追憶 ④

 一晩明けても、母は体調が回復していない様子だった。霊障による痛みのあまり、その晩はよく眠れなかったようだった。


「じゃあ学校に行ってくるで、大学の時間までお母さんのこと頼んだでな姉さん」


 咳き込みながら粥を食べる母の背中をさすり、秀一は山ほどの教科書が入った重いカバンを掴んだ。その日は平日の金曜日だった。父は6時半に村役場へ出勤し、秀一も8時前には中学校に行く必要があった。私は大学の講義が3限からだったので、母の看病をできるのは私だけだったのだ。大学に向かうまでには片道1時間半かかっていたのだが、11時頃までは時間の余裕があった。


「うん、気ぃ付けて行ってくるんやざ」


 私は手を振って秀一を見送った。玄関の戸締りをし、台所に寄ってから母の部屋に戻った。母は酒と塩と生米を持ってくるよう私に頼んでいた。軽くであっても食事をしたことで、酒が飲めそうなほどには体力を取り戻したのだろう。

 母の部屋に戻ると、母は粥を食べ終えて布団で仰向けになっていたところだった。


「ああ守美…お酒とか…持ってきてくれたんや…?」


「うん。飲んで楽になったら、ちょっこし寝たほうが良いざ」


「本当に…いつもありがとね…守美はいつも頼りになるなあ…さすがお姉ちゃんやの…」


 私はそう言われてどう答えたのか、不思議と記憶に残っていない。何も言えなかったのかもしれない。

 酒に混ぜた睡眠薬が効き、母は10分ほどして眠りに落ちた。村長職のストレスで眠りが浅くなっていた父が病院で貰っていた睡眠薬だ。しばらく起きないとは思いつつ、11時近くになるまで私は母の横顔をじっと見つめていた。あまり早くに事を起こすわけにはいかなかった。まだ、私が外出するには早い時間だったからだ。


 時計の針が11時を示した頃。私は手袋をはめると母の掛け布団を勢いよく剥ぎ取り、包丁に全体重を乗せる勢いで母の腹に鋭く尖った包丁を突き刺した。

 肉を穿つ感触が、包丁の柄越しに伝わってきた。傷口からは血がじわりと滲みだしたが、母が意識を取り戻して呻き声を上げたのはそれより数秒後だった。


「す…み…」


 私は母の顔を見ることができず、ただ手元だけを見つめていた。母の腹に深く突き刺さった包丁と、どくどくと流れ出す赤黒い血。頼むから早く終わらせてくれ。さっさと母の体から抜け出して私に憑いてくれ。秀一を害するのはやめてくれ。私はただ、母の中にいるという動物霊たちにそればかり願っていた。


「ごめ…ん…」


 その言葉に、私はぱっと顔を上げた。母の魂はもうそこには無かった。母は目を見開き、眼球に天井を反射させて死んでいた。

 私は母の腹に刺さった包丁から手を放し、よろめいて尻餅をついた。瞬間、どくりと体が波打つのを感じた。頭の中に、動物たちの鳴き声が何重にも重なって響いた。ひどく愉快げな、笑い声に似た鳴き声だった。それで私は理解した。私は母と同じものになったのだと。




「お願いがあるんや。聞いてくれる?」


 私はシャワーを浴びて母の返り血を洗い流し、家を出た。向かったのは、私に惚れていた男のうちの一人のところだ。

 彼は小学生の頃からの同級生だった。中学も高校も同じだった。初めて彼の視線を自覚したのは小学校高学年の頃だったか。彼は、いつも私の姿を目で追っていた。私が彼に視線を向けると、ぱっと顔を背けるのがお決まりだった。

 私は彼の手を握り、上目遣いで甘い声を出した。彼は熱に浮かされたように顔を赤らめ、こくこくと頷いた。


「これからお父さんが帰ってくるんや。包丁でお父さんを刺し殺いて、家に火ぃつけてほしい。灯油は撒いてあるでね。このスマホも持って行って、お母さんの部屋に置いての」


 私は母のスマホを持ってきていた。父宛てのトークルームには「体調がひどい。帰ってきて」というメッセージを未送信の状態で打ち込んでいた。このメッセージを送信すれば、父は村役場から飛んでくるだろう。

 父は是が非でも秀一に“福宿し”を継がせようとしていた。ならば秀一ではなく私が“福宿し”の力を手にしたと知れば、どんな行動に出るかわからない。この力は“福宿し”が死ねばその長子に移るが、私には子は居ない。であれば、最も近い年下の血縁者である弟に力が移行する可能性もあった。極限状態にあった私は、自分が父に殺される可能性に怯えて父を殺そうと画策したのだ。

 あまり母の死から送信時間の間が空くと死亡推定時刻がずれる。時間が無かった。

 彼は私の言葉を飲み込めず、硬直していた。当然だ。人を殺して家に火をつけろなどと、正気でできるはずがない。

 だから、私は彼の正気を乱した。


「お願い!君にしか頼めんの…お願い…うらを助けて…ほしたら、なんでもしたげるで…」


 “福宿し”の力による精神操作は、倫理を踏み越えさせることができる。最初の女の長女がやってしまったことだ。もともと自分に気がある相手であれば、力の出力を強めれば理性を壊すことも可能なのだと私にはわかっていた。

 人の道を外れた力だと知ってなぜ振りまけるのか。あの話を聞いた時に浮かんだ疑問は、もう解消されていた。どうでもよくなるのだ。すでに自分が外道であれば、人の道も何もどうでもいい。

 彼は母のスマホを受け取り、こくりと頷いた。真っ赤に染まった顔は、恍惚に歪んでいた。




 いつも通り大学に向かう電車に乗っていた私のスマホに、顔見知りのおばさんから連絡があった。家が燃えていると。予想通りの連絡であったが私は精一杯の驚いた声を出し、すぐに引き返すと告げた。

 ちょうど駅にいたタクシーに乗って家に戻ると、ごうごうと蠢く赤い炎が家を包んでいるのが見えた。家の消火はまだ終わっていなかったのだ。広く大きな家を飲み込む炎は、まるで巨大な化け物のようだった。邪悪なオーラのようにどす黒い煙を吐き出す炎は、しかし妖しく魅惑的な煌めきを放っていた。美しいが決して近づいてはならないもの。まるで、母のような。

 私はしばらく、呆然と炎を見つめていた。タクシー運転手が心配して車を降りてきて、私に何か言おうとした時だった。叫び声が聞こえた。


「ああああ!!母さん!!母さん!!」


 秀一は喉が張り裂けそうなほどの声で叫んでいた。家が燃えていると知らされ、中学校から戻ってきたのだ。周りの大人に抱き留められながら燃える家に手を伸ばし、ともすれば家の中に向けて走り出してしまいそうな様子だった。

 私はそんな弟の姿を見て、胸がずきりと痛むのを感じた。秀一は母だけでなく、父までもが家の中にいることをまだ知らないのだと。両親を一度に失ったと知った時の秀一がどれほど憔悴するか、この時点での私は正しく想像できていなかった。


 家の焼け跡からは両親の遺体が見つかり、彼は私のことなど何も言わずに自分の犯行だと主張し続けた。現在では死刑執行を待つ身となっている。

 秀一は祖母の家で暮らすことになった。両親を亡くした後はしばらくの間、ショックのためか私と目を合わせることもしなくなった。祖母には一緒に暮らさないかと誘われていたのだが、私は大学を中退して東京で暮らすことにした。耐えられなかったのだ。両親を殺したのは私だという意識が、秀一の暗い顔を見るたび罪悪感として心を締め付けてきた。弟をこんな顔にしてしまったのは自分なのだと。守るなどと言っておいて、逃げ出した。醜いことに。

 だからせめて、秀一が東京に進学する時に支えられる場所を作っておこうと思った。秀一は都内の有名大学に行きたいと言っていた。その大学から近い場所にスペースを借り、探偵事務所を開設した。探偵を選んだ理由は興味がある仕事だったということと、人の役に立つ仕事がしたかったということの他にもう一つある。この力を活かせることだ。この力の影響下にある者は盲信に近い状態にあるから、私に対して偽りを述べる気にはなれなくなる。それは真相を探る仕事に大いに役立った。例えば浮気調査であれば調査対象者に直接接触し、話を引き出して録音してしまえばいい。人探しであれば知人から容易に情報を引き出せるのは大きな利点だ。そもそも依頼人が嘘を話す場合もあるため、私はいつも依頼人との面会は握手から始めていた。

 秀一は高校に進学しなかったのだが、高卒認定試験に受かって大学受験資格を得て、無事に志望校に合格した。私の事務所から近い、前々から行きたいと言っていた大学だった。

 その頃には秀一はどうにか立ち直り、以前の雰囲気を取り戻していた。秀一は事務所の隣の居住スペースを見て、この狭い空間で二人暮らしをすることに難色を示していたのだが、東京の家賃の高さを知ってしぶしぶと事務所から大学に通うことを決めた。大学に徒歩10分ほどで通える好物件は他に存在しなかった。

 秀一が大学2年の年の夏。ある依頼人が持ち込んだ浮気調査の依頼で、異常な事態に直面した。私の力が、依頼人の夫に効かなかったのだ。彼に触れた途端、私に憑いている動物霊たちがぞわりと騒ぎ出した。全身を突き刺す激痛のあまり、その場に倒れ伏してしまった。それ以降、私は何か得体の知れないものにつけ狙われるようになった。

 そんな時、秀一が連れてきたあの男…龍神に出会った。彼の協力のおかげでその件は解決することができたのだが、この世には怪異なるものの存在があることを知った。超常はこの力だけではないのだと知った。

 卒業が近づくと秀一は就活がうまく行かずひどく悩んでいた。なら事務所を手伝ってくれればいいじゃないかと提案して4月から一緒に働いているのだが、そんな折にまた怪異が関わる事件が舞い込んできた。ふと思ってしまう。私は秀一を支えられる場所を用意しようと思っていたのに、そこで次々と怪異が起こす事件に出会う。これでは弟を危険に晒すだけではないか。

 あるいは、これは私の業なのかもしれない。私自身が救いようのない悪人だから、悪いものを引き寄せてしまうのかもしれない。結局は秀一が平穏に暮らせる道は、私のような姉とは離れて過ごすことなのかもしれない。


「ッ…!」


 心臓を握り潰すような激痛が走った。それが霊障のためなのか感傷のためなのか私には判然としなかった。やがて激痛は四肢や頭部にまで現れ始め、頭の中に動物の鳴き声が響いた。今度こそは間違いなく霊障だ。

 動物の声に交じって、母の、父の、彼の声が聞こえた。これはフラッシュバックか。あるいは、両親の霊と彼の生霊が私に訴えかけているのか。

 皆、私が殺したのだ。私に人生を台無しにされたのだ。本来、死ぬほどの罪など彼らには無かったというのに。私こそが死に値する。弟を守ることにしか存在理由を見い出せず。その役目さえ歪にしか果たせず。人の命も心も踏みにじって醜く生き延び。生きていい理由などどこにもない。


「…地獄に堕ちろ、私など」

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る