追憶 ⑥
「秀一…
姉さんは俺を抱き締め、か細い声で繰り返した。何が大丈夫だって言うんだ。よくも奪ってくれたな。力なんか無くても、姉さんは困らないじゃないか。そんなもの抜きでも姉さんは特別じゃないか。
俺は姉さんを心の底から憎悪しつつも、激情を口に出すことはできなかった。ただ姉さんの腕の中で、声を押し殺して泣いていた。
姉さんに惚れていた男が犯人だと告げられた時も、ああやっぱりかと思っただけだ。姉さんはその男を唆して、父さんを殺させたのだ。母さんを殺して、人の好意を操る力を手に入れた後で。
憎々しい。忌々しい。気味が悪かった。両親を殺しておいて、俺の機会を奪っておいて、こいつは何を言っているのか。いっそ死んでしまえばいいとさえ思った。姉さんが生きている限り、俺の人生に光は射さないのだからと。
それからはしばらくの間、何の気力も湧かずに生きていた。家が燃えたので祖母の家で暮らすことになったが、ほとんど部屋から出ずに生きたまま死んだような暮らしをしていた。夜も眠れずに布団に包まりながら涙を流し、日が登っている間に浅い眠りに落ちるような生活だった。食事もあまり摂れず、体重が10kg近く落ちた。部活で鍛えた筋肉が削げたのだ。
姉さんは祖母の家には来ないで、村から出て東京で暮らすことにしたようだった。ありがたかった。俺は姉さんの顔も直視できないような精神状態だったから、あの頃に姉さんと暮らしていたら姉さんを殴っていたかもしれない。
ようやく精神が正常に戻ってきたのは家が燃えてから2年後のことだった。こうなれば自立し、志望の大学に行って自分の力で生活できるようになるしかない。そうして過去の呪縛から抜け出す以外に、俺には道が無いと思ったのだ。一念発起した俺は1年で高校3年分の勉強をして、高卒認定試験に受かった。大学受験にもだ。
晴れて大学生になり、東京で暮らすことになったのは良いが物件探しに難航した。東京の家賃は、故郷では考えられないほど高かった。あんなことがあったから、事故物件に住むなどもってのほかだった。
そんな折、姉さんから一緒に住まないかと誘いを受けた。姉さんは東京で探偵を始めていて、俺が受かった大学から近い場所に事務所を構えていた。手狭であったが大学に徒歩で向かえる点と、家賃が要らない点は魅力的だった。
姉さんと一緒に暮らすのは、正直なところ嫌だった。自分の力で東京の大学生になれたというのに、また姉さんの庇護下に置かれるのかという屈辱があった。だがその頃にはどうにか自分の感情に折り合いをつけられるようにはなっていたから、大学生のうちだけだと割り切って耐えることにした。姉さんの仕事の手伝いをたまにしつつ、大学生活にも慣れてきた大学2年の頃。龍神先輩と出会った。
「おい。お前…厄介なモンに手出したな?」
大学で龍神先輩が俺の肩に手を置いてきた時、叫び声を上げそうになった。黒の和装で顔面に入れ墨を入れている男が初対面でそんなことを言ってきたのだ。この男はヤクザに違いないと思い、俺はヤクザの関係者に何かしてしまったのだろうかと狼狽した。
「ここ最近、妙なことが起きてるだろ」
それは確かにあった。事務所は2階だというのに窓がノックされる音が昼夜問わず鳴り響いたり、水道水が乳のように白濁したり、街中で見知らぬ人に「あなたもお母さんの子どもになりませんか?」と声をかけられることが何度もあったりと。
姉さんの話では、不倫調査で変なものに遭遇したらしかった。お祓いにも行ったが、効果は無かった。
「姉貴のところに案内しろ。大したもんじゃねえが、祓わねえとお前らも被害者どもも一生そのままだぞ」
大したもんじゃねえ。その言葉通りに、龍神先輩は原因の怪異を何でもないことのように打ち破った。依頼人の夫は元通りになり、怪現象もぴたりと止んだ。
俺と姉さんは龍神先輩に感謝を告げたが、龍神先輩は終始姉さんに汚らわしいものを見るような視線を向けていた。
その理由は、俺にはわかっていた。
就活解禁の時期になると、周りの友達は次々と内定を獲得していった。やがて卒業間近になり、どこの企業にも内定が無いのは俺だけになった。どうしても、自分の売り出し方がわからなかったのだ。自分の内面に誇れるものなんて何一つも無いから、自己PRなんて上手く言えるはずもない。
そんな俺の薄っぺらさは面接官には筒抜けだったんだろう。俺を担当した面接官は、誰一人として俺を採用したい気持ちにはならなかったらしい。人の心を掴む力が俺にもあればと、どれほど思ったことか。
「心配するな秀一、私の事務所を手伝ってくれればいいじゃないか」
その日の面接も上手くいかず落ち込んでいた俺の肩を、姉さんは酒を飲みながら軽く叩いた。
確かに姉さんの事務所の経営は好調だ。下手な会社に就職するよりは安定した就職先と言えるかもしれない。姉さんは善意で言っていたのだろう。だが俺の心には、それ以外の道を掴めない自分への情けなさと、こんな俺の悩みなど生涯抱かないであろう姉さんへの嫉妬とが渦巻いていた。
完璧な姉さんには、誇れるものなんて山ほどあるだろう。人の心を掴むことも容易だろう。あの力があるんだから。いや、それが無かったとしても。
「…姉さん。母さんの力を…継いだんだよな?」
口が勝手に動いたかのようだった。気づけば俺の口からは、心の中に押し留めていた言葉が溢れ出していた。
姉さんは酔いが急激に冷めたかのような様子で目を見開いた。
「母さんに聞いたことがあるんだ。人の好意を無理やり引き出す力を持ってるって。自分が死んだら…その力は姉さんに引き継がれるんだって」
「…知って、いたのか…どこまでだ?」
絞り出すような声だった。姉さんは両手で酒の缶を持ったまま俯いてしまった。
「…いや、人に好意を抱かせるってそれだけだよ」
俺は努めて平静な声を作り、姉さんに問いかけた。
「…姉さんなら、そんな力無くても困らないだろ。元々、人に好かれやすいじゃないか。それなのにいつも依頼人に使ってるよな。姉さんに手を握られた人は、途端に姉さんに向ける目が変わるからわかるよ」
「まあ…確実性のためと安全性のためにな…」
「その力、無かったとしたら不便だった?」
姉さんは少し考え込んだ後、薄ら笑いを浮かべて言った。
「少し不便ではあるかもしれないが、無かったら無かったで別に構わないよ。そもそも、元々無かったものだしな。母の死で勝手に私に受け継がれたものという程度でしかない」
その答えに、頭がぎしりと軋んだ。爛れるような怨嗟が、全身を焼け尽くすようだった。
わかっていた。姉さんが俺を守るために力をその身に宿したことなんて。俺と父の会話を聞いていたか、親から話を聞いたか。どこからか俺が母の力を継ぐという話を聞きつけて、俺を早死にさせることを避けるために行動を起こしたんだろう。そうでなければ、あのタイミングで事件が起きるのは不自然だ。
余計なお世話だ。だって、姉さんにとってその力はその程度のものなんだろう。無くても構わないんだろう。だが俺にとっては縋る希望だった。ずっと特別な人間として生きてきた姉さんにはわからない。何も持たない人間が、どれほど惨めで息苦しいか。
「…秀一?どうした?」
「いや、姉さんは流石だなって。まあ、もしその力が無かったら姉さんが酒臭くて腹を立てる人もいるかもしれないしな」
「依頼人に会う前に酒を飲む日はたまにしか無いだろ!」
「たまにでもあったらダメだろ」
五臓六腑が妬けつくような激情に蓋をして、俺は笑みを浮かべた。こんな醜い嫉妬心を姉さんに悟られたくはなかった。子どもの頃からそうしてきたように、俺は感情を隠し込んだ。
妬ましい。憎々しい。忌々しい。胸を掻きむしりたくなった。
大学を卒業し、本格的に事務所の手伝いを始めて少し経った5月中旬。あの依頼が舞い込んできた。
ただの失踪ではない。依頼人の夫にまつわる記憶が誰の頭からも消されてしまったという異常な話。その話を聞いた時、俺の胸に仄暗い感情が芽生えた。
それが姉さんの推測通り、怪異によるものなのだとしたらどうだ。前回と同じく、下手に首を突っ込めば姉さんや俺も同じ目に遭うのではないか。消されてしまうのではないか。
いや、消してくれるのではないか。姉さんを。
そうだ。いっそ消えてしまえばいい。死んでしまえばいい。それで何もかも、終わりにしてくれればいい。
それで自分が消えるならそれでもいいと思った。とにかく、もう惨めな気持ちになりたくなかった。
だから、姉さんの背中を押した。依頼の調査をせずに突き返そうと言い出した時も、もっともらしいことを言って。また怪異に目を付けられてしまえと願いを込めて。俺の頼みなら姉さんは断れないことなんてわかっていたから。
怪異であるなら、あの神の寵愛を一身に受けたかのような姉さんの命にも手が届くだろう。お願いだから殺してくれ。俺の前から姉さんを消してくれ。どうか俺の心を楽にしてくれ。
…そう、思っていたはずなのに。
「死ぬぞ」
龍神先輩が姉さんにそう突きつけた時、俺は胸が締め付けられる感覚を抱いた。
姉さんが、死ぬ?
姉さんの寿命が縮んでしまったことは知っていた。姉さんの死が確かにあることはわかっていた。だがそれは20年以上も先の話だ。それほどの時間は待てないからと俺は姉さんの死を望んでいたはず。
だというのに。
事ここに至り、俺は愚鈍にも思い知ってしまった。
俺の存在を忘れることで、姉さんがこれほど憔悴することを知った。自分で思っていたよりずっと、俺は姉さんの人生の根幹にあることを知った。俺を失った姉さんは、ともすれば自ら死を選びかねないほど脆いことを知った。
その脆さの原因が、両親が死んだあの日にあることも察せられた。
なんてことだ。俺は姉さんの非凡さに焦がれ、完璧な姿ばかり幻視し、上っ面しか見ずに内面に目を向けようとしていなかったのだと突き付けられた。
上京した後、なぜ姉さんが酒に溺れたかなど考えもしなかった。姉さんを咎められることに仄かな嬉しさを抱いてさえいた。酒に逃避する理由なんて、精神面の不調しか無いだろうに。
憎い。妬ましい。姉さんさえ居なければと何度思ったことか。消えてくれ消えてくれと願った。それでも。それでも!
俺が焦がれたのは誰よりも強い姉さんだ。
こんなに弱い姉さんが死んでも、何も嬉しくない。
俺は歩きながら、龍神先輩に告げた。姉さんには俺の声が聞こえない今だから言えた。
「姉さんは、俺が守ります」
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