追憶 ⑤

 初めて姉さんに嫉妬を抱いたのはいつだったか。


 俺には姉さんより優れている点なんて何一つも無かった。姉さんは昔から頭脳明晰で、人形のように美しく、人当たりも良くて誰からも好かれていた。欠点なんて見当たらなかった。神に愛された人間というものが存在するなら、それはきっと姉さんを指す。

 俺は何をしても姉さんに敵わなかった。どんなに血反吐を吐く思いで勉強しても姉さんのように全教科満点なんて達成できなかった。家の壁に飾られていた俺の表彰状の中に、姉さんの表彰状より優れたものは一つも無かった。

 姉さんの異才ぶりは村では名高かった。大人たちは口々に姉さんを褒めそやした。だが、姉さんに比べて取り柄の無かった俺は後ろ指を指され続けた。姉は凄いのに弟は平凡だと。それがどんなに惨めだったか。

 特に顕著だったのは小学3年生の時の担任だ。姉さんを受け持ったことがあるというその担任は、姉弟ということで事あるごとに姉さんと俺を比較した。姉さんはもっと勉強ができたことなど、言われなくてもわかっていた。だが、最も頭に残っているのは褒められた時の言葉だ。その担任は社会のテストで90点を取った俺に、「さすがは捻木守美の弟だな」という褒め方をした。

 その時、幼い俺の中で何かがぽきりと折れた音がした。その後も他の人から、姉さんの弟だからという理由で努力の成果を片付けられたことが何度もあった。この先、何を成し遂げたとしても俺には“捻木守美の弟”という評価がついて回るのだろうか。そう思うと、10代の俺の胸には諦念に近いものが広がった。

 いつしか、自分が不良品のようにしか思えなくなった。村長として華々しく活躍する父と、四十路を超えても天女のような美しさを放つ母。そんな二人の子である姉さんは、才に溢れていて当然だ。あれが正しい形なんだ。自分の存在は間違いなんだと。

 「誰よりも秀でた人間に育つように」という願いを込めて父が名付けた“秀一”という名前さえ、俺には呪いにしか思えなくなった。何が誰よりも秀でた人間にだ。全ての面で俺より秀でた人がすぐ近くにいるじゃないかと。

 そんな名前を俺に付けた父にも、姉さんより劣った存在として俺を産んだ母にも憎悪を募らすようになった。親に怨嗟を向けなければ、心の均衡を保つことができなかった。



 内気な子どもだった俺は、小学生の時にいじめの標的にされたことがあった。いじめといっても陰湿なものではなく、ヤンチャな同級生たちに学校や通学路でプロレス技をかけられる類のものだ。だが、いじめられているなどと親や姉さんに相談することは幼稚なプライドが許さなかった。俺は一人で抱え込み、嵐が過ぎ去るのを待つようにいじめに耐えていた。


うらの弟に何するんや!」


 朝、学校の近くの通学路でいじめっ子の同級生たちに襲われ、ランドセルを奪われた時のことだ。突然現れた姉さんは同級生たちの頭を蹴り飛ばし、腹を殴った。俺のランドセルを掴んでいた同級生が倒れると、その子の手首を踏みつけてランドセルを取り返した。殺意すら感じる暴れぶりだった。

 当時中学生だった姉さんは、当然俺とは途中から通学路が異なっていた。だが姉さんは俺の顔つきが暗いことを察し、こっそりと俺が学校に着くまで見守っていたらしかった。

 か細い女子中学生とはいえ、5歳も離れた子どもに負けるはずもない。姉さんはいじめっ子たちを叩きのめし、その日は俺に学校を休ませて家に帰した。その翌日から、俺へのいじめはぴたりと止み、いじめっ子たちは青い顔で俺に謝ってきた。

 その出来事さえ、どれほど屈辱的だったか。自分は姉さんの庇護を受けなければ生きていけない弱い存在だと突きつけられた気分になり、どれほど自分が情けなかったか。


 虚しい。妬ましい。恥でしかない。自分の存在理由がわからなくなった。姉さんのようになりたくて仕方がなかった。



 俺が15歳の時だ。その年は8年ぶりに村長選が行われた。隣の県から越してきた30代の候補者が、父の対抗馬として出馬したのだ。

 その日、俺は体調が悪かったので放課後のバスケ部の部活を休んで普段より早く帰宅した。玄関の鍵を開けた俺は、玄関先に置いてある靴が学校に行く前より二足多いことに気づいた。一つは父のものだった。父が言葉巧みに例の候補者を家に招いていたのだ。

 来客の気配を感じた俺はそっと家に上がり、音を立てないように廊下を歩いた。俺の部屋は客間とは別方向だったから、客間から距離を取ったら普通の歩き方に戻るつもりだった。

 話し声が聞こえた。母の部屋からだ。母の部屋は玄関から俺の部屋までの途中にあった。この頃、母は体調を崩し、一日のほとんどを布団の上で過ごすようになっていた。そんな母の部屋から、父と来客の声が聞こえたことに俺は違和感を覚えた。寝込んでいる母に、わざわざ来客を会わせる目的はなんだ?

 俺は少しだけ開いていた襖の隙間から、そっと室内の様子を窺った。


 例の候補者が、母に手を握られて恍惚とした笑みを浮かべていた。


 俺は何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、足音を立てずにそっと玄関に戻り、家から出た。母と握手した人があんな表情をしているところは以前見たことがあった。だがあれは母がもっと若く、ぞっとするほど美しかった頃だ。母の妖美さに頬を染めていたのだと思っていた。老いて白髪交じりになり床に臥せった母に、ましてや父と敵対する候補者があんな反応をするなんて。どう考えても異常な場面だった。

 だが同時に、気に掛かって仕方がなかった。あれはいったい何なのか。父と母は何を隠しているのか。俺はその日を煩悶と過ごした末に、日付が変わった頃に母の部屋を訪れた。父と姉さんはいつもその時間には眠っていたが、母は夜遅くまで起きていることが多かった。

 部屋で酒を飲んでいた母に、俺は夕方のことを問い詰めた。候補者の男に何かしていただろうと。母は最初は躊躇った様子を見せたが、やがて俯き加減に自らが持つ力について語り始めた。


「…無理やりにな、人の好意を引き出すんや」


 母には、肌に触れることで強制的に人に好意を抱かせる力があること。あの候補者には、積極的な選挙活動を控えるように“お願い”したこと。肉親には効果が無いこと。母は病気であと一年程度しか生きられないこと。母は、力を姉さんに引き継がせるつもりであること。

 母の話しぶりは、まだ何かを隠しているように感じられた。だがその話を聞いた俺の胸には一抹の不安感と、それ以上の仄暗い期待感が膨れ上がった。

 だって、それを手にすればやっと姉さんに無いものを得られるじゃないか。姉さんに守ってもらわなくても、自分の手で自分を守れるじゃないか。


「…姉さんじゃのうて、うらが継ぐ」


 俺が静かにそう告げた時、母の目が大きく見開かれた。


「頼む。継がせてくれんか」



 結局、姉さんに力を継がせることは夫婦で話し合っていたことだからと言われ、母には断られた。俺は諦めきれず、翌朝に早起きして父に直談判した。


「…秀一。ありゃ母さんが亡くなったら、自動的に守美に引き継がれるものなんや。お前が継ぐことはできん」


 嘘だとわかった。俺が力を継ぐことができないのならば、母はそう言ったはずだ。母のあの反応は、俺に力を移す方法があることを示していた。


「父さん、こっちは本気で話しとるんや。誤魔化しはやめてくれんか!」


 語気を強めた俺に、父はばつが悪そうに言葉を絞り出した。


「お前は…なんであの力を欲するんや?」


「…一つでいい。姉さんより勝るものが…特別なものが欲しいんや」


 俺は父に訴えた。ずっと心の内に押し留めてきたことを。15年分の思いの丈を。


「一つも姉さんに勝てるものがうて、どんだけ惨めやったかわかるか。ずっと姉さんと比べられてきて、どんだけ羞恥を抱いてきたかわかるか。完璧な姉さんに比べりゃあ自分はどれほど無価値なのかと、自分の価値を見出せんくなった絶望がわかるか」


「父さんが付けた秀一って名前さえ、恥ずかしゅうてたまらんくなった…ほんな消えてまいたいほどの苦悩がわかるか」


 そう訴えた瞬間、父の表情に影が射した。思わず口を突いて出た言葉は、鋭利な刃物となって父の心を傷つけてしまったようだった。だがそんなことはどうでもよかった。俺は激情に任せて言葉を続けた。


「自分が嫌いで、情けのうて、殺いとうて…毎日鏡を見るたびに思うんや。姉さんはこんな顔をせん。自分は失敗作や、こんな奴に意味も価値も無えって」


「秀一…ほんな風には思うな」


「ほう思うんやったらくれよ!」


 俺は声を荒げた。吐き出す喘鳴は、ほとんど嗚咽に近かった。俺の悲痛に呼応するように、父の眉根には悲しげな皺が刻まれていた。


「価値が欲しい…姉さんには無え、自分だけの価値が。そうでなけりゃあ自分を肯定できん。だって、ずっと自分を認められんで生きてきたんや。姉さんは全てを備えとるのに、自分には何も無えと。姉さんが持たねえものを、どうしても手にしたいって考えるのは…当たり前やろ。なあ頼む…もう限界なんや」


「助けてくれんか…潰れる前に…死ぐ前に」


 俺は涙をぽろぽろと零し、父に懇願した。


「父さんの手伝いでもなんでもするで…どうか、うらに継がせてくんねください


「三十年…三十年にまで寿命が減るんだそうや」


 父は苦々しげに呟いた。


「母さんが言うてた。今、母さんは調子を崩してるやろ?ありゃ力の…代償のようなものなんや。力を継いでから三十年経つと死いでまう…ほんなものらしい。ほやさけぇ、母さんは臥せっとる。力を継ぎゃあ、お前も将来そうなる。ほれでもええのか…?」


 母が隠していたことはこれかと腑に落ちた。構わなかった。どうせ長生きしたとしても、姉さんより優れた人間になれる気はしなかった。自分で肯定できる自分になれる気はしなかった。今すぐにでも、自分だけの価値が欲しかった。

 躊躇なく頷いた俺に、父はゆっくりと、重々しく頷いた。

 俺が追い詰められていることが伝わったのだろう。仕事が終わって帰ってきたら、母には自分が話を伝えると父は言っていた。

 その日の晩に父は母と話したようだった。納得はしてくれたと言っていたが、実際のところはわからない。その晩は父に「今日は母さんの部屋に行かず早めに寝ろ」と言われ、翌朝も姉さんが母に付き添っていたから母と詳しい話はできなかった。俺は帰ってきたら母と話そうと思いながら学校に向かった。


 母も父もその日に燃えて死ぬなんて、思いもしなかった。


 昼前になって、家が燃えているという連絡が学校に入った。その急報を教師に伝えられ、走って家に戻った俺は愕然としてしまった。今朝まで暮らしていた家が、巨大な炎の塊に飲み込まれていた。

 俺は叫び声を上げた。母が死ねば、母の力は姉さんに渡ってしまう。やっとだったのに。姉さんより特別なものが手に入るところだったのに。なんで。


「…秀一」


 燃える家を眺める野次馬たちの中から、姉さんが姿を現した。俺の声を聞きつけたらしかった。

 ふらふらとこちらへ寄って来る姉さんの雰囲気は今朝と異なり、母さんにひどく似ていた。その表情を見て、俺は察してしまった。それまでの人生で、俺は誰よりも姉さんを見てきた。あの鮮烈な才の一端でも自分のものにしたくて。そんな俺が、姉さんの表情に込められた感情を見間違うはずがなかった。

 姉さんの顔には、が浮かび上がっていた。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る