指相識別之大事

「龍神くん…?」


「龍神先輩!?」


 龍神と呼ばれた男は、全身黒ずくめの和装の出で立ちだった。黒の着物に黒の羽織を身に纏った羽織姿で、足袋や草履までもが黒に染まっていた。龍神は黒の着物をよく好んでおり、学生時代もいつもこの服装で大学に姿を現していた。洒落っ気といえば、気分で羽織の色を変える程度だ。

 ひげを剃る頻度も3日に一回程度のため、顎には黒い針金のような無精髭が尖っている。無精髭に加えて、粗野な言葉遣いと獰猛な目つき、そして入れ墨の影響もあって他人に威圧的な印象を与える男だった。

 龍神は特徴的な入れ墨を顔面に刻んでいる。この入れ墨が、龍神の容姿の中で最も目を引くものだ。龍神は左の眉の上からまぶたの中心を通り左耳の付け根にかけて、入れ墨を施している。入れ墨は遠目から見れば黒い線のように見えるが、近寄れば経が細かく書かれていることがわかる。入れ墨は波状にうねって彫られており、まるで龍が体を曲がりくねらすような形だ。秀一も、2学年上の先輩だった龍神に大学で初めて声をかけられた時は恐怖心を抱いた。極道か何かかと思ったのだ。

 龍神は東京都の多摩地区にある寺の息子である。寺生まれとはいえ寺を継ぐ気は龍神には無く、跡継ぎは兄に任せて自らは放蕩生活をしている。


「おう、邪魔するぞ」


 龍神は守美を押しのけて事務所の中へと立ち入った。ソファにどさりと腰掛けると、煙草と携帯灰皿を取り出し煙草に火を点けた。


「君ねえ、前も言ったがここは禁煙だよ」


「固いことを言うな。タクシーで来たもんだから吸えなかったんだよ」


 喫煙を諫める守美を意に介しない様子で、龍神は煙草をくゆらせた。守美はため息をつき、テーブルを挟んで向かい側のソファに座った。


「…で?どうしてここに?」


「お前ら、また怪異と関わりでもしただろ」


 龍神は険しい目つきを浮かべた。“お前ら”という言い回しは守美と秀一を指してのものだったが、守美は秀一の記憶を失っているため違和感を抱いた。


「数時間前、深夜のことだ。つながりを通って、何かが俺の頭に入り込もうとしてきやがった。当然、その前に弾いたがな。だがその接触だけでも、そいつの目的は感じ取れた。捻木。お前の記憶だ」


「私の…?」


「お前じゃねえ、こいつだ」


 龍神が親指で指し示したのは、守美の隣に座る秀一だ。だが、記憶に干渉された人間は、記憶から消された人物に関することを認識できなくなる。守美にはそんな龍神の動作さえ認識できなかった。


「龍神先輩…あの、姉さんは俺の記憶を失ってるんです。さらに俺の姿も、俺に関することも認識できなくなっていて…触っても無反応ですし」


 秀一が肩を叩いても、守美は一切の反応を示さなかった。龍神は守美と秀一の顔を見比べつつ、フィルターの付近まで燃え尽きた煙草を携帯灰皿に入れて火を消した。


「なるほどねえ…俺がそうなったら面白がって一発ぶん殴ってるところだな」


「龍神くん…?何を言っているんだ?」


「なんだ、これには反応できるのか。独り言だからか?」


 2本目の煙草を取り出しながら、龍神は愉快げな笑みを浮かべた。龍神は煙草に火を点ける前に、煙草の先端を守美に突きつけて問いかけた。


「これはどうだ?お前には弟がいる」


「弟…?いや私は一人っ子だが…」


「お前は捻木秀一の記憶を失った上にこいつを認識できなくなっている。お前の弟はすぐ側にいる」


 守美はその言葉には反応を示さず、ぼんやりとした顔つきを浮かべた。龍神はまるで玩具で遊ぶ子どものような様子で守美の反応を面白がっていた。

 秀一に諫められると、龍神は「悪い悪い」と軽く謝罪し煙草に火を点けた。


「で、どうなんだ?お前ら、ここ最近で怪異と遭遇したのか?」


「ああ…5月のことだ。空代一子という依頼人が持ち込んだ案件でね。夫に関する記憶が周りの人間から消されてしまったと…」


 守美は龍神に空代家の件について事細かに話し出した。空代希実の日記の写真も見せた。時折、秀一が補足説明を入れたがその声は守美には届いていなかった。そのため守美と秀一が同時に喋る場面もあったのだが、龍神は混乱することなく冷静に二人の話を頭に入れていた。

 話を最後まで聞き終わると、龍神は煙草を消して静かに守美に問いかけた。


「おさるさまねえ…お前、そいつの正体は何だと考えてる?」


「…呼び名に“さる”が含まれることと、空代希実の願いを叶えるような行動を見せていることから私は猿の手を思い浮かべたが…引っかかる点もある」


「猿の手か。代償と引き換えに願いを叶えるが、結局は歪んだ形で叶えられちまうってやつだな。だがあれは呪物だ。そのガキの日記の書きぶりを見る限り、おさるさまとやらは意思のある存在に見えるぞ」


「そこなんだ。おさるさまという存在は、空代希実に語りかけている。呪物だとするとその点が妙だ。ただ願いを叶えるだけの機構ではなく、知性のある何か…」


「何か。それが問題だ。ま、名に“さる”が入ってるからって猿の怪異とは限らねえしなあ」


 龍神は煙草を深く吸い込んで肺を煙で満たした後、天井を向いて全ての煙を放出する勢いで息を吐き出した。2本目の煙草を消すと、おもむろに立ち上がって秀一の手に肩を置いた。


「よし捻木、脱げ」


「は!?」


「姉貴でもいいんだが女を脱がすのはな。せっかくお前がいるんだからお前の体を使えばいいじゃねえか。肩にも書かねえといけねえんだ。ほら、さっさと脱げ」


「ちょっ!何するんですか!」


 体格のいい龍神は秀一の抵抗を許すことなくTシャツを無理やり脱がし、秀一を上半身裸にしてしまった。当然その様子を認識することは守美にはできず、呆然とした顔を浮かべるだけだった。


指相識別之大事しそうしきべつのだいじ


 龍神は低い声で呟いた。その表情からは軽薄さは影を潜め、真剣な色が表れていた。


祓魔ふつまは敵の正体を見破らねえと話にならねえ。敵が何なのかもわからねえんじゃ手出しのしようが無えからな。ってことでまずは、おさるさまとやらの正体を探ることからだ」


「それが指相識別之大事…怪異の正体を見極めるための術だ」


 龍神は懐から取り出した筆ペンを秀一の肌に走らせた。左の肩先と、左肘の外側と内側に1種類ずつ3種類の字を書き込んだ。龍神が書いたものは鬼字だ。“鬼”という字が使われているが異字体のため、“男”という字を部首のにょうの形にしたように見える。その繞の横にそれぞれカタカナの“ト”と“ム”と“ル”を置いたような字だ。


「第一に、被呪者のこれらの部位にトムルの三鬼を書き込む。トは祈祷、ムは調伏、ルは強化を司る印だ。こいつで術を支え…次だ」


 字を書き終えると、龍神は右手の人差し指と中指を立てて印を結び、人差し指の側面を唇につけて7回唱えた。


諸余怨敵皆悉摧滅しょよおんてきかいしつさいめつ。諸余怨敵皆悉摧滅。諸余怨敵皆悉摧滅。諸余怨敵皆悉摧滅。諸余怨敵皆悉摧滅。諸余怨敵皆悉摧滅。諸余怨敵皆悉摧滅」


 唱え終わると、龍神は秀一の左手の五指全ての指先に“鬼”の字を書いた。先ほどの鬼字と同様に常用漢字の“鬼”ではなく、一角目の部分が無い異字体のものだ。全ての指に字を書き終えると龍神は指を閉じさせ、秀一の手にふっと息を吹きかけた。


「指を開いた時、ぴくぴくと動く指があればそれが怪異の正体を示している。親指なら僧やら霊能者やらの霊。人差し指ならただの人間の霊。中指なら厄介な悪霊だとか、天狗やらの霊力の強い高神たかがみだとかだ。薬指なら生霊や動物霊。小指なら狐の仕業か、あるいは生きた人間の呪詛って具合にな。まずはこいつで絞る。さあ、開いてみろ」


 秀一は唾を飲み込みながら、ゆっくりと指を開いた。しかしどの指も動かず、変わった様子は特に無かった。指が痙攣する感覚さえ秀一は感じなかった。


「龍神先輩…これはどういう…?」


 龍神の口から舌打ちが漏れた。


「冗談じゃねえぞ」


「悪魔祓いは教会の仕事だろうが」


 


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