追憶 ③

 母の話を聞いて以降、選挙演説をする父の横で人々の手を握る母の姿が恐ろしく思えた。母にうっとりとした笑みを向ける人々もだ。なにしろ、母の話を信じるならばあれは洗脳と同じことではないか。母は人々に穏やかな命令をしているのだ。父に票を入れるようにと。心の底から慕う相手にそんな“お願い”をされ、裏切れるはずがない。

 “福宿し”が纏う精気は、長年にわたり祓い清めたことでどうにか常人に近づけることができたと言っていた。しかし母が纏う妖しい空気感は依然として奇妙な魅力を放っていた。抑え込んであれであれば、最初の女はどれだけ。

 今はもう、“福宿し”が村の誰もの心を掴める時代ではない。“福宿し”という言葉自体も、使う者は高齢者ばかりで廃れ始めていた。昔ならいざ知らず、人口が4桁にまで膨れ上がった現代では村の人間すべての心を操ることは不可能だ。だが、選挙カーの周囲に群がる人々の恍惚とした顔を見ると、幼心にも確信できてしまった。父は選挙に勝つのだと。実際、父は村長選をもう一人の候補者に大差をつけて勝利した。その候補者は、選挙期間中にろくな選挙活動をしなかったのだ。

 父はなぜ神職を辞し政治の道へと進んだのか。母はなぜ人々の心を操ってまで父を援助しようと思ったのか。当時の私にはわからなかった。人の道を外れた力だと言うのなら、なぜ母は力をいたずらに振りまくのかも。

 ただ、母を恐ろしく思うことはありつつも、私は変わらず母のことが好きだった。得体の知れない力を宿していると明かされても、母は母だ。あくまでも恐ろしいのは“福宿し”の力と母に憑いた霊であり、母は私にとって優しく頼りがいのある母のままだった。毎日厨房に立って美味しい料理を作ってくれて、悩み事を打ち明ければ真摯に相談に乗ってくれた母にその一件で愛想を尽かすなどあるはずがなかった。子どもというのは、根本的には親が好きなものなのだ。それからも私たちは、仲の良い母娘であり続けた。

 その母を自らの手で殺すことになるなどと、露ほども思っていなかった。



「福宿しは秀一に継がせる」


 私が二十歳を迎えた日の晩。母の部屋に私を呼び出した父はそう告げた。母は寿命があと一年となり、全身を激痛に苛まれて床に臥せっていた。そんな状態でも母は父の心配を常々口にしていた。その年はまた父の他にも、村長選の候補者が出馬していたのだ。

 父の言葉で真っ白になっていた私の頭は、母が真横で吐血したことで更なる混乱に陥った。


「な…なんでよ…お母さんが亡くなったら自動的に長女のうらが次の福宿しになる。それが定めだってお父さんも言うてたでねえ…」


 私は狼狽しながらも声を絞り出した。だって、私は覚悟を決めていたのだ。母の“福宿し”の力を受け継ぎ、呪いに体を蝕まれる覚悟も。三十年で死ぬ覚悟も。

 だって、そうでなければ秀一が呪われるじゃないか。霊障に苛まれる日常を送る羽目になる上、寿命より大幅に早く死んでしまうじゃないか。そんなこと許容できるはずがなかった。秀一は先祖の業などに関わりを持たず、平穏に生きなければならない。弟の平穏を守るためならこの身を盾として差し出してもいいと思っていた。それが私が先に生まれた意味なのだと思っていた。だって、私は姉なのだ。弟を守らなければならないのだ。

 だというのに、父は。


「…お前は傑物や。あと三十年やそこらで死がせていいもんでねえ。今の時代、七十や八十が働き盛り。お前は健康に長生きして村のために」


「秀一なら死いでもええって言うんか!!」


 思わず激昂が飛び出た。私は父の言葉を遮って声を荒げた。秀一をまるで無価値なもののように扱う父が心底許せなかった。


「いや…ほんなことは思てえん。本当や。だが…頼む。聞き入れとくんね。秀一のためなんや」


 父は苦々しい顔でそう告げると、立ち上がって部屋から出て行ってしまった。私は父の背中になおも言葉を突き刺したが、父が足を止めることはなかった。


「…守美。前に話したね?生きながらにして福宿しの力を子に移す方法…最初の女の長女がやったことや。十分な量の血をな…子に飲ませるんや。お母さんが…血を秀一に飲ましせりゃあ…ほれで守美は…福宿しを継がんくて済むんやざ」


 何度も咳き込み、言葉を詰まらせながらも母は私に言った。確かにそれは聞いたことがあった。八年前のあの日、母の部屋で。子に自らの血を飲ませて“福宿し”の力を移し、子の命ごと力を消し去ろうと目論んだ女の話。結局はそれは叶わず、女の死によって“福宿し”の力は子に継承されてしまったことも。


「継がんくて済むって…うらはほんなこと願うてえん!うらの代わりに秀一が犠牲になるなんて冗談でねえ!ほんなことで助かっても嬉しゅうもなんともねえ!」


「守美」


 必死に訴える私に、母は短く告げた。冷徹な声だった。


「今は無理やけど…お母さんの体調がようなったら秀一に血を飲ませる。秀一はまだ酒が飲める年齢でねえが…仕方ねえ…余命一年とはいえ、このぶんじゃお母さんはいつ死いでも不思議でねえでの…」


 言葉が紡げなかった。私は不規則な息を吐き出すばかりで、何を言えばいいのかも見当がつかなかった。なぜだ。“福宿し”を継ぐのは私だと、母も言っていたではないか。なぜ。


「守美…わかっとくんね…秀一も承知の上なんや…どうか…弟の願いを…」


 秀一が生贄になることを受け入れた女は何か言っていた。私の意識は、女の言葉を理解することを打ち切った。どうでもよかった。私の弟の命を蔑ろにした女の言葉など、聞く価値は無いと思った。

 二十歳の私は、その翌朝に母を殺した。

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