第2話 啓示を受ける

そして僕らは外へ出た。歩いていると、道行く人々、子供を迎えた帰りの母親の自転車だったり、下校する小学生の列や、畑仕事に汗を流した老夫婦、そこらをランニングしている中学生くらいの男の子らなんかが、みんな僕たちに挨拶をくれた。小学校の横を通るとき、そこでグランドからフェンスを飛び越えてサッカーボールが歩道まで飛び出してきた、ボールはころころと転がって僕たちの目の前に止まった。ひよりがかけていって犬を抱き上げるようにボールを拾うと、フェンス越しに五人くらいの小学生が僕たちを見つめているのと目を合わせて、首をかしげながら、君たちの? と問えば、子供たちはうんうんと必死になって頭をカクカクさせた。その動作にはまってしまったのか、子供らはさらに激しく頭を振りながら、フェンスを掴んでガシャンガシャンと揺らし、返せー、出せーと言ったことを口々に叫び始めた。ひよりは微笑みを少し引きつらせながら、困ったように僕を振り返って見つめるので、返してやりなよ、と僕が言うと、ひよりは、えい、とボールを上に投げ入れようとしたのだけど、あとちょっとのところでボールはフェンスに跳ね返されて、子供らはおかしみをその全身で表現する、ひよりはきゃっと耳を塞ぎ、それだから今度は僕がボールを持って、脚の上に落としてからポーンと蹴り上げてグラウンドのずっと向こうまで飛ばしてやると、子供たちは飛行機の後を追う雲のようにグラウンドを駆けて行く。


 *


 また少し道を行くと、木陰に腰を下ろしてスイカを食べている老夫婦と出会った。二人は僕らと目を合わせるとにっこりと笑った。ひよりがにっこりと返すと、老婆が、こいこいと手招きをして、視線を掴まれてしまったひよりは、それを払うことができず、また僕に曖昧な視線をやるので、僕はそれじゃあせっかくだしとひよりと一緒に、少しその木陰に入れてもらうことにした。老婆はクーラーボックスから僕らの分のスイカと、種入れのボウルを差し出してくれた。


「今日はほんとに暑いねぇ」


老婆がそう言うと、そうだと言うように奥で老爺もうなずいてみせた。


「若い子には、アイスでもあればよかったんだけど」


夫婦はまた同じように繰り返す、ひよりと僕は合わせるように微笑みながら、スイカにせっせと歯形を残していく。


「甘いだろう?」


老爺が言うと、はいと笑顔で答えながら、またスイカに潜っていく。


「下校中ですか?」


老婆が訊ねると、ひよりはドキッとしてつい余計なことまで口にしてしまう。


「そうです、今日は、学校が少し早く終わって」


「部活はどうしたぁ」


老爺がカラスの鳴くように喉を震わせながら訊ねると、


「私らは、怪我で」


ひよりは、その指のぐるぐる巻きの包帯を老爺の顔の前に差し出すのだ、庇いながらスイカを食べていたようだけど一部には淡い赤色が滲んでいた。夫婦は厳しい目で向けながら、あら、とその指に同情してみせてから、ほっこりと笑顔を落とし、そうかぁ、とやさしい声で言った。


「早くよくなるといいねぇ」


それから老爺が、


「そっちの兄ちゃんは?」


と疑うようでもなく僕に訊ねるのに、ひよりはさっと僕に目をやり、どうやら僕にはまともに取り繕う気などないのだろうとでも考えたようで、気負い経って僕の弁護をしようと、緊張した視線を正座する膝の上に落として、


「病院に、この後、付き添ってくれるんです、あの、この人は、私の兄で」


僕は、あはははは、とその嘘に笑いをこらえることができなかった、ひよりはすると怪しまれることを恐れているのか、僕の膝に膝をぶつけることで暗に注意を伝えてくるのだけど、彼らが僕らのリアリティというか、僕らの生きている世界に対して自分のを対立させて怪しむような真似は絶対にしないだろうと僕にはわかっていたので、笑いだすともう笑いをこらえる気もなくなってしまった。ひよりはますます顔を赤くし、窮屈そうに体を小さく縮めるのだ。夫婦は僕が笑うのも心地のいい風が吹くのと同列だというように、耳を澄ませ、体を開ける。ああ、蝉が、どこかで鳴いていた、いいやどこかなんてことでもなく、いたるところで、なんという田舎の情景だろう! 僕はもう、スイカに手をつけるのもどうでもよくなってしまった。それでひよりに、食べる? と目と手の動きで合図を送ると、それを断れないに決まってる今のひよりはすぐに自分のを食べてしまうと僕のをリレーのバトンのように受け取り、口の中をもごもごさせて種を吐き出そうとする、それでもあんまり種が多すぎたのか、上手に吐き出せないでいると、老婆が身を乗り出してボウルをひよりの顔の真ん前まで運んでくれたので、ひよりは消えたいほどに恥ずかしそうに、ぺっ、ぺっ、と一粒ずつそれを吐き出していった。老婆が微笑みながら首を僕の方に回して、


「いらなかった?」


と訊ねると、ひよりはすかさず回答を奪い取りどこか怒りを滲ませるように、


「兄は治療中で、甘いものは控えてるんです、でもとっても美味しい」


と一貫性のない以外は完璧に答えてみせた。ひよりは急いで次のスイカを食べてしまうと、またボウルに切なげに種を吐き出すのだけど、今度は二つか三つくらい舌に乗せて唇の間から垂らしただけで、残りはボリボリと噛み砕いた、聞こえないようにそうする、その音が僕にだけは聞こえた。ひよりはスイカの皮をぷらんぷらんとやり、これ、と言いながら老婆に助けを求める、老婆はすかさずはいはいとボウルを貸してやり、ひよりはそこにカランと皮を落とすと、ここまでが一連の動作であるように、さりげなくすっと正座から立ち上がった。


「ありがとうございました。それじゃあ、この後、病院があるので」


そう言うと、柄にもなく真っ直ぐ僕に手を差し出して僕を立たせた、二人で制服をパンパンと払いながら夫婦に再びお礼を言うと、ようやく別れた。


 *


 ひよりは何度も老夫婦を振り返っては、まだ見送ってくれてる、と呟いて会釈を返すのだった。僕が、あんたが振り返るからだよ、と言ってもひよりは聞こうとはせず、結局曲がり道を曲がるまでひよりは夫婦と付き合っていた。ひよりはようやく羽を伸ばしたようになり、指を空中でプラプラとさせると、


「手がびちょびちょだ」


「ハンカチなんて、俺は持ってないよ」


「鞄の中になら、あるけど……」


「出したげようか?」


「汚れてない?」


「俺は、あんまりね」


「葉子君、ほとんど食べてないから!」


「喉がかゆくなるの、果物食べると」


「でも、食べてたじゃん」


「ふん、俺はね、スイカよりあの二人の好意を食べたんだ、もちろんひよりもそうだったんだろうけど。それにしてもひよりと歩いてると、こんなにいつも声かけられるの? 俺いつも、いくらこんなに田舎だからってこんなことにはならないんだけどなあ」


「そう?」


「そうだよ、かわいいお嬢さん」


それはひよりがさっき別のおばさんに言われたことだった。やめてよ、とひよりは笑いながら振り払うように言った。それから僕はひよりの後ろに回って、リュックから部活用のタオルを取り出してやった。ひよりはそれで指を拭うと、上手に丸めて鞄の中に押し込んだ。僕は、もう忘れてしまっていた、ひよりと一緒にいると、深刻さはすぐに離れていくのだった。それでもひよりはこんなことには気づかないように、まるで本やペンを相手に考え事に耽る僕も、今私の隣を歩く僕も同じひとりの人間なのだと信じて疑わないというように、またあの話を持ち出してくるのだった。


「ねぇ、今朝のこと、久保君から聞いたよ」


「今朝? なんのこと?」


「先生に、大学の話だったんでしょ?」


「ああ、ほんとに聞いたんだね、なんて言ってたの? あんたの久保君は」


「葉子は、多分大学に行くつもりなんかないんだって」


「へぇそう、それで、その葉子は? どうして大学に行かないのさ、頭が絶望的に悪いとか? 進学するためには、うんざりしすぎているとか?」


「そうなの?」


「そのどれでもないよ! あのね、俺はね、いいや、別に、何でもないよ、あのね、これは全然別の話なんだけどさ、今朝久保が、なんて言ったのか知ってる? あいつは〇〇大学の××のところで学びたい、だってさ、ああ、あいつはまともな奴だよ、立派だ、それでこそ進学だ、ああ俺は、そうだなあ、答えるつもりだったんじゃないけど、たまたまそこにたどり着いたから言うとね、俺は、何故行かないのか、に理由なんて必要じゃないと思ってる、むしろ俺に、何故行くのかを教えて欲しいよ」


 *


 その時、携帯に電話がかかって来た。親からだった。僕はすぐに、先生が僕を呼んでいるのだとわかった。そう言えば、また放課後に話を、なんて言ってたっけな。


「出ていい?」


「もちろん」


 僕は電話を取る。


「ああもしもし、そう? わかったよ、直ぐに行くよ、今? 高校の近くだけど、熱が出てさ、いいや、行くって伝えといてよ、話したい気分なんだよ、そう、大学の話、俺ももしかしたら進学するつもりにもなるかもしれないよ、久保がさ、まあいいや、そのうち詳しく話すよ、とにかく久保が俺にいいことを教えてくれてさ、受験なんてことは、みんなの勉強狂いを見てるとうんざりするし、やっぱり俺には向かないだろうけど、とにかくそうしてみようかなあという意志の芽生え、これだけは確かだよ、あはは、でもそんなに期待しない方がいいかなあ、なんせあんたらが成長と思ってるのが俺にはことごとくくだらなく思えるし、俺がいいと思う方に進んで、誰かに怒られなかったことなんてこれまでに一度もなかったんだからね。うん、でも先生には、もう少しで行くと伝えて」


 *


「ねぇひより? そういうことだから俺は行ってくるよ、忘れてたんだよ、先生と話があるの、朝の続きでね、せっかくだからあんたにも教えてあげるよ、俺は今朝は確かに宿題のことで呼び出されたんだけどさ、春からずっと続いてる俺の面談ってのは実はそんな目的じゃなくて、一度、俺は高校をやめると先生に言ったことがあったの、ああ、そのとき先生、あの人は物分かりのいい人でさ、自分でも昔小説を書いてたなんてこと言ってたかなあ、そうそう、それで、俺が特別それを好きだということも知ってる人なんだよ、だから俺がそんなことを言ってもさして驚いた様子も見せず、ただ先生という彼女の立場上こんな風に諭した。


あなたが今の環境に辟易していることは十分に伝わってきます、それを踏まえて、そんなあなたに対してだから、私はこうも言いたいのです。なにも学力に見合った大学に進学するのがあなたの義務と言ってるわけじゃないし、誰もそんなことは望んでいません。ただ私はあなたという才能が存分に羽を伸ばし、大空に羽ばたいて行けるような、そんな環境に出会って欲しいというその一心で、そのためのステップとして進学を進めているのです。なにも普通の大学に限らなくとも、芸大、専門学校、人生には様々な選択肢があります。どうか、視野を狭くしないでください。あなたの人生には、なんと言うか、ある特別さ、があるのでしょう。この教室にはどうしたって収まらないくらいの。それは常識にあてはめれることを、社会に組み込まれてしまうことを、どうしたって嫌がるものなのでしょう。あなたには才能がある、飛び切り自由自在な、その頭脳や、感性がある。あなたが正当にそれを望み、望んだ分だけの努力を惜しまないのなら、どれだけでも期待通りの返事を受け取ることができるほどの、大きな才能が。だから、今のまだこんなにも若い段階で、どうか自分で自分の可能性を摘み取るようなことはしないでください。あなたは大学に進学することもせず、なにもないこの田舎で一生を過ごすつもりですか? 


ああ俺が、いったい何のつもりか? だって? 俺がどういうつもりか? ああ俺にはわからない、それは名付けられないものなのだ、それは名前よりも速いものだ、あるいは名前の奥にあるものだ、名前を超越したものだ、それは、言ってしまわれるということがない、それは絶対に、まず、尽きるものではないし、終わるものじゃない、始まったものなのでもなく、それはただあるものなのだ。それは何かではないし、何かではない何かとしてあるものなのだ。ああひより、俺は、それなんだよ、俺はそうさ、俺はこの俺に自由意志なんてものは認めない、俺が望んだだけの報酬など、いらない。俺はね、これからとびきり苦しいことをしてやる、とびきり自分を痛めつけて、もう嫌だよおと泣き叫んでなおそこにある意義以上のとのを見られる、そんな場所に、飛び込んでやる、いいや、やはりこの段階ですでにもう、僕には意志の問題などはない、僕には選ぶようなどんな未来さえもなく、ただそれは僕が来ることを待っている、だから、もう行くよ」



僕はそして、ひよりと別れた。歩いていると、後ろからノロノロと走ってきた車が僕を追い抜いて少し先の道路に止まった。兄の車だった、窓が下りると、兄は喜びをあたりに撒き散らすような大きな声で言った。


「下校中か? 乗せてってやろうか?」


車の中には兄の同僚らしい筋肉質の男らがびっしりと詰まっていた。彼らは僕にじっとりした視線を向けてきた。


「いいよ、ただの散歩だよ」


言いながらも、僕はあのことを口に乗せてみたくなった。それがどんな風に響くだろうと、試してみたくてたまらない気持ちになったのだ。


「あっそう、じゃあ気をつけてな。そうだ、雨降るっぽいけど、傘あるか?」


僕はそんなもの持ってはいなかった。


「あるよ、ありがとう」


すると兄はニコニコと微笑みながら、行ってしまおうとするので、


「そうだ、俺、今日はちょっと帰りが遅くなるかもしれないからさ、家に帰るなら母さんに言っといてよ、この後、ちょっと用事があって、また学校に戻るんだけど、それよりもずっと遅くなるかもしれないって」


すると兄はわかったと言って、少し遠いような目、寂しいような、厳しいような目で僕の記憶を読むように、


「わかった、けどあんまり心配かけるなよ? お前は大丈夫だと思うけど、あの人は心配性なんだから、俺まで面倒だ」


最後には、笑って兄がそう言ったから、僕もつい同調するような、一緒にあの人を、悪意でもなく小馬鹿にするような気分になって、


「ああ、それはわかってるよ、俺は勿論、あの人を疎かにしようなんて思ったことさえないさ、でも、今回に関しては、ちょっと心配させちゃうかも、でも大丈夫だよ、それはお前の方から言っておいてね、あのさ、俺が、長いこと進路のことで悩んでたでしょ? 悩んでたというか、別に俺としては大して気に病んでなどいなかったんだけどさ、勿論考えてはいたよ、それは大学をどうするとかそんな問題じゃなくて、俺はこの生にどう対処してやればいいのか、どう向かい合えば、という問題としてだけど、それで今日、ようやくいいことを思いついたんだよ、まあまだ、ただの思いつきだったってことはあるかもしれないんだけどね、あのさ、前にお前にもちょっと読んでもらったことがあったでしょ、俺の書いた小説を、まあいいや、恥ずかしいな、あのね、俺はこれから少し遠くに行ってくるよ、俺は作家になるんだよ、なったのかな? いいや、言い方なんてなんでもいいんだけど、どう? この衣装は俺にピッタリなんじゃない? いいや、制服のことなんかじゃないさ。ああ、はは、そういえばあんたはなるんだって言ってたっけ? なんて不幸な兄弟だろう、親にとってはね、でも俺は今日から作家だよ、あはははは」


「おお、そりゃすごいなあ、出来るのかよ、そんなこと」


「はん、楽勝だよ」


兄は車の中の仲間たちに向かって、


「聞いたかよ、お前ら、バカみたいなのが邪魔したらだめなんだよ、うちの弟を、作家だぞ、ほら行くぞ」


そう冗談めかして言った。中の誰かが、お前じゃねぇか、と言って、それで僕らみんなが笑っていると、兄は、


「おー、それじゃあ、もう行くけど、ただお前、気をつけろよ?」


そう仰々しく言って、窓からゆっくりと腕を出すと、指を立てて、それをゆっくり空に向けて、なにを言うかと思うと、


「雨」


と呟いたのだ。僕はくすりと笑ってしまった。


「わかってるよ、わかってるよ」


「それならいいんだけど。ああそうだ、一応肉は残しといてやるよ。あー、頑張れよ、これからお前も、色々あるだろうけど、一応な、心配いらないだろうけど」


「肉?」


「バーベキューするんだよ、家の庭で」


「ああそう、はぁい、バイバイ」


兄は窓から出した手をひらひらとやりながら、静かに車を発進させた。僕は、その車に向かって、なんだかこう言いたくてたまらなかったのだ、あんまり興奮しすぎていたのかもしれない。


「なあ、雨降るぜ!」


大声で叫んだのだけど兄には聞こえなかったようで、兄の腕はただひらひらと誰のためということも忘れたように振られるだけだった。



すぐに小雨が降り出した。雨はシャツをびっしょりと肌に吸い付かせ、僕の前髪から水滴を滴らせた。襟足は、熱中症の犬のように肩にもたれかかっていた。そして、それらのすべて、すべてのすべてが、僕にはもうどうだっていいことだった。僕は一足ですべてを飛び越えた、多分、実際にはただ笑っていただけなのだろうが、僕はこの思いの余りの途方もなさに、体が何か巨大な足に踏みつぶされでもしたような、びりびりと鳴るひどい疲労感と、とてつもない死や完全に生きられた生の浮遊感を同時に抱き、ああ、僕は肩をひくひくとやりながら、終わりまでのすべての未来に貫かれて完全に無重力である以上にまるで無時間だった。



それが啓示だった。僕はすぐに理解した、それから僕はそのすべてを感じ取るだけではなく、一からすべてをまた歩まなければならないのだということを、ああ僕は、すべてを与えられたなら、そのすべてをやらなければならないのだなんて、これからの僕は、もう生の完全に描かれた円環の、ピラミッドの奴隷の如き奴隷だなんて! 僕は何かに急かされたように、走る、後ろを振り返りながら、走っていないと、僕はいつでも死ぬほどの思いだった。


 *


 先生は僕を待っていた。僕は頭にタオルを乗せられながら、保健室の隣の空き部屋に連れられて行かれた。先生は一枚の紙を用意してくれていた。それは今朝久保が口にしたその作家のいる大学の情報をまとめたプリントで、そこには大学の学部紹介から、その先生が受け持つ講義の数と対象まで、何でも載っていた。そして最後に、その作家の家の所在地まで。先生はにっこりと微笑んでこう言った。


「今朝、久保君が彼の名前をあげたときは驚きました。私にも覚えがあって、調べてみると、やはり彼は私が大学生だったときの同級生で、彼が作家になっていたことは知っていましたが、それから大学にポストを得たことまでは、知りませんでした。急いで今日の午前中に、彼の連絡先を見つけると、失礼は承知のうえで、昔の縁に縋る思いで、それと生徒のためという大義名分から、ぜひ紹介したい生徒がいる、とメールを送らさせていただきました。すぐに返事が来て、彼はぜひとも講義風景を見に来てほしい、と返事をくれたのです。私は、二人には、夏季休暇の課題の代わりに、彼の講義を受けて、それをレポートにまとめるというもので手を打ちたいと思うのですが、どうでしょうか? 久保君には先ほど伝えたところです。あなたは、どうです? 興味がありませんか?」


 先生には、僕がそれに興味を持つだろうということは、お見通しらしかった。


「平日で都合がつかなければ、休みの日に一報入れてから家を尋ねてくれれば相手をできる、と。私としても、学校としても、そのために一日休むくらいは何ともないことなのですが、あなたには、大学の授業を受けるよりもそのような形の方が方が好ましいかとも思いまして」


「これを貰っても?」


「はい、どうぞ、あなたのものですよ」


「僕がこれを、思うままに使うのだとしたら?」


「いいようになるといいのですが」


「誰にとっても、よくはならなくとも、それでもそれはいいですか? 例えば、これはくだらない方の考えだけど、僕がもしも学校を辞めるようなことになっても?」


「その時はその時です」


「ありがとうございます、考えます」


 僕はその紙を受け取ると、ポケットに入れた。そのときポケットの中で紙がかさっとなると、僕は自分が保健室であれを書いたのだということを思い出した、僕は、ふらふらと夢見心地に、部屋を出た、正門を潜り、坂道を転げ落ちて、呼吸するのも、歩くことも忘れて、ただ何かが僕を導くのに従うように……

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