侵入
秀一は事務所の前に車を停め、空代希実と空代一子を順に運び出していった。空代希実にも空代一子と同様に睡眠薬を飲ませたため、両者ともに意識を失い死人のように眠っている。力の入っていない体はだらりと重く、秀一は運ぶのに苦労せざるを得なかった。
駅の近くというだけあり、事務所の前の人通りは夕方になると増える。だが拘束された彼女たちを秀一が運ぶ姿を、通行人に認識されることは無かった。
龍神は、空代家に向かう前に車内で秀一の体に呪句を書き込んでいた。その後急いで服を着直したため、秀一の着衣は乱れている。普段であればワイシャツの裾をズボンに入れている秀一だが、今は裾を出したままの状態だ。今の秀一には服装に気を回す余裕など無かった。
「さっさと事務所に運べ。そいつらに憑いてる分体を片付けねえといけねえからな」
「困りますね」
秀一が空代一子を抱えて事務所ビルの階段を上っている時、龍神の背後から声が響いた。
男がいた。グレーのスーツで全身を固め、柔和な笑みの中に獰猛な目付きを浮かべた男だ。銀縁の眼鏡がその目付きをより強調させている。
「彼女に手を出されると困るのです。彼女の平穏が乱されてしまう。契約に従い、私は彼女の平穏を守らなければならない。それを乱すあなたを退けねばなりませんが」
「あなた…とても強い。とても厄介だ。私が干渉に失敗したのは初めてでしたよ。ですが思った通り」
猿山は龍神に歪んだ笑みを向けた。
「ああ…なんて美味しそうな」
猿山の言葉に、龍神は舌打ちで応えた。龍神は守美に視線を向け、低い声で呟いた。
「おい、アレをやれ。弾なら大勢いるだろ」
「…龍神くんは?」
「質が違え。こいつが本体だろう。分体がある今、俺が本体を倒しても意味が無え」
龍神が猿山に睨みを利かせると、猿山の表情から笑みが消えた。二人には動きは無いが、立ち尽くした状態で静かな戦闘を繰り広げているのだと守美は悟った。
守美は駆け出し、大声で叫んだ。
「助けてください!あのグレーのスーツの男が襲ってきたんです!殺される!」
守美の叫びに、何人もの通行人が足を止めた。守美は彼らの手を握り、静かに“お願い”をした。
「私を助けて」
恍惚とした表情を浮かべた通行人たちは、弾かれたように駆け出し猿山に襲いかかった。
「行くぞ。時間稼ぎができりゃあいい」
龍神はその場を離れ、事務所ビルの階段を上っていった。守美も後に続いた。
龍神と守美が事務所の鍵を閉めると、ちょうど秀一が空代希美と空代一子の拘束を終えたところだった。彼女たちはロープで厳重に椅子に縛り付けられていた。
「龍神先輩…言われた通りに縛りましたけど…ここまでする必要あるんですか?」
「悪魔憑きが人間離れした力で暴れるって話があるだろ。脳のリミッターを外して、本人の限界を超えた力を出させるってこともできるらしい。細い女でも油断すんなよ」
龍神は後ろ手に拘束されたままの空代一子の左手に触れて動かし、空代一子の親指を他の指に握り込ませた。
「おん あにちや まりしえい そわか」
そう唱えると、龍神は空代一子の左手にそっと息を吹き込んだ。次いで右手で左手を覆わせた。
一連の動作が済むと、龍神は空代一子の口のガムテープを外し、声のトーンを一段落として言った。
「これで本体からお前への干渉はできねえ。いいか、これは空代一子じゃなくお前に言っている。質問に正直に答えろ。じゃねえと痛い目に遭うぞ」
「ふっ…ふふ……」
秀一は思わずぞっと身を震わせた。空代一子の喉からは、空代一子のものではない声が響いた。
悪魔の声なのだ、と秀一は悟った。
「お前の分体はこの2つだけか?他にもいるのか?」
「龍神さん」
地の底から響くような声が龍神の名を呼んだ。
「龍神総治さん。
悪魔の声は、ひどく愉しげな響きを孕んでいた。龍神は自身の情報について並べ立てられながらも、顔色ひとつ変える様子は無かった。
「知っていますよ。捻木秀一の記憶を読みましたからね。楽しいですか?人の役に立つのは。でもねえ、産女の時のあの所業。あなたなど悪人に変わりない。きっと地獄に堕ち」
「
龍神がそう唱えて空代一子の額に指を当てると、空代一子の形をした悪魔は呻き声を上げた。
「があああああああああああ!!!!」
「御託はいい」
「お…前…」
「もう一度聞くぞ。お前の分体はこの場の2つ以外にあるのか?」
龍神の声はぞっとするほど冷酷な響きを放っていた。本体からの干渉を防ぐために龍神が空代一子に憑いている分体にかけた術は、同時に一人にしか施せない。もう片方の分体がある以上、無駄な問答をする時間は龍神には無かった。
龍神を見て、悪魔より余程悪魔らしいと秀一は冷や汗を垂らした。
「…いいえ。他にはありませんよ」
「そうか。ならお前の本体はさっきここの前に来た男か?」
「…ええ」
「あれはお前の本体が人間に憑依しているのか?それとも本体そのものか?」
がちゃり、と事務所のドアノブが音を鳴らした。どんどんとドアを叩く音が断続的に響く。あの男がドアの先にいるのだと、守美と秀一は気づいた。
守美が窓から外の風景を見ると、先ほど守美が操った人々が何事も無かったかのように駅方面に向かって歩いていくのが見えた。
守美と秀一は、ドアを開けなければならないと感じた。なぜか、それが正しい行いのような気がした。そうだ。ここは客人を迎え入れる事務所なのだ。客人を外に待たせるのは失礼だ。そう考えた二人が、ふらふらとドアに向かって歩いていく。
「開けるな!」
龍神に一喝され、守美と秀一はぴたりと動きを止めた。
「た…龍神先輩…今のは…」
「さっきも言ったが、鍵のかかった部屋ってのは結界だ。中にいる奴に招かれねえ限り入って来られねえ。だが奴は人を操って鍵を開けさせる力を持つらしい。気を抜くんじゃねえぞ」
空代一子の口から悪魔の舌打ちが漏れた。
「で?質問に答えろ。お前の本体はあの男に憑いているのか?あれが本体そのものなのか?」
「…前者」
「あの男との関係は?」
「契約者…空代希実の前の」
「そうか。ありがとよ」
龍神は空代一子の額に、指で“妙”の字を書いた。
その瞬間、空代一子の体がびくりと跳ねた。悪魔の声で絶叫が響いた。
「ぎっ…ぐがあああああああああああ!!!!!!」
空代一子の体が強く揺れ、椅子に縛り付けられた体が椅子ごと倒れた。その後も数秒ほど暴れていたが、やがて動かなくなった。
「た…龍神先輩…これ…死…」
「死んでねえよ」
空代一子は大きく咳き込み、ひゅうひゅうとか細い息を吐いた。顔面は蒼白であったが、息はあるようだった。
「分体は思ったより簡単にぶっ殺せるな。さっさと娘のほうもやっちまおう」
龍神が空代希実に視線を向けた時、ドアの外からどさりという音が聞こえた。人が倒れたような音だった。
「…なんだ?」
その音を聞いた秀一の顔は、直後に驚愕に染まった。
ばつん、と音が響いた。
「…本体の体を捨てやがったな」
空代希実の体を縛っていたロープがぱらぱらと落ちた。目と口のテープが剥がされた。
拘束されていたはずの空代希実が、自由な身となって立ち上がっていた。
「結界を通るには、中にいる奴に招かれればいい。こうして体を奪われる可能性も危惧して睡眠薬を飲ませたんだが…筋弛緩作用も効果は無えか」
龍神は舌打ちを飛ばした。
「分体に本体を招かせて、分体と合流する形で侵入してきやがった」
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