第2話 脱兎

 シャネは咄嗟に洞窟の出入り口を見た。


 松明の光で強調された暗闇の向こうから、うごめく影の群れが侵入してきた。影たちは黒を基調とした軍服に、これもまた黒を基調とした腕章を皆が付けていた。


「スーナ軍…どうして」


 スーナ軍はシャネに向かって弓を構えていた。先頭の一人が真横に腕を上げると、全員が一斉に弓を下ろした。先頭の男がシャネに問いかけた。


「生き残りはお前一人か」


「いきのこり…?」


 シャネはひどく混乱していた。父親が自分に施した感謝の儀式。父親の死。友好を結んでいるはずのスーナの軍が、弓を持って自分を取り囲んでいる不思議。全てがシャネの思考を大きく超越して進行している。


「助けて…助け…て…助けて…」


 先頭の男は舌打ちした。


「チッ、こいつはもう駄目だ、正気を失ってる。弓を構えろっ」


 男が命令すると、再び全員が弓を構えた。引き絞られ軋む弓の音が洞窟を満たす。シャネは焼き切れてしまいそうな脳をさらに稼働させて、男の発言の意味を考えた。


 『生き残りはお前一人か』 生き残り。私以外全員殺された。私以外の全員って?お父さんは死んだ。じゃあお母さんは。お母さんも?妹は?妹も殺されたの?おじいちゃんは、ミナおばさんは、ハリュは、サルホも、みんなみんな、死んじゃったってこと?


 シャネは胸の前で両手を合わせて強く握った。右の手の爪が左の手の甲にめりこみ、左の手の爪が右の手の甲にめりこむほど強く。


 男は腕を真上に上げた。そしてゆっくりと前へ下ろした。空気を切り裂く鋭い音が、全方位からシャネに迫った。


 瞬間、その場にいた全員の視界が暗転した。


 視界が戻ると、そこにいたはずの少女は姿を消していた。代わりに、そこには全身が影のように真っ黒で、細身の長身、頭から兎の耳のようなものが地面にまで垂れた、謎の生物が立っていた。手には放たれた無数の矢が握り折られていた。


 「だ、誰だお前はっ。全員、一斉に攻撃し…


 男が言い終わらないうちに、男の頭は刈り取られていた。兵士たちは謎の生物を前に錯乱し、弓を引き絞ってはろくに的を狙わずに放って、仲間内で撃ち合った。兎のような生物はその中を、一人一人丁寧に殺して回った。ときおり矢がその生物へと命中したが、刺さった矢を冷静に抜き取り地面に投げ捨てては、矢を放った人間を殺した。


 全てが終わったとき、洞窟内には死体と血液が散乱していた。視界がもう一度暗転し、また戻ったとき、少女は悲鳴を上げた。少女は洞窟から逃げ出した。


 自身の村へと少女は脱兎の如く走った。今さっき起こったことは全て悪い夢で、村に戻れば、父親や母親、親族に友達が、静かな寝息を立てていつもと同じく、これまでと同じく眠っているに違いない。シャネはそう思いながら、またはそう願いながら、木の根や、複雑に絡まり合った草に足を取られながらも、村を目指したのだった。

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祝福された僕等 山口夏人(やまぐちなつひと) @Abovousqueadmala

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