愚かな人

 いつからだろう。小説を書くことが苦しくなったのは。


 俺は子どもの頃から、物語が好きだった。読むことも、書くこともだ。初めて小説を書いたのは、小学3年生の授業の時だった。おそらく国語の授業だったと思う。教科書に載っている話の続きを自由に考えて、原稿用紙1枚分の分量で書いてみなさいという課題があった。それが何の話だったのか、俺はどんな話を書いたのか。それは不思議と思い出せない。

 ただ、俺が書いた話を読んだ友達が「めちゃくちゃ面白い」と大笑いしてくれた記憶だけが鮮明に残っている。その後は中学1年になるまで書いていなかったのだが、きっとそれが始まりだった。「評価される小説を書きたい」と強く願うようになったことの、始まり。

 きっかけはもう一つあった。姉に影響されたことだ。

 風上霞かざかみ かすみ。15歳離れた俺の姉は、作家をしている。姉が作家デビューを果たしたのは22歳の時。姉が大学に在学中のことだった。姉が応募したホラー小説が公募文学新人賞を受賞し、姉は栄えある文芸界に足を踏み入れた。

 姉は高校1年の16歳の時に、文芸部の活動で小説を書き始めたらしい。つまり6年で商業作家として花開いたことになる。それが早いのか遅いのかはよくわからない。ただ確かなことは、姉の小説の面白さだ。

 物語の世界に引き込ませる臨場感。手に汗握らせる緊迫感。そして余韻がどこまでも後に引く読後感。どれを取っても姉の小説は一級品だった。デビューから今までの間で、姉は数多くの作品を世に送り出した。その全てが非の打ちどころのない傑作だった。年を追うごとに姉の文章の輝きは増していった。今や、読書家ならば誰もが姉の物語の世界を求めるようになった。


「ほうほう。面白いわね優器ゆうき。とても良い想像力をしてる」


 そう言って頭を撫でてくれた姉の声が、今でも忘れられない。小学3年生の時、授業で書いた例の小説を姉に見せた時の思い出だ。あの時すでに作家となっていた姉に肯定された体験は、幼い俺の目を輝かせた。

 あれは子どもに対するリップサービスだったに過ぎず、あんなものは無理して褒めるしかない駄作でしかなかったのだろうとしか思えなくなったのはいつだったか。

 結局、あれから何年経っても姉との差を埋められなかった。15歳も離れた姉は、昔から身近な存在ではなかった。そんな姉とは、一回り以上も歳が離れているのだから能力に差があって当たり前だと思っていた。それでも自分はあの姉の弟なのだから、きっと自分にも才能があっていつか開花すると信じていた。いずれ姉に追いつく幻想を抱いてさえいた。

 俺が中学校に上がる少し前には、落ち着いて執筆できる環境を求めて家から出て行った姉。さすがは作家だ、俺もいつかはあんな風にと憧れさえ抱いていた姉。

 

 そんな姉を、いつから妬ましく思い始めたのだろう。

 俺は姉よりも早く、中学1年の13歳の頃から小説を書き始めた。家の本棚に次々と並んでいく姉の著作を見て、13歳の俺の胸に憧れが膨れ上がったのだ。自分も書きたいという気持ちが抑えられなくなったのだ。

 小説といっても、その頃に書いていたのは好きなアニメのショートストーリーを匿名掲示板に投稿する程度のものだった。セリフだけの作品で、会話劇も表現もあまりに稚拙なものだ。到底、小説と呼べる出来ではなかった。だが掲示板で顔も知らない何人かに評価されると、自分には才能があるのではないかと幼い心に自惚れを抱いてしまった。

 少しずつ書き慣れてきて地の文を増やすようになり、どうにか小説の部類に入るものを書けるようになったのは中3の春の頃だった。それで自信をつけた俺は、翌年に高校に入学すると姉と同じく文芸部に入部した。しばらくは部員同士で小説を見せ合ったり部誌に寄稿したりと緩い活動を続けていた。だが小説を書き慣れてきて、なまじ実力をつけてくると、嫌でもわかってしまう。先輩たちの文章と自分の文章の質の格差が。プロ作家たちの文章の秀逸さが。何より、姉の小説のおそろしく研ぎ澄まされた筆致が。

 煩悶したまま小説を書くようになった頃。高2の冬に“サクドク”という小説投稿サイトが開設した。その時の部長はいち早くサクドクの立ち上げを察知し、部員たちにサクドクでの執筆を促した。今なら皆フォロワーが少ないから条件は同じ。有名になるチャンスだと。

 俺は本名をもじったハンドルネームで登録し、その日に1作目を投稿した。無論、その日に書いた新作ではなく以前書いた短編だ。俺が投稿した作品は何日経ってもレビューもいいねも付かなかったのだが、所詮こんなものだろうとあまり気に留めていなかった。

 しばらく経った頃、姉がサクドクにアカウントを開設した。フォローしている姉のTwitterアカウントからその情報は回ってきた。俺は、姉との実力差を突き付けられた気分だった。姉は登録したその日に完全新作の短編を投稿していた。しかも、5000文字程度とは思えない濃密な魅力を放つ傑作を。その短編は数時間で何十もの評価を獲得していた。

 俺は胸を搔きむしりたい思いだった。何が条件は同じだ。こんなもの、他SNSのフォロワーが大勢いる人気作家が有利じゃないか。いや、それを差し引いてでも。姉の作品は凄まじい物語だった。いったいどんな思考をしていればこの文字数でこれほど満足感のある世界観を展開することができるのか。どうすればこんな物語が思い浮かぶのか。俺には全くわからなかった。

 俺も姉と同じ血を引いているのだ。このまま努力を続ければ、いつか姉のような小説を書くことができるだろうか。姉に追いつくことができるだろうか。違う。追いつきたい。追いつかねばならない。そうでなければ俺は俺を肯定できない。思えばこの時、俺は姉に頭を焼かれてしまったのだろう。

 それからはずっと書いていた。サクドクで小説を執筆し続け、やがて作品数は百を超えた。10万字を超える長編も何本も書いた。公募に何度も応募した。だが結局、姉がデビューした22歳になっても俺に芽が出ることはなかった。

 姉のように大学在学中のデビューこそ果たせなかったが、働きながらでもいつか。そう思って書き続けてきた。翌年、23歳。翌々年、24歳。何も結果が出せなかった。働いている時間が心底邪魔で仕方がなく、いっそ無職にでもなってしまおうかという思いが頭をよぎった時、理性が告げた。

 こんな駄文が世に認められるわけがないだろう。

 認めたくはないと、目を背けてきたことだった。だが、つい開いてしまった。サクドクのページから、大学1年の時に書いた小説を。そこには今の俺が書くものと全く程度の変わらない文章が綴られていた。

 俺は頭を掻きむしった。わかっている。俺に才能が無いことなど。俺の成長はとっくに止まっていることなど。俺にはもう伸びしろが無いことなど。姉に追いつくことは、俺には逆立ちしてもできないことなど。

 でも、あんまりじゃないか。血を分けた姉弟きょうだいでいて、どうして姉と俺には天と地ほどの差があるんだ。姉と俺で何が違う。俺が生まれるより15年前に、姉は才能というものを俺の分まで吸い尽くして生まれていったんじゃないか。

 馬鹿な思考だとはわかっていた。だが俺はどうしても、身勝手にも、姉への妬みや憎しみを抑えきれなかった。ふざけるな。歳が離れているとはいえ、姉弟なんだぞ。こんなに残酷なことがあるか。

 俺は立ち上がり、本棚から姉の最新刊を手に取った。もう何度も何度も読み返したはずのその文章に、嫉妬のあまり吐き気を覚えてしまった。あまりにも甘美で陶酔的な、艶やかささえ感じさせる巧みな語り口。極限まで研ぎ澄まされた姉の筆致。俺にはこんなものは書けない。こんな名文と比べれば、俺の文章など小学生の作文と変わらない。

 もう嫌だった。姉はこれからも傑作を書き続けるのだろう。俺はそれを読むたび、嫉妬で全身を焦がすのだろう。頼むから、もうやめてほしかった。もう俺を惨めな思いにしないでくれ。書くのをやめて消えてくれ。どこへなりと消え失せてくれ。醜い願いだとは感じつつも、ついそんなことを願ってしまった。


「けし…あ…しょ…か」


 耳元で声がした。すぐ近くから聞こえたはずの声は、不思議とどこか遠くから響いているようにも感じた。声は途切れ途切れだった。まるで電波の悪い場所での電話で聞こえるような声。


「姉…さま…こと」


 聞き取りづらい声だというのに、俺にはその声が言わんとしていることが理解できた。最初、ただの幻聴だと思った。俺の心が作り出した幻聴。さっさと頭を切り替えて、幻聴をかき消すべきだ。そうは思いつつも、精神的に疲弊していた俺は、ついその声に耳を傾けてしまった。つい声に出してしまった。そうしてくれるなら何だって差し出すのにと思いながら。


「…消してくれるっていうなら消してくれよ」


 その瞬間、ぞっとするような、地の底から響くような笑い声が俺の耳に届いた。ようやく理解した。違う、幻聴じゃない。何かが俺に語りかけているのだ。

 俺は部屋を見回し、怯えた声を絞り出した。


「誰…だ…?」


 声はなおも、離れた場所から語りかけているような響き方だった。

 俺の耳には、「さる」とだけ聞こえた。



 

 初めてあの声を聞いた夏から1年後。姉のサクドクのアカウントから、一作の小説が投稿された。それは姉が普段書く小説とは雰囲気が異なり、まるで焦燥のままに書き連ねた文章のように感じられた。

 『誰か助けてください』というタイトルのその小説は、初めに『状況』と題された章で自分が誰からも忘れられてしまうという話が書かれていた。2日後に更新された『最後に』という章では、まるで遺書のような内容が綴られていた。

 遺書じみているとはいえ小説投稿サイトのサクドクで書かれたものであるから、一風変わった作品を書いたのだと読者は受け取ったようだった。

 箕作綴みつくりつづるはもうこの世におらず、その続きが更新されることは無いと知っているのは俺だけだった。


 俺に語りかけたあの声は、相変わらず途切れ途切れの声で姉を食べたと話した。それを聞いた俺の胸に湧き上がったのは、罪悪感や恐怖や後悔よりも畏敬だった。あの「さる」とだけ名乗った、人ならざるものへの畏敬。神に愛された天賦の才を持つ姉さえもこの世から消してしまえる、大いなる存在。そんなものに自分が目を留められたことへの歓喜も。

 こんな真似ができるのならば、きっと高位な猿の神か何かなのだろう。俺は信仰ある人間が神に語りかける時のような声色で呟いた。


「おさるさま」


 嘲笑のような声が聞こえた。




 


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