受肉

 ■■■■■■にその願いが届いたのは、全くの偶然であった。姉への羨望と嫉妬から、ふと「消えてくれ」と願ってしまった一人の男。混線によりスピーカーが偶然にも無線の電波を拾ってしまうように、本来は交わらないはずであった両者が“つながり”を持ってしまった。


「消してあげましょうか」


 次元を超えて、ここではない何処か。はるか遠い場所から、■■■■■■は語りかけた。


「お姉さまのこと」


 ■■■■■■にとってもそれは予期せぬ出来事だった。だが、風上優器の心に付け込まぬ理由は無かった。なにしろ、彼は心の中で対価を提示していたのだ。何だって差し出すと。

 消してくれよ。粗雑な音質でありながらもその言葉が確かに伝わった時、■■■■■■は口角を大いに歪めた。風上優器は全く与り知らぬことであったが、■■■■■■の言葉に答えてしまった時点で契約は成立した。


 契約を結び、風上優器の記憶を読んだ■■■■■■はさらに歓喜した。風上優器の姉、風上霞は■■■■■■にとって非常に魅力的だった。作家を生業とする彼女は、弟からの天才という評価とは裏腹に常に苦悩を重ねてきた。創作者ならば誰もが持つ苦悩だ。世間が求める己の像に合致しつつも前作を超える作品を生み出さねばならない。研鑽を重ねて表現を磨かなければならない。歳を重ねるごとにその苦悩は強まっていった。

 そういった、苦悩を重ねた人間の魂ほど■■■■■■にとっては至上の美味だった。


 だが、魂は人の存在の根幹。魂を失えば人は死ぬ。それほど重要なものであるため、通常の状態では魂に触れられない。魂は人が纏う生命のオーラに守られ、外敵に脅かされない仕組みになっている。ましてや人の世に関わる肉体を持たぬ■■■■■■には、彼女の魂はそのままでは決して喰らえぬものだった。

 ゆえに■■■■■■は彼女のオーラを乱した。オーラを乱すことで生きている人間の魂に触れる術はいくつかある。その人物の根幹を為す要素を奪って生への執着を揺らがせることや、特異な才ある者が呪法を用いることなど。

 ■■■■■■の術は人間の思念を利用する。第一に、直接触らずして遠隔で干渉できる人間たちを見つけ、記憶に干渉する。■■■■■■は風上霞の記憶を彼らに植え付け、音楽のリピート再生のように何度も繰り返し再生させた。同時に「消えろ」と強く願わせるよう思考を誘導した。これにより生まれた思念は一斉に彼女の元へ向かい、時間をかけて少しずつオーラを蝕んでいった。

 十分に風上霞のオーラが乱されると、■■■■■■はふたつの術をかけた。ひとつは記憶の“つながり”を辿り、風上霞を知る人物から彼女に関する記憶を消すこと。この術により、家族や知人など、風上霞を知る者は風上優器ただ一人を残して誰もが彼女の記憶を失った。

 もうひとつの術は標的自身の肉体にかけるもの。この術をかけられた人間は、あらゆる人間に認識されなくなる。周囲に認識阻害を振りまく呪いが肉体に取り憑いているようなものだ。声は誰の耳にも届かず、姿は誰の目にも留まらず、触れようと殴ろうと他人の触覚も痛覚も呼び起こせない。魂を抜かれて死んでも、その死体は誰にも認識されない。■■■■■■が存在する限り、術は解除されない。街角で、腐臭を誰にも嗅ぎ取られないまま朽ちていくだけだ。

 孤立した状態になりしばらく経ち、生への執着が揺らぐまでになると、オーラは魂を守る鎧としての強度を失う。ここでようやく、魂に手を出せるようになる。


 しかし魂を喰らうには人の世で活動する肉体が必要だ。■■■■■■にはそれが無かった。

 だが、風上優器は願ってしまっていた。姉を消してくれるのならば、何であろうと差し出すと。




「あなたの願いは叶いました」


 声が響いていた。眠りに落ちたはずの俺は、暗闇の中にいた。闇の他には何も無い。ただ、あの“おさるさま”の声が響いているだけだ。今までのように途切れ途切れではなく、鮮明に聞こえる。


「お姉さまのことは、もう誰もが忘れてしまいました。お姉さまはもう社会に関われません。あなたの願い通り、お姉さまの著作が世に出ることは二度と無い」


 夢だと気づいた。“おさるさま”は、夢の中で俺に語りかけているのだ。俺の胸は、願い通りに姉を消してくれたことへの感謝でいっぱいだった。これでもう、嫉妬に狂わなくて済む。なんだか今なら面白い小説が書けそうな気がした。俺は手を合わせて、“おさるさま”への感謝を告げた。


「では、対価をいただきましょうか」


 対価?対価とはなんだ。俺は訝しみながら“おさるさま”の言葉を待った。


「あなたは願いましたね。お姉さまを消してくれるなら、何でも差し出すと。それで成立した契約です。あなたは何であろうと、私が望むものを差し出さなければならない」


 待ってくれ。そんなことは言ってない。いや、確かに心の中で思ったかもしれない。でも、何でもだなんて。


「駄目ですよ」


 “おさるさま”は身が凍えるほど冷酷な声で言った。


「契約は、契約。あなたに拒否権は無い。では、あなたの肉体をいただきましょうか」


 肉体。肉体と言ったか。ちょっと待ってくれ。そんなの、死と同じじゃないか。肉体を取られたら俺はどうなるっていうんだ。


「ああ、大丈夫ですよ。あなたの魂まではいただきません。意識は保てます。ただ、自らの意思で体を動かせなくなるだけ。肉体の主導権をいただくと言ったほうが良いでしょうか」


 何を…何を言ってる?嫌だ。そんなの、生きているとも言えないじゃないか。やめてくれ。頼むから。他のものを差し出すから。待って。


「それではあなたの体で、お姉さまの元に行きましょう」


 頼む許してくれ。まだやりたいことがあるんだ。書きたいんだ。今ならもっと自由に、良いものが書けると思っていたんだ。そして姉みたいに、多くの読者に見てもらって。

 

「楽しみですね。お姉さまの魂の味は、あなたにも味わえますよ」


 嫌だ。やめろ。畜生。


「ああ、そうだ」


「あなただけは、お姉さまの記憶を生涯忘れられません。意識だけの生で、お姉さまのことを思い続けてくださいね」


 この…悪魔め。

 



「あの…何かご用でしょうか」


 肉体を得た■■■■■■は、男が暮らすアパートからほど近い場所にある施設に向かった。千代田区青少年家庭支援センター。ここならば環境に不満を持ち、他者への憎悪を抱える少年少女に出会いやすいと■■■■■■は考えた。

 子どもであれば御しやすい。■■■■■■は分体のための契約の機会を窺っていた。何かの事故にでも巻き込まれるか、異能者に正体を看破されて攻撃されでもすれば、せっかく得た肉体を失ってしまう。予備として、分体を憑ける肉体を求めていた。


「あ、あ?あ…」


 ■■■■■■が出迎えた職員の頭を掴むと、職員は放心した顔を浮かべた。

 風上優器に“おさるさま”と呼ばれた時、■■■■■■は笑いを漏らしてしまった。名を名乗ろうとして不用意に名を漏らすことを思いとどまり途中で言葉を止めたのだが、この国の言葉では自らの名の一部は“monkey”の意味を持つことに気づいた。

 せっかくだ。■■■■■■は男の肉体を使うにあたり、その名を名乗ることにした。

 職員は数秒ほど押し黙っていたが、やがて笑顔で■■■■■■を同僚として迎え入れた。


「猿山さん!おつかれさまです!」

 

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