第21話『愛していました。』
自身は何者にもなれないと悟ってしまったのは、一体いつからだったか。
幼い頃。海の水が何故塩辛いのか、上空に広がる空が何故青いのか、鳥はどうやって飛んでいるのか。そんな疑問ばかりが浮かんでいた幼い頃は、自分が何者にもなれない、なんて事を考えることはなくて。
それどころかあの頃の私は、パン屋さんになりたい、お花屋さんになりたい、プリキュアになりたい、と。多くの夢を声高々に宣言していて、自分という存在は何者にもなれると本気で思っていた。
あぁ、あの頃は本当に良かった。夢を夢のまま、口に出せて、叶えられると思えていたから。語るその夢は日によってバラバラであったけれど、それでも良かった。あやふやで曖昧な未来を純粋に思い描けるあの頃が。懐かしくて、羨ましくて。今でもどこか、心の奥底で恋焦がれていた。
「……そんな、こと」
「無いと言いきれますか? 本当に?」
世の中には大人になっても夢を思い描き、夢を掴むため駆け抜ける人がいるらしい。
彼らは彼らを馬鹿にする人の戯言など全て振り切って、ただただ真剣に、真っ直ぐに、走っている。目指すその山がどれほど高く、どれほど険しくとも。その山の頂から見える素晴らしき世界を見るために、彼らは足を止めることはない。転んで、跪いて、泥だらけのボロボロになろうとも。夢を持った彼らは駆け続ける。そしてその結果、彼らは輝く。煌々と眩く輝く光となって、彼らは新たに駆け始めた夢追い人の目指す先になるのだ。
「ずっと……ずっとあたしは分かってましたよ。先輩があたしに羨ましく思っていた事」
「ちがう……ちが、う」
彼女もまた、夢を思い描き、夢を掴むために大きく走って、夢を手にした人だった。困難を一人で乗り越え、光になった人。彼女は多くの人間の夢となり、目指す先となり、光となった。誰かの、何者かになった。
「先輩もやりたいと思っていたんですよね? いいなって思ってましたよね?」
「違う、違うってば」
「何が違うっていうんですか。何も違うことなんてない。先輩はわかってないだけ」
彼女が眩しかった。とにかく眩しかった。光である彼女は暖かくて、その暖かさを求めて欲深く手を伸ばしていたけれど、でもやっぱり眩しかった。眩しくて仕方なかった。求めているはずなのに、その眩しさに恐れていた。いつしか、透明な自分は彼女の光によって本当にいなくなってしまうんじゃないか。そんな危惧をしていた。
「先輩は、先輩がいつもあたしにどんな目を向けているのか、知らない。先輩は、先輩がいつもあたしの前でどんな顔をしているのか、知らない。先輩は、先輩がいつもあたしに言葉をかける時どんな声をしているのか、知らない」
彼女は遠くへ行ってしまった。私を追いかけ、私のすぐ側にいた彼女は、その足で私の手の届かぬ遠く彼方まで行ってしまった。光となった。……いや、彼女は最初から光だった。だからこそ、目を話した隙に遠くへ行ってしまった。光の速さで。決して私じゃどれだけ手を伸ばしても、どれだけ走っても、辿り着けないその場所へ。
「自分の気持ちと向き合ってくださいよ。逃げないで。逃げようとしないで。自分をちゃんと見てください」
「逃げて、なんか」
羨んでなどいない。憧れてなどいない。逃げてなどない。違う。違う。違う。私はちゃんと私のことが見れている。だから、彼女から少しだけ離れたのだ。私は何者にもなれない。走っても走っても、彼女の隣に立つことはできない。それどころか足掻けば足掻くだけ、彼女の光が屈折してしまう。そう、ちゃんと理解しているから。
「……泣きそうな顔で言われても、説得力無いんですよ」
「……えっ」
「さっきからずっと……先輩、泣きそう」
自身は何者にもなれないと悟ってしまったのは、一体いつからだったか。
幼い頃に描けていた夢を、いつの日か想うことすら出来なくなった。パン屋さんになりたい、お花屋さんになりたい、プリキュアになりたい。確かにあの頃の私は、夢を持てていたはずなのに。一体いつから、私は夢を見ることすら出来なくなったのだろう。
「ねぇ、本当のことを言ってくださいよ。本心を教えてください。カッコつけないでください」
「せい……な」
「何をそんなに怖がっているんですか? 何が貴方をそこまで追い込んでいるんですか? あたしに、教えてくださいよ」
さめざめと涙が流れる潤んだ目が、私を捉えて離さない。私に問いかける声音は甘く優しく、慈愛の熱が孕んでいる。そっと私の頬に添えられた彼女の掌は少しだけ冷たくて、彼女の親指がするりと目元をなぞった瞬間ぞくりと肌が粟立った。
「貴方のやりたいことは何ですか? 貴方は何になりたいんですか? 貴方の心の奥底にある本当の気持ちは何ですか?」
私のやりたいことは何だったか。私は何になりたかったのだろうか。私の心の奥底にある本当の気持ちは——
——私だって本当は、何かに……何者かに、なりたかった。
「っ!」
思わず大きく後退りをして、彼女から離れたのは私が馬鹿で愚かで弱虫な人間だったから。見て見ぬふりをして、気づかないふりをして、最初から無いものとして隠していた本心が、彼女の手によって露わにされたから。隠したまま忘れていた想いを彼女が暴いてしまったから。私の一番繊細で柔い所を彼女の指先が触れてしまったから。だから私は、途轍もなく、怖くなって。
「先輩……?」
「はっ……は、はぁっ……」
そうだ。そうさ。私は羨んでいたのだ。私は憧れていたのだ。どうしようもなく彼女に羨望していた。多くの人に愛される人になった事も、穢れなき光となって人々の夢になった事も、その夢に向かって自らの足で駆け抜けた事も。私は全部全部、羨ましくて堪らなかった。それは紛れもない、私の中心で悲痛に叫んでいた本当の想いだった。
「っ、はぁあっ、は……はぁ」
「ねぇ、先輩? ねぇ? ちょっと」
「はっはっ……っは」
その想いを隠したのは何歳の頃? 夢に手を伸ばすことを諦めたのはいくつの頃? 自分は何にもなれない、誰の何者にもなれないって考えて始めたのは? 夢を追いかける人を羨んで、憧れて、いいなって思っているくせに、何もしなくなったのは? そもそも何故私は、夢に伸ばす手を下ろして、夢から目を逸らして、夢すらも見失ってしまったんだっけ? そもそも何故私は、自分が何者かになれないと、思い始めたんだっけ? そもそも何故私は
お前は何者にもなれないよ
不意に頭の中で響いたその声が、曝け出された私の想いを再び心の奥底に押し込んだ。
「あ」
私の短い音が、静まった部屋の中で反響する。途端、狭まっていた視野がパッと晴れ、目の前にいる彼女がオロオロと混乱している事に気がついた。
「星奈」
「せん……ぱい?」
困惑した彼女の声。冷静な私の声。涙で輝く彼女の瞳に私が映る。ドクドクとうるさかった心臓が、落ち着きを取り戻す。ぐちゃぐちゃに掻き乱されていた思考回路が綺麗に整頓され、すっきりと澄んでいる。過剰なまでに込められていた身体の力がすぅっと抜け、私はゆっくりと深呼吸。突然豹変した私の様子に彼女は尚も戸惑ったまま。私は小さく、口を開く。
「私はね、ずっとずっと何者かになりたかった」
「……え?」
「アンタが言うように、星奈のこと憧れてた。羨ましく思ってた。いいなって、思ってた」
「先輩……」
「それは星奈がVtuberとして成功して、人気者になって、沢山の人から愛されるようになったって事に羨んでいるんじゃなくて。ただただ星奈が自分を疑う事なく、真っ新に輝く夢を願って、真っ直ぐに自分の夢に走って、そしてその夢を掴めたことに、羨ましく思ったの」
「……それって、どういう」
「私はね星奈、どれだけ夢を見て願っても、何者にもなれないんだ」
彼女の大きな瞳がより一層大きく瞠かれ、まん丸になる。
「私の、最初の夢はなんだったかな。パン屋さん? お花屋さん? それとも怪人と戦って街の人を救うプリキュア?」
「先輩……?」
「ちっちゃい頃は良かったな。だって、何も考える事なくパッと頭の中に浮かんだやりたいことを、口にすることができたから」
「ねぇ」
「そんでもって、自分が夢見たその未来を、絶対に叶えられるって信じて疑わなかった。頭の中じゃ私は美味しいパンを焼いていたし、綺麗な花を育てていたし、可愛く変身して怖い怪獣や怪人と戦ってた」
「先輩、ねぇ。一体何の話を」
「曖昧で、漠然としていて、無邪気で、楽しかった。根拠なく、自分は何者にもなれるって思ってたから。多分あの頃の私は、今の星奈みたいにキラキラ光っていたんだと思う」
「ねぇ、ねえってば」
「でも、今は違う」
私を呼んでいた彼女の声がぴたりと止み、代わりにスッと短く息を吸う音が聞こえた。
「だって私は、自分が何者かになれないって、わかってるから」
「それは」
「いくつの時からか、正確には覚えてないけど。ずっと母さんが、教えてくれていたから」
「え」
「私は、何にもなれないんだよ……って」
忘れたくても忘れられない日々の記憶が、私の脳内でフラッシュバック。まだ夢を見れていた子供の頃の私に向かい、あの人が放った一言。それはあの人の口癖でもあって、ずっと聞かされ続けていた忠告。私という人間は、何者にもなれない。夢を語るどころか、思い描くことすら許さなかったあの人の言葉が、今の私をたらしめる。
「ずっと嫌だった。母さんの、話を聞かず全部を否定するところが。嫌で私は逃げ出した。あの人のいない、私の知る人がいない所に逃げ出したの」
「…………」
「内心、あの人の側から離れたら自分は何者かになれるんじゃないかって、思ってたのかな。だけど、やっぱりあの人は私の母親で。あの人の言ってたこと、その通りだなって実感したんだ」
「…………」
「結局家から逃げてこの場所に来ても、私は変わらなかった。何者にもなれなかった。夢を見ることができなかった。何者かになろうとしても、足が動かなくて。夢を見ようとしても、自分の夢が何なのかわからなくなったの」
「…………」
「そして、気づいた。あの人の言う通り、私は何者にもなれない。夢を見ることすら出来ない。私は、空っぽだから」
彼女に隠していた事を吐露する私に、彼女は何も言わない。静かに耳を傾け、私の贖罪を聞き入る。いや、もしかしたら言葉を失っていたのかもしれない。何故だか彼女はすごくすごく傷付いた顔をしていて、再び流れ始めた涙の粒が音も無く宙を舞ったから。
「空っぽの私は何者にもなれない。空っぽの私は何者でもない。今ここにいる私は、アンタが好きになった私じゃない」
「っ! なんで、そんな!」
「だってアンタが好きになったのは、ヒーローみたいな私でしょ?」
刹那、二人きりの部屋にヒヤリと冷たい風が舞い込んだ。音が消え、時間が止まり、そして何かが崩れ落ちる。ガラガラと。もしくはプツンと。私達を繋いでいた見えない糸が、千切れた。
「私はヒーローなんかじゃない。星奈が好きになったヒーローはここにいない。私は、全部が嫌になって逃げ出した卑怯者。逃げたのに何者にもなれなかった臆病者。その癖一丁前に星奈に憧れて、羨む愚か者。そんな私が、ヒーローなわけない」
「ちが、違う! 先輩はそれでも!」
「身の程を知れって話だよね。何者にもなれない、ヒーローじゃないって分かってるのに、私はずっとアンタに縋ってる。アンタのそばに居続けてる。私のことをヒーローだって言ってくれるアンタの言葉が心地良くて、もう少しもう少しって、先延ばしにしてた」
「ねぇ! 先輩! 聞いて! 聞いてよあたしの話!」
「でも、あーあ、その所為で星奈は、傷ついた。星奈を傷つけちゃった。星奈に泥を塗っちゃった。私の所為だね。ごめんね、ごめんね。本当に、あぁ」
「やだ! ねぇ! ねぇってば!」
「私が早く覚悟を決めていればよかったのに。私が優柔不断だったから。その所為で星奈は……」
「先輩!」
彼女の苦痛に満ちた声が鼓膜を突く。私はしっかりと息を吸って、吐き出した後、彼女の目をじっと見つめた。
「私に付き合わせてごめんね星奈」
「ひゅっ」
「終わりにしよう、星奈」
「ぁ……まって、まって…………待って!」
「今まで、ありがとう」
私は、笑う。
「愛してるよ、星奈」
私、人気Vtuberの彼女してます〜配信の切り忘れにはご注意を〜 終夜こなた @yosugarakonata
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