調で、あちらが出してくれますよ、と言ったのがまずかった。運転手は道の向こうに傘を分け合った若い男女の姿を見つけると、金はいいから降りてくれ、と言った。僕は風景を一瞥した。ここは、もう全然知らないところだった。
「降りたって、俺はどうすればいいんですか?」
運転手は平然と、
「別のタクシーを捕まえるか、電車に乗って帰れ。ほら、駅はすぐそこだから」
「ああ、そう、言い争うのはいいや、俺がたんまり金を持っていたとしても? ああ、まあいいや、俺が学生らしい身なりをしているからですか?」
「どうせ、盗んだ金だろう、受け取れるか、そんなの」
「ああ、当たりですよ、すると俺の態度だ、ここまで乗せてくれてありがとう」
僕はタクシーを降りた、車は、前を詰めるようにちょこっと前進して、二人の客を乗せた。困ったことに、僕は田舎育ちすぎて電車の乗り方を全然知らなかった。
*
ああ、僕は住所の書かれた紙を大事に握りしめながら、歩いた。僕は歩き、線路沿いの草むらの中に、ある自転車を見つけた、それは僕同様に捨てられ、惨めに雨に光り輝いた自転車だった。ああ、体は光を反射させる鏡だった、僕はそいつを助け起こすと、ゆっくり走り出した。どちらに走ればいいかわかっていなかったけど、さっきタクシーが走っていた道に戻ると、とにかく自転車を漕いだ。僕は道の真ん中に、交通量の少ない道だったのだ、躍り出ると、ふらふらと漕ぎ、まるでいい気分だった、僕はんふふふふふ、と、腹の中の風船に空気を送るように笑った、多分、ようやく一人になれたのが大きかったのだろう。そのとき後ろから短いクラクションが聞こえ、なんだと思って振り返ると、その拍子に僕とぼろの自転車は転倒しかけ、僕は靴の裏で道を引っ掻きながら、どうにか体勢を立て直そうとする、が、それを虚しく最後には転倒してしまった。大型車のすごいライトに照らされ、目を閉じると、降る雨に瞼を押しつぶされるように感じ、僕はもっと強く目を閉じて、ああ、そういえばこの前眠りたいときには眠れなかった、そんなことを思いながら、しばらくこのまま、ゆっくりと、唇の端に、伺いを立てる雨粒を招いて、静かにこのパーティーを楽しんでいたい……
*
僕の身を起こし、乗せてくれたのは、黒のハイエースだった。運転していたのは四十くらいの男。僕の運転の危ういのを見かねてついクラクションを鳴らしたのだと言った、それから弁解するように、と言ってもお前を注意するつもりなんかじゃなくて、初めから俺はお前を乗せてやろうと思ってたんだよ、俺はいつも、お前のような、若くて危なっかしい奴を見ると、相当の不都合があるわけでもないなら、助けてやることにしてるの。僕はじっと車のシートに身体をこすりつけながら、男の言うのに耳を傾けていた。そのころ雨が少しずつあがり、雲間から日の光が差しこみ始めた。ツーっと降りて来て窓まで届くと拡散してぼやけるそんな光を目の前にすると、僕はむずむずする瞼をとても開けていられないと言ったような、うっとりした気分になってしまった。そのとき男の腕がこちらへ伸びてくるのがわかり、つい反射的にびくっと体を起こして男の方を見ると、男も驚いたように目を見開いて、
「なんだよ、だったら煙草とってくれよ、その、前の開くとこ」
僕は男の砕けた感じが妙に気に入り、フーンと言うと、そこを開け、煙草とライターを取り出すと、男のために一本引き抜いて、それを指の間でくるくると回してみてから、口に加えて火をつけ、それから男にあげようと思っていたのだけど、急に自分で吸いたいような気分になり、それは自分でふかしたままにして、ほらよと煙草とライターを男に渡してやった。男は運転の隙間に、慣れた仕草で煙草の火をつけ、それから両側の窓を降ろした。
「お前、高校生?」
「そう見える?」
「見えるって、制服着てるだろ?」
「ああ、濡れた制服を」
「濡れた、よりも制服が先に来るね、特にお前が煙草を吸ってるときなんかは、組み合わせが悪いんだな、良いのかもしれないけど」
「はん。上手に言うねぇ。でもこれ、慣れたもんでしょ? 兄貴に吸わせてもらったんだよ、始めはね」
「みんなそうだよ、誰かの見様見真似だよ」
「一般論だねぇ」
「バカにしてんのか?」
「あはは、それにしてもあんた、それにしても、濡れた、の部分を忘れすぎなんじゃないの? この格好でタオルより先に煙草を貰ったのは、初めてだ」
「そんなの、後ろに積んである荷物から、自由にあされよ」
「何があるの?」
「あされよ」
僕は、言われた通り後部座席に身を乗り出した、そこには大きな紙袋がたくさん積んであって、そのどれの中にも服がぎっしりと入っていた。
「どれ使ってもいいの? いらない服?」
「ああ、また使うかもしれないけど、今はな、使い終えたやつらだよ」
「服屋?」
「劇団やってるんだよ、俺は、衣装担当だけど、芝居もするよ、お面がない? 蛍光グリーンの、カエルの」
「カエル? ああもしかして、これのこと?」
「ちょっと貸せよ」
渡すと、男は慣れた手つきで紐を耳にかけて、カエルのお面をかぶった。そして僕に向かって、面をかぶっているから表情は見えないのだけど、なんとなく脅かすような、カエルが跳び出るような、ぎょっとした動きを見せた。
「あはは! それを劇で使ったの?」
「そうだよ、俺はカエル男なんだぜ」
「悲劇の主人公という奴だ!」
「バカ、脇役だよ、悲劇の」
「半分当たってるじゃん!」
「うるさいよ、お前、そんなに気に入ったのか?」
それは蛍光色のカエルのお面で、目だけがやたらにリアルに作られていた、おでこからカタツムリみたいな角が生えていて、その周りに赤い絵の具の塊があった。舌は飛び出ていて二股で、なんとなく怪物っぽいデザインなのだ。
「気に入った? ふ~ふふふん、それよりも、俺は聞いておきたいんだけどさ、この車はどちらに向かっているのですか? ゲコ」
「知らねぇよ、ナビ見ろよ、ケロ」
「んふふふふ、ねぇ、前見えるの? そのお面」
「少しはな」
「俺の行きたいところと近いといいんだけど」
「どこ行きたいの?」
僕は男に、作家の住所を読んで聞かせた。
「そこだったら、多分近いぜ。乗ってろよ、後ろで、着替えて来いよ」
僕は言われた通りに、後ろに行き、服を脱いでしまってから、紙袋をあさった。バックミラー越しに男が僕を見ているような気がして、なんだよと言うと、男は、
「お前髪伸ばしてるんだな」
とそんなことを言うので、
「そんなのどうでもいいよ、恥ずかしい、言わすなよ、いちいち」
「そうだけどよ」
「女かと思った?」
「一瞬な、顔見たら、違った」
「あはは」
僕は後部座席にいっぱいの荷物を引っ掻き回して、センタープレスのしっかり入ったベージュのスラックスと、ボロキレ同然のTシャツと、インド風のマフラーと、なんだかよくわからない薄手の羽織とを身につけた。あはは、バカバカしい衣装だけど、そういう気分だったのだ。なんせ同席の相手がカエルだった。着ていた制服は、代わりに紙袋の中に突っ込んでおいた。助手席に戻っても、男はまだカエルの面を着けたままだった。顎のところが少し浮いていて、そこから髭が見える以外は、男は完全にカエル男だった。僕がじろじろ見ていると、
「あげようか? これ、もう使わないからよ」
僕は座席の中で転げまわるくらいに笑った。
「あはははは! そりゃあとってもほしいけど、でも、いらないですよ、物を取っとくタイプじゃないんです、俺、欲しいけど、なくしちゃうよりは、あんたがもっておいた方がさ、俺も思い出として持ってられるし、それにほら、旅の何だかはかき捨て、と言いませんでした? あはは、ああ、ほしい、本当に欲しいけど、ああ、貰っておこうかなあ、ほしいや、それ」
僕が断わると、男は寂しそうに、
「あげるのになあ」
と言うので、その度に僕は笑いながら繰り返すのだ。
「ごめんなさい、ああ、ほんとに欲しんだけど、でも持ってるわけにいかない、せっかく制服を脱いだ先が、カエルじゃ、ほしいんだけどなあ」
「あげるよ、欲しいんなら俺はあげるって言ってるのになあ」
「あははははは!」
笑いながらふと、一瞬、だけど、本当に、もらおうか? そんな考えがよぎり、じっとカエル男の顔を見つめると、その時ばかりは男もその面を僕にあげたがっていたことなど忘れたように、ぽかんと、どうした? と言うように見つめ返してくるので、僕はまた笑いの発作に飲まれて、あはははは、いらないよ、いらない、それはあんたが持っとくべきものだ! だって、似合い過ぎてるんだもん、俺のものにはならないよ! 男はまた、あげるよ、あげるのになあ、と繰り返し、そうしているうちに目的地はすぐそこだった。僕は男に別れを告げると、すっかり変わってしまった姿で作家の家の前に立った。
*
それから僕は、あの日のお前と同じように作家のドアを叩くのだ、ああ、いいや、しかし僕は、照れ隠しでこれを言うんじゃないけど、本当にそんなときの気分なんてものは少しも覚えていないくらいなんだよ。俺に思い出し安いのは、そうだよ、むしろ、お前のそれなんだ。僕に自身の記憶なんてものは、冬には思い出しにくい、僕を過ぎ去った一季節であるその夏の熱さそのものであり、どうにも時間の灰の降り積もった幽霊たちの街を歩くような気分なんだ、酔わせるなあ、これは、記憶は、僕は今自分がどこに立っているのかも、ふとした瞬間に忘れてしまうくらいなんだ。だから、僕は、あんたのことを忘れないようにしないとな。僕のしっかりと立つ足場であるあんた、僕に、季節の記憶を取り戻させる、その季節の代表者であるひとつのイメージの中心。無意識の装置であるあんたに僕が触れるなら、あの頃も僕の中で弾性を取り戻し、色付き、春の芽吹きとでもいった風に、どんな何に対してさえ何も感じられないというこの不感症の記憶の中でも、僕には無数に生い茂るまさしく死体然とした樹木のどの一本の表面を撫でようとも、そのざらつきがなにも香らないなどということはありえない。
*
家の中から出てきたのは、作家ではなく大学生くらいの女だった。女は表情に厚い肉のカーテンを下ろしたように、ぼんやりと、無表情で、ドアを片手で押さえながら少し屈んでスニーカーに踵を突っ込むと、僕をさらりと見下ろすようにして、平然とその脇を通り去っていこうとするから、僕は待ってよと咄嗟にその肩を掴んだ。それでも女は驚かずただ目を少し見開くばかりであり、僕がそうするのをじっと見つめながら、まるで目の力がそれをそうさせるというようにゆっくりと腕を外させたのだ。
「ここは、作家の家じゃないんですか?」
僕が訊くと、女はようやく地に足をつけたように、すとんと離脱していたのが戻って来たというように、そこに現れて、キョトンとした一瞬の時間を置いてから、すぐに彼女のものであるその表情を鬱陶しげに歪めた。
「そうですけど」
「そう? それじゃあ、うちの先生から話が行ってないですか? 僕はその先生、僕の極
内密な先生なわけだけど、その人から紹介されて、ここに来たんだけど。それにしてもあ
なたは? まさかあなたがその先生なんてことが? ないか、その様子じゃ、俺はあなた
よりもっと憂鬱そうな人だと聞かされてたんだから」
そのとき女がくすりと笑い、僕の方でも喋るのにいい気になって来た。
「遠くから来たんですよ、ほら、服も、こんなになっちゃうほど」
僕それにしても僕の格好は、どんな役を演じるにしても、ひどいもので、思わず諦めてしまうように僕がはははと脱力して笑うと、女も笑う、しかしその笑い方が、なんだよと気安く肩を叩くようなやり方だったので、僕はそのうちに手早く言いたいことをまとめてしまう。
「ねぇ、あんたが何を怪しんでいようが、俺がどこぞやの先生に言われてあんたのとこの作家に会いにきたってのはどうしようもない事実ですよ、例え僕がそれを認めたくないにせよ、どうしようもなくね。ふん、そんなに見え透いたような態度を取っていたって、今度、久保って奴もやってくるだろうから、それで確認がとれるさ。だけどね、本当の本当は、俺が来たのは久保とはちょっと理由が違っててね、あいつは講義がなんだと言ってるらしいのだけど、俺としてはただ作家に一目会いたかったというだけのこと。いいや、これよりももっと、なんでもないことだ、どうして俺はこんなところまで来たんだろう、多分言われたから、来たんですよ、来たいような気がしたから、来たんです。ねぇ、だからと言って、俺もあんたのとこの作家のことは、好きでよく読んでいたし、それに、あははは、遠くから来たと言っても、俺はあそこの大学の学生だからね、いつものことだ、あんたもそうなの?」
僕が学生と言った途端に、女の中で何が許されたのかはわからないけど、彼女は僕の手を取って一段ずつ階段を上るような調子で訊ねていく。
「文学部なの?」
「うん」
「専攻は?」
「あなたと同じ」
「どうして、私のを知ってるの?」
「さあ、なんでだろう、でもわかったんです、あなたはそんななりだけど、案外心の中にはナイーブな自分を飼っていて、ね、あんたの喉の中の小人は、時々それはそれは疲れたようなしわがれた老婆のような声で嘆くのだろうということが。ああ、あんたの肉体のその溌溂としたところには読書なんてまるで入り込む隙間もないほどだけど、それだからこそ一人の部屋の陰ったところでは、あんたが全身をことりとそこに預けてしまう、あんたなりの真剣さで、ね、その姿がよく目に浮かぶ、きっとお風呂が長い質だ!」
「あは。バカみたい」
「あは。その笑い方ひとつでも、込み上げてくるどこかの国の幼いお姫様の、退屈しいなゲップというようでね、あんたの飽き性と、なんとなくのその忍耐強さや、ものの奥深くまでじっと見通せる宇宙的にゆっくりとした瞳の土星模様のことまでも、僕に十分に知らせてくれるんだ、ああ俺はこんなにも占い師なんだよ、すべて言い当てられているとあんたの真剣さに答えさせてよ、ねぇ、バカらしそうに笑っているあなたでも、本当はは俺の言うことがなんのことだかわかってるんじゃないの? あんたにバカと思い浮かばせるのが、あんたの中のほんの遊び心あるいは慣習なんだということに、あんたのお見通しのお姫様にはお見通しなんじゃないかなあ?」
「なんの用事があってきたの?」
「あんたが作家のなになのかは知らないけど、俺を作家に合わせられない?」
「私、今日はもう帰るとこ。話なら、近くのカフェでしようよ」
*
ああ彼女の、名前は伊吹といった。伊吹は、美しい臍のようにそっぽを向いたような子だった。その、自分自身に対してさえ抱く無関心というか、どこか投げやりな調子、芸術的なつれなさは、つれたとて、なんと言うか、それを、最後の最後にはこちらの一人遊びにしてしまうというようなそれであり、だから、ああ、伊吹には、意志なんてものが本当はまるでなかったのではないか? なんてことを思い始めると、それが大げさすぎることはわかっているけど、それでも僕は、伊吹はその体の中に何匹もネズミを飼っているのではないか? と、そう思わずにはいられない。伊吹は人でなく牛に育て上げられたのではないか? 少なくとも幼少期の彼女の飲んだ牛乳には、特別の悪意が善意が込められていて、伊吹はそれで育ったのではないか? もしかして、作家は毎晩刷毛やなんやで伊吹の体をくすぐり、そしてその肌を敏感にする一方で、その体の奥をどんどんどんどん鈍感に眠らせていったのではないか? 伊吹の意識はますます無意識に沈み、その体は、瞳の色は、ますますあらゆるものを映し出す鏡に代わってく、だって、伊吹がぼんやりとしているのは、まるで機械の放電状態というようで手がつけられないし、伊吹が笑うのは、梅の蕾がはらりとはだけて咲くようにどうしようもなく僕をくすぐる……
*
僕は伊吹に連れられてカフェに入った。商店街にあるカフェで、古いもう動いていない信号機を側の階段を上がると、店がある。入口は二手に分かれていて、片方が喫煙可能のカウンターだけの席に、もう片方がホールとカウンターの、広い店内になっている。僕らは、今日は、禁煙の方へ。時間は夜だった、夜には、店はバーに様変わりする。席に着くなり伊吹は時が目覚めたように急に元気になり、その表情は海ほどにも増えもせず、減りもしないで、延々の差異を刻み続ける機械だ。伊吹は大変な夢から目覚めたばかりの少女というように、波が溢れ出るように話し出す。
「ねぇ葉子はどうしてそんな服を着てるの? それって古着? でもまあ似合ってる、かなあ? 個性的って言ったら傷つくの? でも似合ってる、あれみたい、えっと誰だったかなあ、前に本で読んだことがあるんだけど、昔の哲学者なんだよ、顔が少しだけ似てるんだよ、横を向いたときとかにさ、ちょっと俯きがちになったりすると、一枚写真を見ただけなんだけどね、本の開けたところで、なんだか、そう、だからその写真に似てるんだよ、いい顔だよ、あはは、冗談じゃなくて、でもほんとに大学生? 学部一緒なら何度かすれ違ってると思うんだけど、葉子みたいな人ならちょっとは有名人だろうしね、悪名だろうがなんだろうが、ふふふ、それに、あの人の講義を受けてたんでしょ? あれ? はるばるやってきたってのはなんだっけ? 葉子って、本当に大学生なの? 私にはもっと幼くも見えるんだけどなあ、孤児みたいな目をしてる、髪が長いからかなあ、長くて少し癖があるから、森からこっちをじっと見つめてる犬のような目、綺麗、かも、ほんとに大学生なの? 葉子みたいな人は大学で見たことないよ、服や、髪型の話をしてるんじゃなくてさ、葉子みたいな、なんというかさ、ころころと色が変わる人はさ、傾けたらその方に色も染まり直すんだけど、どうしようもないその気分の浮気っぽさも、結局は彼の感じ方の問題、と思わせてしまうような人」
伊吹の舌は、パラソルのように、カラフルに目まぐるしく、スムーズに途切れることもなく、言葉から次の言葉へと繋がっていく、そのお喋りは感心してしまうほどで、僕はいくら聞いていたって飽きることがない。
伊吹は勢いよく杯を傾けて、一杯目を飲み干すと次のを注文した。酒のことはよくわからないので、僕が投げやりに、同じのを、と言うたびに、伊吹はほんとに大学生? と僕の目の色をじっと見つめてくる。
「ところで、そんなことよりも、俺にはすっかり金がないんだよ、と言ったら、あんたはどうなるの?」
「素直に言えば、出してあげる、はるばるってどこから来たんだよ」
「え? あ〜、実家に帰ってたの、夏季休暇で、電車で二時間くらい」
「へ〜」
酒に酔うと伊吹は僕の服に触れ、指に触れ、それから僕の手を持って、自分の服や肩や手に触れさせたがる。最後にはその手で僕の手を掴んで離さなくなった。話し方も随分と変わり、見事な歯車だったのが今では泥んこのような足取りの酔っ払いなのだ。
伊吹は蛇のように僕の腕を駆けあがる。
「細い腕、細い腕」
それからモグラみたいに服に鼻を埋める。
「匂うよ、この服、ど〜してこんなの着てきたんだよ、私と会うのに」
伊吹は鼻で話すように、ほんのりと赤くしたその鼻を僕に突き付ける。僕はくすぐったくて身を少し引きながら、
「はん、それを話してあげてもいいけど、今のあなたはなんでも面白く聞けてしまいそうだし、俺も話すのが億劫だよ。あのね、これは、ある道の途中で劇団の友人から譲り受けたものなんだけど、バカバカしい、もういいや」
伊吹はふーんと言って僕の服を摘まみ上げ、レースの具合を確かめる、それから僕の目の中に面白そうに入ってくる。すると僕の目の前に残ったのは完全にお留守となった伊吹の抜け殻なのだ。僕がいくら見返しても気にもとめない。それだから僕らはお互いがお互いを食い合うように、息を止め潜るように探り合う。
*
ああ、だいたい伊吹は風呂上りにすぐに服を身に着けたがるような性格ではないし、隠し事なんてまるで似合わないというか、プレゼントをクリスマス当日まではとても待てない、それも貰う方ではなく上げる方として、というようにも楽しい性格をしていたのだから、人に裸を知られることに躊躇いを持つ方じゃなかった。だけどそれとはまた別の問題として、伊吹は自分の体のことが、大嫌いだった。その顔は、卵のようにつるんとしていて、質といい、形といい、すごく可愛らしかったのに、伊吹はそれが子供っぽく見えることを嫌がってボブカットで執拗に隠していたし、綺麗な二重瞼も、それがたまぁに瞼同士が引っかかってつり上げられた魚のように痙攣しているのを、伊吹はすごいおぞましさのため息と一緒に助け出した、母が娘の手を叩いてから引っ張るような調子で。伊吹はその骨格のがっしりしていることろさえも嫌い、ワイドな、ハイウェストの、フレアなデニムを楽だと言って履いていたし、脚の指先がババアのようだと評して決して素足で出歩きはしなかった。そのくせ足の指には楽しそうに色を塗る。ああ伊吹の口元と、鼻とは普段どれほど委縮していたことだろう。写真を撮れば伊吹はいつもギョロっと目を引ん剝く、僕がふいにシャッターに収めれば、決して一枚ずつその指でそれを削除しない、なんてことはありえない。
*
ああだけど、僕には、伊吹はまるで夢の中では再開できる恋人のようにも、熱く肉感的だったのだ、伊吹のその、快活でありながらも死体のような様子、どれほどはきはきと話していようと、どこかくたびれた口元や、笑っていても、ひくひくと釣り上がる眉毛なんかが、僕には愛おしくてたまらなかった。ああその白い肌、大きなほくろ、腹に刻まれた肉の皺、伊吹はその自意識を通過して、究極、究極の底のところまで下りて行き、ああそこでじっと目を閉じて、横たわる、まるで永遠の死体というように美しい……
「俺は伊吹のくるくると回るバレリーナ、が好きさ、喜びの奥に退屈を宿したその目の色の、合わせの鏡のように単純だけど確かに無限である檻に、閉じ込められちゃうともう抜け出せなくて、気が狂いそう」
「冗談なのか本気なのか、わからない、よく言われない?」
「それは俺が他の誰よりも本気だから、他の誰よりもバカだから……」
「どういう意味?」
「あんた、意味に乾杯を捧げたことがあるの? ないなら!」
「なら、どうなるの?」
「さあ、忘れた」
僕たちは、笑い疲れるまで談笑してから、店を出た。路上に立つと、いよいよ組んだままだった腕が、これからなにを言い始めるのか、耳を澄ませる段だった。伊吹が、私の家は、あっち、と挑発的に言い、僕はというと、どこでだって眠れたのだ。
*
僕らの話し声は、鳥の囁き合うようにも聞こえただろう。脇をくすぐり合うように、僕たちは話し、ついばみ、鳴き声を上げ……転がり、笑い、食べ、口に入れ、舌を洗い……ねぇ葉子ってホントは二十二じゃないでしょ、ホントはまだ一年なんじゃないの、言いなよ。嫌だ、でも嘘なら言ってもいいよ。あはは、それじゃ意味ないよ、ねぇ、あそこの大学に通ってるのは本当なんだよね?嘘は駄目だよ、目を見て、はい、ぞうぞ。え〜、ごほんごほん、本日はお集まりいただき、誠に。パチパチパチパチ。え〜、私は、そう、本当に、あそこの学生。文学部? ブンガクブ。日本文学専攻。ニホンブンガクセユコウ。ねぇほんとに? いったいあんたがどんな嘘を探しているって言うのさ! ふーん、じゃあまあいいや、可哀そうだし、隠してるし、嘘をばらすのは、ねぇ〜、それじゃあは、葉子はなんの用事があったの、今日、先生のところに、それだけは教えてよ、だって人付き合いの少ない先生でしょ、学生であの家を出入りする人がいるなんて思えないもん。ああ俺は、そう、本当は、本当のことを言うと……そんな風に僕が応えあぐねていると、伊吹は鼻で笑うように、食べ物の相談? と、言って、僕が、出されたものをどんどん口に詰め込んでいくのを揶揄するように、見つめてきた。だけど僕は、ご存じの通り、腹を空かせていたわけじゃない、ただ僕は出されたものは疑わずになんでも口に入れてしまうなんてよくわからないない気質だったというだけのことで、一方の伊吹はといえば、なんでもとにかく余裕を持ってやっておくというタイプ、料理の場合はとにかく買い込り、また今度食べればいいからということでとにかくたくさん作っておく、そんな二人のなんと言う巡り合わせが、この日には多少とも滑稽さとして現れたという、ただそれだけのことでありこんなに文字数をさくべきことなんかではないのだ。ああ、テーブルを挟んだ向こうではこれが何度目の食事か、伊吹がクスクスと笑い、それでも僕は次々に食い物を腹に投げ込んでいく。喋るか食べるかどっちかにすれば? と伊吹は呆れたように言うけど、それでも僕はそれがあるなら、食べずに入られないし、もっと、話さないといけないのだ。そうだ、ねぇ伊吹? あんたはそれでどうしてあの作家の家から出てきたんだよ?よくわかんないことすぎて、俺はすっかり忘れてたんだけどさ、だってあんたにはこの家があるわけでしょ? まさか、作家の娘ということもないだろうし、指導を受けていたとか? あの作家のゼミ生とか、そんなところ?
そう訊くと伊吹は話してくれた。ん、と鼻の奥で鳴らしてから、少し俯き加減に、声のトーンを落として、あのね、と念を押してから、あのね、私は、そうだよ、葉子の言う通りあの人のゼミ生だったわけ。極普通のね、週に一度、先生の選んだ本について語るだけのゼミ。人間嫌いなんだろうなあ、いいや、実際のところ、どれほど人間のことを好きでいても、大半の人間が、人間に思えないというか、人間の人間でない部分、あの人が人間性と呼ぶ部分からはみ出した部分、つまり、清らかでなく、正直じゃない部分なんかに我慢がならなくて、それで人と接するのももううんざりって感じなんだと思う。それでも大学の講師を引き受けたのは、安心のためかな、それとも先生なりと恩返しのつもりだったのかな、自分を生かしてくれた文学に対しての、ね、若者に教えることが、せめてものというつもりで、そんな仕事も引き受けたんだろうけど、一度引き受けてしまうと、もうこれまでのように嫌だから合わないとかそんなことはできなくなるでしょ? 引きこもるような生活も出来なくなる。するとそのうちに、初めは期待と義務感に支えられていた講義も、うんざりと翳ったような調子になる。そんなことはわかっていたつもりでも、やっぱり期待が裏切られてすり減っていくのは大変なことだから。あの人は、講義の終わりには挨拶も何もなしに資料をまとめてさっさと帰ってしまう、こんな講義がなければあなたらとは関係しないと宣言するように早足でね。うんざりだ、と人嫌いを目に塗り立てて、猛禽類のようにちょっと背を丸めてね、口を固く結んですぐに心を誰からも閉ざす。部屋に戻ると、原稿に向かい合う、その日は、言葉が自分と親しくしてくれない日なのだとわかれば、適当に考え事にでも耽ればいいし。先生の生活はそんなところ。私、は、ね、まあこれも、都合のいいバイトかなあ、ある日の講義の終わりに、私だけ呼び止められて、どうして私だったのかはわからない、けど、呼ばれて、何も言われないまま、資料の束を持たせられた、ちょっと微笑んでね、重いから頼む、というように、それっきり顔も背けて歩いていくから、私にはついていくしかなかった。先生の家まで……先生は椅子に深く腰掛けると、はあはあと体を休めてから、ぱっくりと傷が開くように口を開けて、事務作業を手伝ってほしい、と言って、慣れない手つきでパソコンを起動させると、大学のホームページを開いて、そこでの授業ごとの手続きや、作家である自分の担当編集とのメールのやりとりなんかについてを、ぎこちなく一から説明していく、それで私はどうやらあの人に雇われたらしいんだな、と気づいたときには、あの人は首をこっくりと天井に向けて寝てしまっていた。仕方がないので、私は働くことになった、というわけ。今日は、その帰りだよ〜。
話し終えたとき伊吹は僕に背を向けていた。僕は伊吹の首元を迷路に見立てて指先で遊び、肩のあたりをノックして呼びつけると、寝返りをうった伊吹に、あのさ、と囁きかける。あのさ、伊吹、俺が何をしにあの作家の元を訪れたと思う? 俺は、そうだ、今、素晴らしいことを思いついた、これでその人の憂鬱も晴れるような、素晴らしいことだ、ああ、ねぇ、俺ははるばる、あの人が講師についたと聞いて、あの人の元を訊ねたんだ、あの人に俺の書いたのを読んでもらおうと思って、いいや、まだ本当じゃないな、俺はとにかくあの人に会いさえすれば、あとはただ自分の問題であり、俺はいくらでもかけるだろうと思ってこんなところまでやって来たんだ。俺は作家になりたいんだよ。ほら、こんな紙がある、あのね、これは俺が今朝、ええっと、病室で書いた、汚いけど読める? 途中で終わってるけど、続きはね、そうだ、俺はね、ねぇ、先生? お願いしますよ、どうかもしも俺に才能があったなら、あなたはせめてもの誠実さのために、俺にあなたのすべてをくれないのでないと、いけない。文字通りすべてを、あなたはその残りの生を、僕のために生きるのではないといけない。絶対に、そうに決まっているのです、もしも俺が天才で、あなたが文学を愛しているなら、祝福がどんな風に届けられたとて、それを見逃すあなたではないでしょう? そこで僕は思わず嬉しくなって伊吹を振り返った、まるで何年も付き添った相手のように僕は親近感を感じていた。ねぇ伊吹、そうだと思わない、ああ親切さだ、それを配ることだ、金持ちの財布は盗まれるべきなんだ、それは水が高きから低きへ流れるような自然なことでさ、温度から温度が伝わるように、君たちは、喜んで我が身を傷つけなくてはならない、いいや、俺はもちろんキリスト教の善良について語っているのではないよ、俺が言いたいのは、ね、ただ、もしも天才がそう叫んだら、みんなは簡単に命など差し出さなければならないと言うことなんだ、それも心から喜んで、何故なら、天才は、天から使命を受けた彼は、誰よりも先にそれを成し遂げているのだから、彼がその最も尊い命をなんの気もなしに戦場に投げ入れられるのなら、どうして彼に続かない誰がいることを認めることができるか? そうだ、彼は使命のために死ぬことができるのだ、だからみんなは彼のために死ぬべきなのだ。ねぇ伊吹、だからさ、今度この手紙をあの作家に渡してきてよ、俺は小説を仕上げるよ、それも、届けてもらうさ、ああなんて幸福なことだろう、世界がせめて今夜だけでも、完全なる善意のためだけに回っているのだと確信できる今には……
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