一番高い塔
葉子
第1話 語り始める
ああ、こんなんだったかな? どれくらいあってるだろ? 多分、こんなんだったって覚えてる。ああ、あのあとに? そう、俺が? どうして今、こんな風だって? それは……さあね。ただ、ひとつ言えることは、俺はね、なんの上に立っていたって笑えるということさ、どんなことが起こったのだとしてもね。だって、あのあとに、ねぇ、俺はもう笑わなくなってたんだって、そんなこと言ったっけ? 言ってない? そう、だから俺はね、あははと笑い出さずにはいられない。なにか楽しいことがあった? いいや、起こることすべては、それはそれは悲しいことだった、だけど、振り返ると俺は、まったく楽天的な意味でもなくそれを笑うことが出来た。何が俺の手元に残ったのか? それは俺をくすぐるものなのか? いったい、あんたは何をすり抜けて来たというのか? ああ、あんたの脳髄に去来するいくつもの問いを、夜更けにマフラーを編む母親のように、俺も編み上げることで、一編の物語を作ってやったって構わない、それがいらないなら、俺はあんたの寝ずの番をしてでも、その悪魔を一体一体退けてやる! それとも夢の上映者にでもなってやろうか? ギアとしてあんたと手を繋ぎ、面白く世界を転がすのでもいいだろうね……ああとにかく、あんたはそれが知りたくてたまらないんだね? 俺がどんな風に生まれて、何が起き、すべてが起こり終えたあとで、俺がどうなったのか? ああ、俺は今すぐ始めよう。なんせ、俺としては、こんなお喋りも、いつまで続けていたって構わないと思うくらいでも、あんたの手が頁を捲るための時間は、寝る前のたったの数分だけと限られているというわけなのだから。ああ、足音には気を付けることだ、今夜はもう、本は枕の下にでも隠してしまえ。
*
さてあんたが、閉じたからこそ、この本も、今では本音を語り出す、というわけだ。ふん、そんな小細工はいらないよ、いいや、俺はただあんたの夢の具合を心配しているだけさ。寝顔をちょっとばかり拝むためには、あんたを眠らせるしかなかったんだ! さてその健康そうな色、こめかみに走る静脈、悩まし気なその皺、その隣、かつての大帝国の如く広い額、閉じていれば口のようにもごもごと動き、その夢の実況の役割を果たす、二つの瞼、お気楽に、この世に置きざりにされてしまった、血色のいい、ふっくらとした、枕元のぬいぐるみのような唇……さてそいつが、俺好みの物語を始めてくれるまで、手のひらで顎を支えておこう、うっとりとうるんだ目、ことりと傾けた首で、あんたのハミングに同調してやろう……
*
あはははは、あはは、あはははは! あっはっはっはっ、あは、あはははっ……僕は思わず笑いださずにはいられない、なんて言ったってそれはまさに前代未聞の……なんてことはない、ただ、馬鹿げ切った出来事。だって、お前のような奴となんて、ああ俺は、これまでも、嫌というほど付き合ってきたんだ。ねぇ、初めて僕の部屋のドアをノックしたときのお前の震え、ただ未来を掴み取ろうとする手の恍惚と不安を宿したあの微振動、僕の眠りにまでそれは入り込んできた。この朝はなんだろう? 目覚めのときから、どうにも奇妙な気分だった……それとも、僕がお前を見た瞬間にそれと気づいた、予感がついに現実となったんだというあの感じ、あの予感は、今朝なんてものじゃなく、もっとずっと昔から、僕が育て上げたものだったのだろうか? 例えば、こんな考え方は誰にとっても傲慢だろうか? 僕はお前のことを予感していたのだ。お前という存在なんかは、すべて僕が用意したものだったんだ、僕の見た悪夢だったのだ! なんて、ああ、僕は、そんなことを言うつもりなのじゃない。ただ、とにかく、あの昼下がりのお前を見たとき僕はこう思ったんだ。こいつは僕がかねがね抱え込んでいた空洞、恐怖、後ろめたさに、ぴったりとあてはまるじゃないか、と。それだから僕はお前のことを、なんとなく自分と分けて考えることができなかった。お前のあの眼の、そしてそれ以上にあけすけだったあの歯の輝き、そこにお前はなにを映していたのか? ああ、お前は、突然、あの昼下がりに、僕の元に、僕のかつての恋人の、ひよりを連れてやってきたのだ。ああ、その隣に並んでいる、ひよりじゃない、ひよりじゃなく、ひよりの隣に並んでいる、お前に強く、僕は見覚えがあると感じた。なんせ、お前の眼の色味、それはかつて僕が何度も思い描いたまさにその通りのものであり、お前の隣で佇む女の子の媚態、あの侵入を夢見るぐにゃぐにゃとした笑顔、あれこそはかつて僕に降り注がれた、いうなれば太陽の光とも呼ぶべき盲目のエナジーだったのだ。だからお前、お前があの日、やたらと熱くジメジメした、ある曇り空の日の夕方? に僕を訪ねたとき、あはははは、あはは、あはははは! 思わず僕はこんな風に、笑い出さずにはいられなかったのだ。お前の眼はまるで、僕が観念の中で育て上げ、決して直接この眼で拝むことのないまさにその視線を突き抜けた反対側の位置に夢見たもの、そして、確かにそんな風だっただろう、鏡など通さなくてもわかる、僕の目とそっくり同じものだった、いいや、眼差しが、ああ、そんなケチなことは言わずとも、正直に、はっきりと打ち明けるなら、お前はかつての僕にそっくりな姿をしていたんだ。しかも、その隣に、ひより、かつての僕の恋人まで連れて……驚いた、僕はついにこの命を差し押さえられたのだとでも思って。あんまりうかうかしているうちに、言葉を、一握りの才能を、失ってしまった僕から、この怠惰も、生活も、命さえも、奪い取っていくんだと思って! もうこれ以上、僕の怠惰はここにいられない。そうだ、これが最後の段階なんだと踏んでいた僕のこの怠惰の底が抜けて、もうこれ以上ここに寝ころんではいられないのだと僕は思った……さて、僕は予感は当たっていたか? お前は、盗むにせよなにを僕から奪いとったか? 以前までの暮らし? 安らかさ? 問題だったのは、奪い取ったものなのではなくて、お前の奪い取る方法だった。なんせお前は、与えることで僕に以前までのものを捨てさせ、こんな場所、日の光のもとに引きずり出したのだ。
*
ああ、僕がどうしてこれを書くか? だって? 答えられるくらいなら、僕はこれを書いてなどいないよ。そうだ、僕は書くことで発生したこの問いに答えるためにこそこれを書くのであり、そのためにその問いと問いを発するお前とが立ち現れることにもなる。僕たちの陥った機会は極めて円環的だ。僕たちは益々お互いを食い合いながら、真っ白なコインの裏表を探り合う……さて、僕が書くからこそお前は生まれ、僕はお前のためにこれを書くのだ。お前に浴びせられた問いに、尊敬や哀れみに、お前が僕にくれたすべてに応ええるためにこそ。ただ、本当を言うと、僕はもう、ために、などの考えるためには、重大な障害を抱えているようだ、僕は何のために何をするものなのでもないし、僕はただお前や他の何か偉大なものが僕を差し貫いた、それだから、書く、ひとりの馬鹿というような気分なんだ。ねぇ、あらゆるものは生起する、順番に、同時に、不規則に? いいやそれとも、生起する、なんてことは何一つなかった、すべてはこの世の揺らぎであり、僕とお前も束の間の幻に過ぎないものだったか? 一体、過ぎないとはなんだ? 過ぎる、何かぎあるというのか? それならどうして僕らはそいつにかしずいていないんだ? ああそうだ、ねぇ、僕はひとりの奴隷だ、美の、崇高の、僕にはもう考えなんてものはひとつもない、僕はただ書くだけだ、そうだ、これを、しかも、僕が書くのではない、書く僕がいるだけのことであり、そこにはお前もいた。ああ、僕も、お前も、風の通り道である木木や、蜜を運ぶ蝶の群れ、それらとなんら変わらないものさ。ここはたんなる話の通過点に過ぎないところで、言うなれば場であり、時間的な空洞、内容によって満たされる瞬間こそがこの僕でありお前なのだ、わかるかな? もうお前はその手で、チェスのプレイヤーのように必然と石を運ぶのではない。お前のファインダーが見事に風景を捕まえる代わりに、風景がそのフレームの中に入り込む、僕が書くのもまるで蟻の行列を眺めているハクチの子供のような気分なんだ……
*
あのとき、僕には、言うまでもないことだろうけど、ああ僕のお前への信頼のなさがこれを言わせるわけじゃない、ただ僕はあんまり恐ろしいのでその夢の話を恋人に聞かせるような思いで、これを何度もお前に言うとするなら、ああ、あの時僕には、お前を侮辱するつもりなんて、ああ、お前を軽視するつもりなんて、本当にこれっぽっちもなかったんだよ。ただ、あの日、お前が僕の目の前に現れたとき、あんたがドアを叩いて僕を起こしたとき、一瞬遅れて思わず、あははははは、あはは、あはははは、と漏れた僕の笑い、あれはね、いいや、僕にとってさえ、あれがなんだったのか、わからない、ただ、少なくとも僕は、あのときにもうあんたのことを、逃れ難いものとわかっていた、あんたが僕の運命か運命を運ぶものであり、こんなになってもまだ僕を捕まえて離さないなんて、僕は僕のこの生の、ああ、そのしぶとさ、がっしりと僕を捕まえて離さないその執拗さのために笑ったんだ、ああ、侮蔑するわけでも、噛み切れるなどと思ったわけじゃない、ただ崇高に貫かれて、いいや、あのとき、あまりにも先取りしてしまう僕とお前の目が同時に見たのかもしれない、最後の光景のあまりの壮大さのために、僕は、笑うしかなかった。そうだ、それは、僕を許してはくれない、僕はまだ、寝たいときに眠ることが出来ない、僕はまだ死んでいなかったんだ! ああ、僕は、心臓を掴まれたような気分だった、肩が二本の細い足のように震えていた、眼球にひびが入ったのかと思った……
*
よし、僕は僕の死体の位置から、もう一度やり直す、そのポケットをまさぐり、有用なものを譲り受け、僕は僕の歩みを歩む、ああ、書き始めると、死にたくない、なんて強く思い始める、これは身の毛もよだつほど、恐ろしいことだ、どうにかして死がまだ遠いと思えるために、まだ死んでいない天才の名前をひとつひとつ、数えよう、ああ、あいつの死んだ齢を数えることだ、まだ時間がある、ああ、早く早く、やらないと、多分、時間はあるだろうが、この心象のうちでは、何も待ってはくれないだろう、僕は、早く早く、ただなるべく破滅してしまわないために、できるだけ遅く、遅く……ねぇ、俺はお前に本当に昔俺がそうしていたようにまた小説を書くよなんて、そんなことを約束したんだったよね?
*
そうだ、かつて、僕のは、深刻な吃音症だった。あるとき、意味とはいつもあまりに浅薄な断定であり、太陽の自由自在に比べればあまりに早すぎる就寝時間の訪れなのだということを知り、ああ、なにかを目指すということや、僕のものにしたいと考えるなんてことが、死体の所有に思えて仕方がないと感じられたその瞬間に、これまで言葉らを繋ぎ合わせていた光のようなものが僕の元を離れ、以後僕の書く言葉はどれも崖から崩れ落ちる岩粒のようにもバラバラなものになってしまった。
*
それなら僕はこの生を世界の豊かさに返してやるべきなのだ、僕の口はもう、天上に見開かれて沈黙し、何よりも語れるこの肌にこそ、その詩を譲り渡すべきなのだ。そして僕は僕と世界との輪郭の触れあう、臨界点に触れたそのときに、僕も世界も完全になくしてしまったので、それ以降僕に語るべきどのような言葉もありはしなかった。ああ、それから夢はどんなに自由にそれを語っただろう、僕はそれを見るためには、ただ目を閉じさえすればよかった。さあ、その目を閉じなさい、朝には、太陽が僕の分まで語ってくれるだろう、だからその目を、じっくりと焦がしなさい、口は、恋に漕がれるように、ああ池の中の鯉のようにも、エサに、子供の投げ入れる無垢なるタンポポに、パクパクと空気の出し入れをしなさい。
*
吃音……中断する僕の笑いや言葉……可能だとすれば、簡単なところからやり直すことだ。おはよう、ありがとう、愛してるよとか。僕は言葉という波に乗っかればその瞬間にもう落っこちてしまいそうになる、僕の舌は、もう滑らかには回らない、観念の回るスピードに耐え切れず、ルーレットの速度にすり切れたボールが外にはじけ飛ぶように、舌は僕の期待を裏切る。ああ、それを眺め、拾う背中の動作のくたびれ方を思うと、果てしない気持ちになる。なにがそれを引き起こしたか? 僕があのようにも空っぽだったのはどうして? あのように、僕はまるで丸腰で立つ荒野のように不安だった。自転車から落下してしまう、というこの確信こそが次の瞬間の落下を招いたのではないか?……というようにも惨めな認識者だった。というのも、この人生において本気で死と対峙してからというものの、僕には、とうとうそれは対処不可能だったのだ。それを悟ったとき、僕の恐れは一瞬で僕の内部世界を破壊しつくたので、残念ながら僕にはもう荒れ果てた博愛の気持ち以外持ち合わせがなかった。僕は空っぽで満ち足りた挫折者だった。天ではなく地で咲く極く自然の花々だった。僕には、ここにある音楽文学風景以外のなにもなく、ただ無限に引き延ばされた沈黙だったのだ。
*
僕とお前は、もう何度、夢の中、記憶の中、この書き物の中でさえ、出会ったことだろう。白状すると、最初にお前と出会ったあの日以来、僕には、お前と一緒に過ごさない夜などひとつもなかった。僕らは互いの夢を行ききした。ああそうだ、僕は何度も互い違いの夢を見た、お前が僕の兄弟でも衣服でも飼い犬でも家でも思い出でも将来でも、驚きはしないだろう。だから、と言うわけではないが、僕は、もう帰ってこられなくたって構わない。僕はお前と何を取り違うことになろうとも、なんとも思わないだろう、未来を、恋人を、運命さえも。それほどに、僕はお前のことを思っている、ああこんなことをすべてあの一瞬の目の輝きの中に見せられたのでは、僕が笑うしかないというのも……
*
だから僕はこの物語をお前のために始めたのだ。お前が僕にこれを書かせるんだ。お前は僕と僕のかつての恋人とを会わせ、お前は僕のために僕の夢をほんの少し先取りし、お前は僕をあの部屋から連れ出したのだ。そしてあの情景に立ち会わせることで、完全に僕という風船を膨らませ切った。こんな馬鹿げた比喩が嫌いなら、どうせお前が気にいるやつをあげるよ。ああそうだ、これはとびきり照れ臭いやつだけど、事実には違いない、お前は僕の物語を書いた……
*
お前は僕のために存在した。そして僕もまたお前のために存在するだろう。蝶は花のために、そして花は蝶のために、ああそうだ、みんなはみんなのために。でも僕は道徳の授業をしたいんじゃない。言いたいのは……僕はお前のためにこそ書くのだし、どこから始めるのが適切だろうか? そのことだ。う~ん、だったらやっぱり僕とお前とが同じ夢の登場人物と定められたあの出来事の、予兆を拾うところから……そう、僕がいかにして作家としてのキャリアを歩み始めたのかというところから話してあげるよ。どうして俺が小説をやめてしまったのか、特別気にしてたあんただから、出来るだけわかりやすくね、さて、それじゃあ、前置きは、こんなところで、最後に一言……そうだ、かつて僕には、自分が死なないとあらかじめわかっていたことなら、なんでもできた……
*
ああ、僕はいてもたってもいられなかった。今朝、夏季休暇の宿題が未提出ということで職員室に呼び出され、先生と今後のことについて長々とお話をしたところだった。僕と久保がそろって未提出だったのは、大学のオープンキャンパスに参加しその体験を簡単なレポートとして提出するという課題で、僕はその頃、こんな高校をやめてやるという考えで頭が一杯だったから大学のことなど到底考えられないというのがその課題不履行の原因だったのだけど、どうやら久保は、より良い未来の選択肢を選ぼうとうんうん頭を捻っているうちにオープンキャンパスの時期を逃してしまったのだと言う。
「それで、行きたい大学は見つかったのですか?」
先生が訊くと、久保は一日中雲をぼーっと見つめる無気力者というような遠い声で、ああ、はい、と返事をした。
「ああ、はい、〇〇大学の文学部に、昨年から作家の××が講師として招かれているらしいと知れたので、今はそこを第一志望に考えてます」
××! 僕も当然、その名前くらいは知っていた、名前と、その作家の初期の頃の作品と……今じゃもう歳をとりすぎてしまっていたけど、それでも一流の作家であるのには違いなかった。久保はそいつの下で学びたいのだと言った。先生はやさしくうなずいて僕に目を向けた。僕には考えなんて何もなかった。それで答えあぐねていると、始業を告げるチャイムの音が鳴り響き、先生はおしまいというように二つの手を重ね合わせて、ぱんと音を立てると、あなたは放課後にまた来てください、と言って僕たちを帰らせた。
*
職員室から返る道すがら、僕は久保とこんな話をした。
「なあ久保、さっきの話だけどさ、その××が、大学なんかで、お前になにを教えてくれるの? まさかお前はそいつの元にいけばそれで作家になれるとでも思ってるわけ?」
「それは、わかんねぇよ、努力次第だろ」
「ああ、そう、俺は、お前がそいつの元で学びたいなんて言うもんだから、いったいなんだと思ってるのか、気になって、さ。ねぇ、そもそも、あれは本気だった? ただの言い逃れ?」
「本気だよ、俺は本当に、オープンキャンパスにも、行くつもりだったんだから。お前なんかと一緒にするなよ」
「ああ、はい、はい、それは先生に言ってやりなよ、俺なんかと一緒に呼び出されてさぞ口惜しかっただろうがね、優等生の久保君には、文学青年のあんたには。でも先生の表情をよぉく見た? あの人が心配してる、というと言い方が生ぬるいけど、あの人が、そうだなあ、呆れているというか、どうしようかと考えあぐねているのは、やっぱり俺の進路について、といった様子だったよ。あの溌溂とした目がだるそうに曇るのは、俺の顔の上でだけだったんだからね。あんたは誰よりも期待されてたよ。あんたが一番まともなレポートを、今日先生に提出したんだから。その、××のところで学びたいってやつを。みんなのを見た? 俺は見てないけど、ひどいものだろうなあ、あいつらじゃどこに行っても変わらないだろうし、あんたの暗い暗いその読書の方が、全く有意義だろうよ」
「何が言いたいんだよ」
「何が? ああ、そう訊ねるくらいなら、あんたは礼儀としてそのお尻を俺にもよく見えるように十分吊り上げてくれないとだめだよ、何が? 俺が? 言いたいことって? ただ俺はあんたのその姿勢とやらにいたく感動したというだけのことだよ、あんたは頑張ればいいさ」
「お前は? どうする気だよ」
「どうしてもそのお尻を吊り上げることに対しては、反対ってわけだ。俺は? 俺の心配をしてくれるのなんて、今じゃあの先生とあんたくらいのものだよ、なんせ俺は絶賛落ちぶれ中というわけだし、入った時には一番だった成績も、今じゃかろうじて一桁と言った具合なんだからね、今にもあんたとの差も、それはそれはひどいことに。悪いのは、俺の頭の働かなさだ、どうしても、俺の頭は何も建設的なことについては考えられないようにできてるらしいんだよ、その場でくるくると回るばかりでさ、犬の天才的な一人遊びとでも言ったように」
「大学は? どうするんだよ」
「まだしつこくそれを聞いてくれるのは、お前くらいだよ。だけど残念ながら、何度も言うようだけど、俺は何にも考えていないのさ、ああ、お前の志望動機は、いいものだったなあ。そこらの奴よりは、どれだけ立派か。お前、作家になるの?」
「なりたいって思ってるだけだよ」
「ああそう、そんなやる気にまで謙遜させちゃってさ。死ぬほどなりたい、でしょ? なんせあんたは俺にどんどん新作を持ってくるじゃないか、次回作はまだできないの? 前のは言ってた賞に出した?」
「出したよ」
「今は、結果待ちってことだ」
「ああ、半年後にな」
「半年後! 俺もお前も、どうなってるか知らない、するとお前の天才はその我慢強さなんだね、お前なら、一生かければ、ものにできるだろうよ」
「なんだよ、人の話ばっかり。お前は?」
「俺? 俺は……この一人称を使うと、どうにも先を思いつかなくなっちゃうなあ、俺はね、俺は、何も考えてないよ……いいや、考えてるのかもしれないけど、それは今のところはまだ俺にもお前にも明かされない秘密なのさ……」
*
僕は、際限なく読む、書く、これまでだってそうだった、ただ、考えたこともなかったなあ、作家になりたいなんて、久保みたいなことは、思いもしなかったんだよ、何故だかわからないけど、僕はやっぱりいつでもどこかぼんやりしているようなところがあったから、自分でも自分が何を考えているのか気付けなくて、いつでもそれがパッと完成形の思考として現れたときに、どうしてこれまで気づかなかったのかわからないくらいだったのだ。そうだ、この朝に、僕は唐突にそんなことを思った。僕は、作家になるために生きて生きていたんだ! やっぱり、なんてバカバカしさだろう、これまであれほど勤勉な読者家であり、自分一人の作家であった僕が、今更になって作家になることを志すなんてことは。それでもそのとき僕には、そんな風に与えられたのだ。一度目の啓示が。ああ、そうだ、僕はこれまで、思いもしなかったなあ、小説を書いていたこれまででさえ、自分が小説を書くなんてことは、本当に一度も、思いもしなかった。作家だって? 僕が何かになるだって? ああまだ信じられない。そうだ、信じられないが、それは夢や、ドッペルゲンガーとの出会いのように、ふいに、死ぬほどに決定的に、僕に訪れた。すると僕は、次に今すぐにそれが実現しないというこの現実の方で、消え去りたいほどに身悶えした、僕が作家になるのだという考えは、すぐに僕は今すぐ作家にならなければならないという命令に形を変えた……
*
授業を受けていても、とても気が気じゃなかった。ああ、久保からそれを聞かされるなんて、あの作家がこんなに近くに住んでいるなんて! ここはひどい田舎だった、僕はこれまで一度もそんなこと考えなかった、ああ、作家がそこにいるのだなんて! 今日もあの作家が大学で授業をしているって? ふん、それじゃあ僕はどうしてこんなところで授業を受けなければいけないというのだろう? こんな退屈な教室に閉じ込められているのは、どうしてだろう! ああ、これまで思いもしなかった、僕がその外にも足を伸ばせるのだということなんて、すべてはまだ歩まれ出してさえいなかったなんて!……
*
僕はもうこの教室にはいられない、この壁が世界の終わりの壁ではないのだということを悟ると、ここで体がただ朽ちて行くのを眺めているのは、我慢できない、ああ、僕はここを出て行くだろう、僕は、それを踏み越えることが出来るという、ただそれだけのために、出て行く。僕は自らの真の名前を、ぴったりと収まる長方形の棺桶を、探す亡者などでもないのだ、僕ただ、ただ僕はこれから続けるだろう、延々にそれを、旅を、あらゆるものの踏み越えを、限界への触れを、ああ太陽のあの永遠の焼身自殺を、僕は一体何に操られているというのだろう? わからないけど、ああ、僕はただ、歩き出す、僕の精神は可能事の極地へ向けて、歩く、この世の果てへ、極限に、死に!……
*
ああ、なんて、真っ白で、ありふれた、退屈な、ベッドだろう! 保健室には誰もいなかった。ああ、どんな星よりも、地震よりも、くらくらするこの頭を持て余して、僕は少し眠りたかった、ちょっと考えを急沸騰的に結論に走らせすぎたかな?……よし、僕は少し、眠れるならば眠ろう、アフリカの飢餓の子どもが腹に飯を詰めるように、貰えるものは貰っておこう……と、ベッドに横たわり、目を閉じても、ああそれでも、僕の眼がいくら閉じていようとも、考えが、考えの眼が、僕を見つめることをやめない、そうか、それならわかった、僕はもう眠れないのか? ああそれは大きくなればやがて僕を溢れ出さずにはいられないものなのか? それは僕の中で咲き、僕を食いちぎって開花する満面の花なのだろう、僕に巣食い始めた病なのだろう、それでも崇高の病だ、僕のは、清らかな花を咲かせる土の名誉だ、これ以上はないさ、ああそして、僕はふらふらとまた立ち上がると、不在の保険医の机から診断書を一枚捲り取り、その裏側にこんな手紙を書いた。
*
絶対や、真理はあるのでしょうか? 神や天才はいるのでしょうか? あなたがもしもそれがある、彼がいる、と思うなら、あなたはそれを少しも疑うべきではない。あなたはそれが、真理や天才が、無限の同義語であることを認めている以上、その可能性がどれほどわずかなものでも、それを試してみることは、他の何よりも優先されることでなくてはならない。同時にあなたはすべてを疑ってみなければならない、すべての言葉に、そうではないものの存在を感じていなくてはならない、それは何も決定を避けろやそんなことなどではなく、それは単に、いつでも別の可能性に対して、見えないものに対して、感覚を開いていなくてはならないということだ、あなたにとってそれがどれだけ自明のものだとしても、その自明はあんたの恐れが命名したものなのではないか? こんなのは疑うことの、初歩の初歩なのです。ああ、あなたは絶対にそれが愚かと断定できてしまうときでさえ、もしもその目が少しでも別の光り方を心得ているようなら、それを試してみないなんてことは嘘なのです。あなたは、わからないということに対してもっと尊敬を覚えるべきなのだ。わかった気になることはどこの世界でも最高の愚かさだし、あなたは本当はなんのことさえわかってなどいないのだ。あなたは、それが天才かもしれない、とすべての場合に対して仮定してみなければならない。それでこそ正しくものの価値を計れるということですよ。
さて、こんな前置きはいいとして、ただ、僕としては用件を伝えるより先に、もっとあなたの逃げ道を塞いでおきたいということなのです。いったい、あなたは今でも精力的に作品を発表しているし、今度は大学で講義まで始めてみたということですが、あなたはどういうつもりでそれをやっているのですか? あなたは、ああ僕はあなたの作品の内のいくつかを本当に本当に好きだけど、ただあなたの才能も、他のどのような才能とも同じように、ひとつふたつで限界を迎えてしまったようだけど、あああなたのそれ以後の仕事はどれもひどい自己模倣ですよ、あなたはあなたの方法を得たのではないし、哲学を開花させたわけでも当然なく、あなたは開花とは反対に、あなたはあんたの必死に作り上げたそのひとつふたつの作品の、部屋の、その住民となってしまったのだ、あなたにはもう新しいところなど期待できはしないし、あなたは酷く閉じてしまったのだ、終わってしまったのだ。ああ、僕はあなたをなじりに来たんじゃない。あなたのことは好きですよ、あなたは小説の、新人賞の、選考委員をしていますね? 僕の友人に、熱心な奴がいます、そいつはまさにあなたのファンですよ、小説も、ひとつやふたつ、投稿したはずです、あなたは読みましたか? ああ、読んでない? それもそうだ! あんたは、本当は何に対しても期待などしていないのだから、あんたはあんたの部屋の住民と遊ぶばかりだ、だったらいい加減、その表情をやめたらどうですか? その鷹揚ぶった表情を、あんたは僕と比べれば、まるでこれっぽっちも小説のことなど好きではないのだ、あああんたは、もしもこれを読んで気分を害すというのなら、そのまま死んでしまえ、僕を警察に突き出す? 驚くことに僕はまだ十七歳で、大人らが汚い手で触れるには綺麗すぎる、ついでに言うと僕の身長は百七十と少し、極端に痩せ柄、髪は黒く長く、ベッドの上でこれを書いているというわけだ、ああ、僕はまさに天才と呼ばれるのには適している! 重要な、僕の文はというと? まさか読んでいないなどとは言わせない、ふん、判断は今のところはまだ控えてくださいね、ああ、読め、読め、僕はあなたのことを嫌いじゃないんですよ、僕はあなたに期待しているからこそ、こんなお願いをしようとこの手紙を書くのです、ねぇ、僕が小説を書いたら、僕を、どこかの編集部に紹介して、雑誌に乗せる手はずを整えてくれませんか? もしもあなたが天才を信じているのなら、もしもあなたが本当に小説に期待しているのなら、ということですがね、どうですか、あなたのはやっぱり偽物ですか? それともこの僕の方がもう何の疑いようもなくただの凡人ということなのでしょうか? それなら僕の友人は? 久保という子なんだけど、まさか読んでさえいないと? それでなにがわかるんだ! あああんたたちはひどく偽善的ですよ、あんたらは、その、城とも呼べない、みすぼらしい、役所じみた、文壇というやつを必死に守っているようだけど、あああんたらの中に、天才などひとりもいやしない、もしも、ねぇ、あんたたちが本当に文学を好きだというのなら、どうにかしてください、この僕は、僕は今十七歳で、これが僕の最初で最後の歳なのだということをひしひしと感じている、ああ、こんな修辞がなんになる? もしも僕を招いてくださるのであれば、僕はいくらでもあんたら好みの美辞麗句をその雑誌の上に並べ立ててやります、天才のではなく、プロの文章を! ああ僕は、それとももっとキチガイにでもなって、あんたらのことなどすべて、破壊してやってもいいのだ、ツァラ風に言うなら、い、ろ、は、と一、二、三、の爆発ですよ、ふふふふん、あんたらはもう終わりだ、小説は、僕がそのすべてだ、今のところはね、僕はいつでもそれを譲り渡すでしょう、僕は天才を見れば、そいつにすべてをね、だからあんたもそうするべきなのです、そして今回の場合は、まあ僕の方がずっと天才だった、という、それだけのことなのです。あなたは小説よりもあなたのことが大切というの? ああ、本当にそれを言ってしまう気ではないでしょ? 本当に、言うかどうか、今一度、あなたは、考えるべきだ、それは最後の、あんたにとってはそうでなくとも、ああ老人を生かす管など、病院に行けばいくらでも見つかる、とは言え僕にとっては一縷の蜘蛛の糸かもしれない、もしもあんたがそれを切るなら、好きにしな、それでも、あんたは痛みくらいは、感じているべきなのだ、あんたが知らんぷりをするというのは、僕にとってはあまりにも辛すぎることなのだし、ああ、あんたもやはり、醜いシステムの方なのですか? それじゃ生まれたときからの罪人であるこの僕の、上りゆく先は断頭台ということですか? ああ僕はただあなたにお願いをしているのです、どうか、僕を……
*
そのとき、控えめな手がガラガラと保健室のドアを開けたのだ。僕は、カーテンの奥に透けるそのシルエット、音符みたいなそのポニーテールと、シャープな横顔! とその足取りの、気後れした飼い犬のような具合だけでもう、それがひよりなのだということに気づいた。僕は、カーテンから顔を出すと先生のような口調でふざけて、
「症状をそこの紙に記入してくださいね」
ひよりは僕に気がつくと、え~と言いながらにっこりと笑い崩れた。僕はベッドの上に胡坐をかくと、手紙をズボンのポケットに入れた。
「それとも看病しに来てくれたの? 何か伝言でもあった?」
「違うよ、違う」
「あんたも、それじゃあ、サボりだ」
ひよりは向こうのベッドに腰を下ろした。
「そんなに次の授業が憂鬱だった? なんの科目?」
「体育、私どうせ怪我してるから」
「ああ、そういうこと」
「ね! 朝、久保君と一緒に呼び出されてたでしょ? なんの話だったの?」
「さあね、課題が、どうたら」
「ふ~ん」
「ふ~ん? なにさ、退屈そうな言い方して」
「別に~」
「ああそう、ああ、ねぇ、ひより? これ以上お喋りするんなら、外に出ない? 体育なんでしょ、このままそっと教室に戻って鞄を取って来なよ、今日は早く帰ろう」
「でも、怒られちゃうでしょ?」
「俺は怒られたことないよ」
「葉子君は違うじゃん」
「いいや、怒られるものに幸あれ、だよ、俺より幸福な人。今となってはどうでもいいけど、ねぇ、いこうよ、こんなところにいるとうずうずして居ても立っても居られないというかさ、とにかく早く外に出て、あんたがそこにいるんなら中途半端に考えたりするようなことから抜け出したいよ、知ってる? ひよりといると俺、変なことばっかり言っちゃう、さあ、早く、誰かに伝えればそれでいいさ、それとも先生に、これを渡しなよ、下手な風邪の真似でもしながらね」
そして僕は、保険医の代わりに診断書を書いてやってひよりに渡した。ひよりはそれを受け取ると渋々部屋を出て行った。
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