第20話『そしてバレるは二つの罪』

 バーチャルYouTuberとは、ここ数年で目を瞠る程の成長を見せて、日本どころか全世界が注目するデジタルコンテンツだ。新たな身体を動かし、雑談ないしゲームのプレイ風景を配信する彼ら。その数は優に一万人を超え、日々YouTubeというプラットフォームで彼らは人々を楽しませている。

 私の恋人である桐崎星奈もそのうちの一人。星屑セナという新しい身体を持ち、日々配信で人々を笑顔にしている。

 懸命な努力によって磨かれた技術と、持ち前の明るい性格で彼女は多くの人々から愛され、個人で活動し始め二年程が経過した現在、彼女のチャンネルの登録者数は五十万人。驚異の数字だ。彼女の途方も無い頑張りは報われた。彼女は自分の手で、その境地まで辿り着いたのだ。


「……えっ? 今、なんて」

「……今後私は、配信者にはならないし星奈の配信には出ないよ」

「……な、なんで」


 先程までにこやかに破顔していた彼女の顔が、一気に薄暗く曇ったのがわかった。その大きくてまんまるな目を更に大きくさせ、困惑の表情をありありとわかりやすく見せる彼女。一体何を言っているのか、本気でわかっていない彼女の態度に、私はグッと締め付けられる胸の痛みを自覚しながら、そっと目を逸らす。


「色々だよ。色々理由があって、私は配信に出ないことにした」

「なんですかそれ……。色々ってなんですか。なんで、そんな」

「色々は色々だよ。私は配信に出ることも配信者になることも向いていないと思うし」

「あたしはそうは思いません」


 珍しく、私の声に被せて言い切る彼女は、視界の端でじっと私を見ていた。いつも通りの、変わらぬ真っ直ぐな眼差し。誰かといる時、彼女はちゃんと目を見て話す。その茶の色が混じった黒の瞳に相手を映して、心の裏側までも覗いているかの如く。私はそんな彼女の、人として誠実な部分が好きだったけれど、今だけはどうにも……怖くて堪らなくなった。


「あたしは、だって、ずっと、言ってる。先輩は配信者、に、向いてるって」

「私もずっと言ってるよ。私にはそういうの向いてないって」

「っなんであなたは、そんなっ!」


 彼女は泣きそうな声をしていた。くしゃっと顔を顰め、言葉を捻り出し、尚も私から視線を外さない彼女。対し、私はどうか。私を見てくれる彼女の目を怖がり、ひっそりと逸らした顔に浮かべるは無表情だ。喜怒哀楽、その全てを映さない私はじっと押し黙って。彼女の必死な問いかけに、答えることはない。


「……わからないです、あたしには」

「…………」

「なんでって聞いたら、色々って曖昧に答えて。やらない、やりたくない本当の理由も、教えてくれない」

「だから、向いてないからって言ってるじゃん」

「違う……違います。そんなの、絶対……」


 彼女の長く細く色白な手が、ぎゅうっと服に皺を作る。噛み締められた唇が歪んで、眉根を顰めた彼女がやっぱりその真っ直ぐすぎる目を私に向けていた。

 陽の光が屈折することなく地上に降り注ぐみたいに。カッと当てられた彼女と言う光が、しかし透明な私に届いていない。影を落とすことなく通り抜け、彼女が見るは私の偶像。

 そうとも、彼女が今見ているのは汚い私なんかじゃなくて、私とは正反対の虚像だ。私と言う透明な何かが見せる、ヒーローな私。彼女はずっと、そんな私を見ていたんだ。

 そんな酷い事を……実像の私は、考える。


「何も違わないよ」

「…………何故そんな意固地になるんですか。何が貴方をそこまで責めているんですか」

「……別に何がってことは、ない。ただ私は自分が配信者とかそういうの、本当に向いてないって思ってるから、やらないって言ってるだけ」

「嘘ですよ。嘘。そんなの嘘。こんな時に嘘つかないでください」

「嘘なんてついてないから。本当の事だよ」


 平行線の会話だ。そう思う。互いが互いに、自らの主張を譲らぬ埒が明かない話し合い。いや、そもそも今この瞬間繰り広げているこれを話し合いとは言わない。優しい彼女は話し合いをしようとしているけど、邪知深い私は彼女の優しさすら突き放しているから。

 彼女が言う通り、意固地になって相手の意見を一切受け入れず、そのくせのらりくらりと私は本音も語らない。彼女へ話すべき事を無責任に隠し、自分の意見だけを曲げずに貫き通して、私は彼女からずっとずっと目を逸らし続けている。それは今の話であり……そしてそれは、私が認めたくなかった今までの話だ。

 誠実な彼女とは相反し、誠実さに欠ける私。蛙の子は蛙で、血は争えない。結局のところ、私はあの人の娘で。この場に立つ私を傍観している私が、嘲笑し囁くのだ。なんだ、お前はあの人にそっくりじゃないか、と。


「……それ、本気で言ってるんですか?」

「そうだよ。なんで疑うのさ」


 私は軽く笑う。いつものように。この会話が何でもない事かのように。ただのちょっとした雑談かのように。偽り、隠し、繕って、私は笑う。

 向けられた目線と、向けられた声と、向けられた想いに、わからないフリをして。

 嘆く本音と、燻る後悔と、怖がる意識に、知らないフリをして。

 私は笑う。強張った面持ちの彼女の目の前で、私は苦笑の声を吐く。うっそりと口角を上げ、瞼を細め、歯を見せる。無意識的に行っていた私の笑い方。苦笑いが染み付いた身体は私のものであるから、最も簡単に出すことのできる笑い方を私はした。


「っ……疑うに決まってるでしょ。あたしが何年、貴方を見てきたと思っているんですか。私は貴方のことをよく知ってる。私は貴方のことをよくわかってる」

「……星奈はわかってないよ」

「それは貴方が何も喋ってくれないからでしょ!」


 私の笑みに、彼女は傷ついた顔をした。私の言葉に、彼女は傷ついた声を出した。夜半の静寂を真っ二つに切り裂く彼女の絶叫が、部屋を揺らす。

 瞬間、彼女の細められた目からはらり、雫が落ちた。


「っ」


 ドクン。心臓が跳ねる音。キュッ。喉が閉まった。ヒュッ。情けない息が漏れる。

 目の前、彼女が音もなく涙を流す。粒の大きな涙が溢れたかと思えば、何粒も何粒もボロボロと彼女の頬を伝い、顎先から重力のままに落ちた。ポタリ、ポタリ。部屋の明かりで煌めき、それはゆっくりと宙を舞う。時間の遅くなった世界で、雫が彼女の服にシミを作るまでの一部始終を、私は見てしまった。


「……あ」


 私の素っ頓狂な声が部屋の中で響いた。

 ハラリ、ハラリ。いつの日か見た、桜舞い散るあの時の彼女が脳内でパッと光って咲く。思い出の中の彼女は、苦しそうで、寂しそうで、だけどこの世の者とは思えない程に綺麗で。私の名前を呼びたいと言ってくれた彼女は、笑顔が似合う人で、でも泣き顔すら彼女を光たらしめる美しさになっていて。

 私は彼女の笑顔が好きだった。真ん丸な大きな目を目一杯細くし、白い歯を見せて、無邪気な子どもみたいに笑う姿が好きだった。時折その屈託ない破顔の眩さに目が眩むことがあったが、それでも好きだった。その笑顔を自分に向けられている事実に、心が震えた。彼女にはずっとずっと笑っていて欲しい。なんて、キザっぽい事を願ってしまう程に。

 でも、しかし、あぁ。そんな事を願っていたはずなのに、どういうわけか。今、私の前にいる彼女は笑うどころか泣いていて。その泣き方は憂いを帯び、切なく、悲痛で、痛々しくて。記憶の中のものと似ているようで、確実に違う涕涙。私は呆然と、ハラリハラリ声も上げずに落涙する彼女を見つめることしかできない。


「星奈……」

「…………」


 一寸の狂いなく私を射抜いていた彼女の視線が、初めてそっと逸らされた。何かから耐えるように俯き、グッと服を握り込む彼女。呼び慣れた名を口にしても、彼女が応えることはない。時計の針だけが鳴り続ける部屋の、居心地の悪い静謐が私の身体に纏わり付いた。


「……わかってるんですよ」

「え」

「わかってる。全部、知ってるんです、あたしは」


 どれほどの時間が経ったのか。数秒であったのか、はたまた数分であったのか、数時間だったのか。短くもあり、それでいて途方もなく長い時間のようにも思えた沈黙の時間は、彼女のよく通る震えた声によって破られた。


「知らないと思っていましたか? わからないと思っていましたか? 一体何があったのか、何が起こっているのか、何もわからない人間だと、思っていたんですか?」

「何、が」

「気づかないわけないでしょ。わからないわけないでしょ。知らないわけないでしょ。だってあたし、チャンネルを運用する配信主ですよ?」


 ドクン。心臓が跳ねる音。何度も何度も、身体の中心で喧しく響いている。それは命を繋ぐ音であり、本能が知らせる警告音。真っ白になりかけている頭の中で過ぎるは、予感だ。嫌な、予感。冷静さを保とうと必死な理性が悲鳴を上げ、その結果私の身体から冷や汗がとめどなく滲み流れる。閉まったままの喉がカラカラと渇き、声を出すどころか呼吸すらもままならなくなっていて。

 俯いていた彼女がゆっくりと顔を上げ、再びその目に私を映す。キラリと輝いた瞳の中で、間抜けな顔をした女が、私を見つめていた。


「あたし達の関係について、非難されたことくらい、知ってますよ」


 震えているはずなのに強い、彼女の言葉が言い放たれる。刹那、私は頭の中で渦巻いていた嫌な予感が無事的中したことを悟った。


「毎回、ちゃんとその日の配信を見返してるんです。それは例に漏れず、あの日の配信も。あの日コメント欄に流れた非難の言葉を、その言葉を先輩があたしに見せないようにしてくれた事を、あたしは知ってるんです」


 なんだ、バレていたのか。私が隠していたものを、彼女は疾っくの疾に知っていたのか。あぁ、確かに彼女が言うように知らないわけがなかったか。気づかないわけがなかったか。当たり前だ。星屑セナのことを、本人がわからないわけない。彼女はわからないフリをしてくれていただけ。私の罪は、最初から露呈していたんだ。


「でもそれを、あたしは責めたいわけじゃない。いいんです、このことは。寧ろ、嬉しかったとすら思ってる。貴方はあたしを想って、守ろうとしてくれた。そしてあたしは、あたしの事に先輩を巻き込んで、気を使わせてしまった。先輩は今、きっと罪悪感や自己嫌悪に駆られていると思いますが、その必要はない。先輩は何も悪くない」


 予測とは反して、涙ながらに与えられた彼女の甘い優しさ。恐らく本心で言っているのであろう彼女の赦しは、私から声を奪う。私が思っていた以上に、私のことを知る彼女。建前も、本音も、隠し事も、全て言い当てる彼女に対して、言い当てられた私はわからなくなる。彼女のことが。彼女が涙を流すその理由が。


「だから、あたしは、貴方に……自分の想いを殺させてしまった事が、悔しい」

「……私の、想い?」

「貴方自身はきっと、気づいていない。もしかしたら気づかないようにしているだけかもしれない。だけど、あたしは貴方のことを知っている。誰よりも知っている。貴方のことを、貴方以上に、知ってるんです」


 ドクン。心臓が跳ねる音。今日だけで何度、私の心は大きく脈打つのだろう。予感も予測も何もないと言うのに、また私の本能が警告音を鳴らしている。ドクドクと煩い鼓動が、くぐもった頭の中でずっとずっと響いている。次に、彼女の唇から溢れるであろう言葉に、恐れを抱いている。私以上に、私のことを知っていると言った彼女は、私の何を知っていると言うのか。彼女のその口を両手で塞いでしまいたくなったが、私の身体はいうことを聞かない。ピクリとも、動かなくて。耳に手を当てることも出来なくて。

 私に向けられた眼差し。溢れ落ち続ける涙。弱々しくも、力強く私の前にいる彼女が、やおらに口を開く。目が焼ける眩さの中、彼女の声が鮮明に鼓膜を突き抜けた。


「先輩が本当は、配信者であるあたしに憧れを持ってるって、知ってるんですよ」


 その瞬間、私の心臓は跳ねることなく。脈動すらなくなった私は、音と時間が過ぎ去った何もない空間に置いてけぼりにされた。

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