深潭から
翡翠
episode 1
杉山航は、暗い部屋でパソコンの画面をじっと見つめている。
翻訳作業が終わった後のこの時間だけが、彼にとって唯一の自由な時間だった。
窓から入る微かな月明かりが部屋の所々を照らす。
静かな夜の中、ただキーボードを叩く音だけが響く
それが彼の日常だった。
何もない空間に埋もれながら、インターネットという無限の世界に身を委ねる。
顔を合わせることのない相手とのやり取りは、彼にとって唯一の繋がりだった。
内面は常に「孤独」という言葉で満たされていた。
周囲に誰もいないことが、彼の心に棘が一定の周期で刺し続けていた。
家族とも疎遠、友人とも長らく会っていない日々が続いていた。
「人と触れ合うことが、こんなにも遠い存在になるなんて」
と、彼は自嘲気味に思う。
求めるのはただ「理解してくれる誰か」だった。
しかし、それを現実の世界で見つけるのは難しかった。
対面の会話や表情が彼には過剰に負担で、つい避けてしまう。
だから、彼はネット上の匿名の世界に逃げ込むようになった。
ある夜、翻訳の仕事を終えた杉山は、趣味の一つである文学やイラストに関するフォーラムを覗き込む。
そこは彼にとっての小さな安息の場であり、誰もが自由に自分の思いを語り合える場所だった。
ふと目に留まったのは、一つの鮮やかなイラストだった。幻想的な夜空を背景に、一本の木が孤独に立っている絵。
木の下には、どこか悲しげな少女が座っている。
その絵に、杉山はなぜか強く惹かれた。
「この絵を描いた人は、どんな気持ちで描いたのだろう」
と、無意識に思いを巡らせた。
いつもは他人の作品にコメントを残すことは少なかった。
しかしその絵には特別なフィーリングを感じ、ついコメントをした。
「この絵は、今の自分の心の中を描いたような気がしました」
と、一言だけ。
彼はそのままフォーラムを閉じ、ベッドに向かう。
しかし、布団にくるまりながらも、心の中でそのイラストが消えなかった。
孤独に佇む木と少女が、まるで自分自身の姿のようだった。運命だった。
彼の中で、その絵を描いた人物に対する興味が芽生え始めた。
「この人となら、何かを分かち合えるかもしれない」
と、淡い期待が胸に広がっていった。
翌朝、杉山がフォーラムを開くと、コメントに対して返事が届いていた。
それは「ありがとう」という短い言葉から始まっていたが、その後に続く言葉に彼は驚く。
「実は、あの絵は私自身の孤独を表現したものです。あなたがそれを感じ取ってくれて、とても嬉しいです。」
そのメッセージを読みながら、杉山は心の中に温かさを感じた。
自分の感情が誰かに届いたという感覚が、彼にとって新鮮だった。
「こんな風に、心を通わせることができるのか…」
と、しばらくその画面を見つめ続けた。
その後、杉山とそのイラストレーター、彩香との間でメッセージのやり取りが始まる。
最初は互いの作品や趣味について軽く話す程度だったが、次第に自分たちの内面や感情についても語り合うようになった。
彩香は、
「絵を描くことで、私は自分の感情を表現しています」と話し、
杉山もまた
「翻訳という仕事を通じて、言葉の裏にある意味を探るのが好きだ」と応じた。
二人は、それぞれが持つ孤独や内面的な世界を共有することで、次第に深い絆を感じ始めた。
杉山は自分の中で「孤独であること」と「他者と心を通わせること」の境界線に気づき始めた。
彼は「自分は本当に孤独なのか、それとも孤独でありたいだけなのか」と自問する。
彩香とのやり取りを通じて、彼の中にある心の扉が少しずつ開かれていくのを感じるが、
その一方で「自分自身を傷つけることへの恐怖」が彼を躊躇させる。
「本当にこのまま、誰かと心を通わせてもいいのだろうか」
という不安が彼の心を包み込む。
でも彩香との言葉のやり取りは彼にとって新たな光をもたらしつつあった。
彼は「言葉だけで繋がる関係」に少しずつ依存し始めていた。
彩香とのやり取りが自分にとってどれほどの意味を持っているのかを感じつつ、次第に彼女の存在が生活の一部となっていく。
しかし、彼の心の中には一抹の不安が残る。
「この繋がりは、本当に自分を救うものなのか?」
深潭から 翡翠 @hisui_may5
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