紅葉へ
野志浪
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午後三時、待ち合わせの時間ちょうどに到着した私は、電車から降りるとすぐに改札を出た。駅はさほど人混みがなく、すぐに彼女を見つけられた。
「ごめん、ぴったりの電車しかなかったんだ。」
「いいよ、ぴったりなんだから。」
そう言ってくすりと笑った彼女の顔は、昔と変わらなかったが、髪を伸ばしてまとめている様は、ずいぶんと大人びて見えた。
「他にも何人か誘ってみたんだけど、みんな仕事で来られないって。」
「そうか。けどまあ...せっかくだし、カフェでお茶でもしようか。」
ぎこちない提案だったが、彼女は快く頷くと、こっち、と言って先を歩き始めた。
大学進学とともに関東に移住した私は、そのまま東京で就職した。高校を卒業してからほとんど実家に帰らなかったため、今月は福井に出張だと聞いて、かつての同窓生たちに会えないか連絡を取ったのだ。しかし、この日に都合が付いたのは彼女だけだった。
「大島くん、変わってないねえ。」
彼女は上品に振り返った。
「ねえ、私はどう?昔と変わったかな?」
「どうかな...。あんまり変わらないかも。」
「えー...。ちょっと知的になったはずなんだけど。」
冗談っぽく笑う彼女につられて、私も表情を和らげた。
私はてっきり最寄りのカフェに案内してくれているのだと思ったが、さきほどからいくつかの店を素通りしている。通りは懐かしい風景が広がっているが、建物はかなり変わったところも多いようだ。
「ここ!私がいつも通ってる美容院。でも本屋さんは潰れちゃいました。」
彼女は急に立ち止まり、交差点に面する一角を指さした。
「えっ、そうだよな。ここ、本屋だったよ昔は。俺、参考書とか買ってたもん。」
「残念だったね、ガリ勉くん。今は私の安らぎの場です。」
高校生のとき、彼女はあまり勉学に熱心な方ではなかったので、堅苦しい本が多かったあの店には、あまり縁がなかったのだろう。私は受験期に足繁く通っていたので、少しさみしい気持ちになった。
「でもほら、パン屋さんはまだあるよ。塩あんクロ、今も変わらず大人気!」
塩あんクロとは、当時クラスの間で話題になった、中にあんこがぎっしり入っている塩パンのクロワッサンである。部活動が終わった時間にダッシュして、ギリギリ残っているかどうかという名物だ。購入できたその日の勝者は、店内にある窓際のテーブル席でニヤニヤしながらスイーツタイムを愉しむのがお決まりである。
「なあ、今日はあの店でいいんじゃないの?どこまで歩いていくつもりなんだよ。」
「ダメー。せっかくだから、大島くんに今の町並みを紹介しようと思って歩いてるんだよ。駅二つ分、散歩してもらいます。」
どうやら、ノープランだった私への気遣いらしい。その後も、ここは懐かしい、ここは変わってしまったなどと語り合いながら、私達は高校時代の思い出を共に振り返った。こうして当時の同窓生と話していると、まるで自分が忘れていたできごとまで、次々と記憶の底から甦ってくるようだった。
そうして四十分ほど歩いたころ、目的地だったらしいカフェにたどり着いた。私達はそれぞれコーヒーを注文すると、二人席に対面で座った。
「どう?懐かしかったでしょ?東京の毒をデトックスできた?」
「毒って何だよ。東京のイメージどうなってんの。」
彼女はクスクスと笑う。
「東京ってさ、ケバケバのお姉さんとかいっぱいいそうじゃんか。そういう毒が溜まってるかなって。」
「一ミリも摂取してないよ...。」
「なんだ、やっぱり相変わらずガリ勉くんだね。」
そう、私は華の関東で大学デビューを果たすも、ずっと変わらずに堅物を貫いていた。高校時代に私をガリ勉と呼んだのは彼女だけだったが、大学では友人全員の間で代名詞となった。
「...あとちょっとのところなんだ。今回の出張でいい記事が書ければ、ディレクターに認めてもらえるかもしれない。あの人にお墨付きをもらえれば、来年のワールドコンペに出場させてもらえるはずなんだよ。そしたら次は、海外にも足がかりができる...。」
熱いコーヒーを火傷しないようにゆっくりと飲みながら、彼女はじっと私の話を聞いていた。
「俺は、海外に行ってみたい。そこで仕事をしてみたい。島国の片田舎で育った俺が、世界でどこまで通用するのか、世界にとってどれほどの存在になれるのか、知りたいんだ。」
彼女はコーヒーカップを丁寧に置いた。
「すごいね。」
とても静かで、穏やかな声だった。
「私はそんなこと、考えたこともないよ。私は毎日少しずつ頑張って働いて、お給料で美味しいもの食べたり、かわいい服を買ったりするのが幸せだとずっと思ってたから...。」
「そうか。」
「大島くんの未来はきっと、無限に広がってるんだよ。一生かけても私の手が届かないくらい、ずっと遠いところまで...。」
彼女はそのまま黙って、窓の外を向いてしまった。彼女が付けている小さなイヤリングが揺れ、私はそれから視線をそらすために、同じように外を見つめた。
無限に広がっている...のだろうか。私の人生は、いつも何かに渇いていた。その分からない何かを求めて東京へ飛び出したが、結局幾度となく挫折を味わった。そんな折、私の人生には、一つ、選択を誤った出来事があったのではないかと思い至ったことがある。それは...。
「もみじまつり...」
彼女は外を眺めたまま呟いた。
「えっ?」
私が心を見透かされたのかと思い、驚いて聞き返すと、彼女はこちらに顔を向けなおした。
「もみじまつりだよ。西山公園の。二年生のとき、一緒に行ったの覚えてない?」
「ああ、いや、覚えてるよ。俺も今、そのときのことを思い出してたんだ。」
「『この景色を...一生忘れない...』って言ってたもんね。」
「やめろ恥ずかしい。」
「今年もやってるよ。せっかくだし、今から行こうよ。」
彼女はコーヒーを飲み干すと、コートを羽織りはじめた。私は慌てて立ち上がり、彼女の後をついて店を出た。
店から歩いて10分、秋の夕闇がせまるころ、私達は西山公園の入口に着いた。入る前から、既に色鮮やかな紅葉が煌々と茂っているのが見える。このあたりは、駅前と比べて人も賑わっていた。
「おおー!やっぱり私はもみじを見に来ないと始まらないね!」
「まあ、ご自分の名前ですからね...」
「そう!さっそく行こう!」
スキップでも始めそうな足取りでどんどん先へ行ってしまう彼女の後ろ姿を見て、私は高校二年の秋を思い出していた。文化祭の前日、劇で使用する小道具の補修作業を任されていた私達二人は、塩あんクロの徒競走にも間に合わず、この時間に下校することになった。そのまま参考書を買うため本屋に向かおうとした私を彼女の気まぐれが引き止め、一緒にもみじを見に行くことになったのだ。補修作業の間も本屋が閉まる時間のことばかり考えていた私は、ため息がてらついて行ったつもりだったが、あの楽しそうな足取りを見ていると、何だか参考書のことなんて忘れてしまっていた。
そんな想い出に耽っていると、彼女が振り返った。
「遅いよ!もうすぐライトアップの時間だから、早くいい場所取らないと!」
「はいはい、変わりませんなあ...。」
公園は、そこら中が秋の美しさで溢れかえっている。町並みは少しずつ変わっていっても、この美しさだけは、いつまでも変わりはしない。
私達は、一面のもみじを見渡せる池のほとりにたどり着いた。
「ここって、あのときと同じ場所じゃないか。」
「そう、結局ここが一番いいの。池にももみじがたくさん映って綺麗だよ。」
ライトアップまであと数分。あのとき、私はこの場所で選択を誤ったのだろうか。彼女に伝えるべき言葉を間違えたのだろうか。ガリ勉で、堅物で、いつも何かに渇いている、この人生を大きく変えることができたはずなのは、この一瞬だったのだろうか。
「大島くんはさ、すごいよ。」
彼女がカフェでの一時と同じように、私の顔を見ずに呟いた。
「自分の夢に向かって、ずっとひたむきで...。きっと、大きなものを手に入れる人は、そうやって生きていけるんだと思う。私みたいに小さな幸せを探して毎日を暮らしている人には見えないような、もっとすごいものを見つけられるんだよ、大島くんは。」
周囲の人混みが騒々しくなってきた。
「でも......。」
彼女が言った瞬間、あたりがわっと声を上げた。公園の夕闇が、鏡面の池水が、そこに映し出される紅い命の欠片たちが、一斉に照らし出された。私は言葉を失った。
「参考書を買うより、こっちの方が良かったでしょ?」
かつてと同じセリフでこちらを向いた彼女の顔は、あのときと全く同じ面影だった。
私は......私はずっと、平凡な暮らしに恐怖していたのだ。田舎で育ち、平凡な恋愛をし、平凡な家庭を持ち、平凡な人生を全うする。そんな将来に怯えていた。人とは違う何者かになるために、それらを自分から遠ざけなければならなかった。だがそれでも、たったこの一瞬、見てはならない大切な甘い夢を見たことだけは、心の奥でずっと忘れないようにしようと、私はあの言葉を言ったのだ。
もしやり直しができるというのなら、今ここで、あの日の代わりに私は何を言えばいいだろう。変わってしまった本屋、変わらない塩あんクロ。今、私はここで...。
「うちの子が大きくなったら、見せてあげたいな...。」
そう、彼女が言った。私は我に返った。
彼女は彼女自身の、大きなものを見つけられる人には決して見つけられない小さな幸せを、手に入れたのだ。彼女はもう、私達二人の道が二度と交わらないことを悟っていた。
「紅葉...。」
私は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺はこの景色を一生忘れない。」
鮮やかなもみじの葉が一枚、池の水面に落ちた。
紅葉へ 野志浪 @yashirou
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