追憶 ②

 初めて秀一を抱いた時、折れてしまわないかと心配になったのを覚えている。生まれたばかりの弟は5歳の私が抱くにはずっしりと重かった。首がすわっていない上に四肢も細かったため、もし私が落としてしまったら折れて死んでしまうと気が気でなかった。

 だが同時に、守らなければならないと強く思った。柔らかな肌は下手に触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で、小さな体の全身を見渡してもその生命力はひどくか細かった。この子を守ってあげるのが姉である私の役割なのだと、幼心に使命感を抱いた。


「うん。守ったげての。守美はお姉ちゃんなんやでね。それにあんたの名前には、“守”の字が入ってるんやざ」


 捻木悠依ゆい。私の母は優しく私に告げた。

 母は綺麗な人だった。いつも上質な着物を身に着けていて、あらゆる所作に品があった。着物に垂れかかる黒い長髪は、まるで着物の繊維の一部かと思うほど美しい艶を放っていた。10代の頃の私が髪を伸ばしていたのも、母への憧れがあったからだ。母はいつも酒を飲んでいたが、酒を嗜む姿にさえ淑やかさがあった。私はそんな母のことが好きだった。

 私だけではない。村の者は皆、母に好意を抱いていた。当然だ。“福宿し”である母を嫌う者などいない。ただ、私の好意が肉親としての純粋な感情であるのに対し、村人たちの好意は操作されたものだった。その事実を知ったのは、私がいくらか成長した後だったが。



「健康寿命の延伸のための医療・福祉サービスの充実。子育て支援による子どもを育てやすい環境づくり。それらに注力することで安心安全な村づくりが実現できるのです。私は現職として…」


 あれは私が12歳の時。初めて月のものを迎え、夕飯には赤飯を炊くと言われた日の朝だった。まだ7歳だった秀一の手を引いて小学校に向かう途中、選挙カーの前で演説をする父と、その横で笑顔を振りまきながら人々に握手する母の姿が見えた。この活動のために、両親は私と秀一よりも先に家を出て行ったのだった。

 私の父、捻木幹弘みきひろは故郷の村で村長を務めていた。先代の村長であった私の母方の祖父が54歳で亡くなった後で立候補して当選し、村長の職に就いた。祖父は母に後任を務めてほしいと願っていたようだったが、母は自分ではなく父を推すことを選んだ。父が村長になって以降、他に立候補する者はおらず村長選はいつも父の無投票当選が続いていたのだが、その年は東京から戻って来て立候補した候補者がいた。


「うちの人のこと、応援したげておくんね」


 母に手を握られてそう言われると、老若男女誰もが恍惚とした表情でこくこくと頷いた。私はその光景を見て、母の魔性の為せる業なのだなと思っていた。ただ美しいだけでなく、母が纏う空気は常人とは一線を画していた。



 その日の晩は家族で赤飯が供された食卓を囲んだ。私は気恥ずかしさを覚えながら赤飯を食べていたのだが、その意味を知りもしない秀一は無邪気に赤飯をおかわりしていた。夕飯を食べ終えた後は風呂に入って床に就いたのだが、夜11時頃に母に起こされた。どうやら秀一が寝静まるのを待っていたらしかった。


「あんたはいずれ福宿しを継ぐのやで、この力について話しとこうと思ての。あんたも大人になったことやし」


 私が部屋を一人で使うようになったのは秀一が自分の部屋を持ちたいとねだった後のことで、この頃は秀一と二人で部屋を使っていた。私と母は秀一を起こさないようそっと部屋から出ると、母の部屋へと場所を移した。

 私はいったい何の話が始まるのかと、絵本の読み聞かせを聞く時のような期待感をもって母の話に耳を傾けた。“福宿し”という言葉は知っていた。村の老人たちが母を指してそう呼んでいたからだ。「悠依さんは福宿しやで、握手してもらやあご利益があるでの」と顔見知りの老人がその日の朝も話していた。


「福宿し…お母さんがそう呼ばれてるのは知っとるね?お母さんは福を宿したありがたい存在やとか、お母さんと握手すると運気が上がるとか、みんな言うとるやろう。あれな、全部嘘っぱちやざ」


 母の言葉は、老人の言っていたことを真っ向から否定するものだった。私はよく意味がわからず、どういうことかと聞き返した。


「この体に宿してるのは福なんかでねえ。山ほどの動物の怨霊と、呪いや。その昔に一人の女が…守美のご先祖さまがな、犬や猫を殺いに殺いて、ほの力を我が身に宿そうとしたんや」


 そう語る母の声は、一段低い響きを纏い始めた。話の内容の不穏さと相まって、まるで怪談を聞いている気分になった。私は緊張感で体を強張らせた。


「ほんな真似をした理由はな、ただ親に好かれたい。ほの一心やったんやと」



 ほの女の母はな、娘に関心が無かった。愛してはえんかった。女は惚れた男との間に成り行きでできた子どもやったが、肝心の男は病で命を落といてもた。母は義務感から女手ひとつで働き、ほの女を養うてはいた。だが親としての愛情など微塵も無かった。ほやさけぇだから、女は母の愛に飢えていた。まだ十歳の子どもやったんやでね。無理もねえ。

 女の母は我が子には笑いかけん人やったが、動物は好きやった。特に犬や猫や。寄ってくりゃあ餌をやり、優しい手つきで撫でてやった。女にはそれが妬ましかった。自分には決して見せん眼差しを、なんで犬や猫などに注ぐのか。動物は愛らしいからなのか。自分にもあんな愛らしさがありゃあいいのか。あの愛らしさはどうしたら奪える。女は次第に、ほんな思考に傾くようになった。

 守美。犬や猫はなんであんなに可愛いんやと思う?なんでああも人間に好かれてるんやと思う?

 多うの人間は、犬や猫を見りゃあ無条件で好意を示す。ほれは犬や猫がほんな精気を持っとるせいや。精気とは何かやが、そもそも生き物は体に精気ちゅうもんを纏うとるもんや。ほれは魂を体に留め、生を支えるための魂の檻。ほいて強固な鎧。ほやさけぇ、何かのきっかけで精気が揺らいでもた時は魂がひょいと出て行ってもたり、悪いもんに魂を狙われたりしてまう。

 精気の質は生き物の種や個体によって異なるが、生きとる限りは常に精気を放っとるもんや。犬や猫は人間の庇護を受けるために、進化の過程で精気の質を変化させた。無条件に人間の好意を引き出す精気や。

 なあ守美。ほんな精気を何十…何百と重ねて身に宿し、一人の人間の体に収めたら…もし、ほんなことができたらどうなると思う?

 女はそれをやった。犬や猫の皮を生きたまま…いや、詳しゅう言うのはやめとこうか。とにかく、女は犬や猫の精気をその身に取り込んでいった。毎日毎日、森の中に通い詰めて。口にするのも憚られる外法を用いて。女がなんでほんな方法を知ってたんかはわからん。そこまでは見えんからね。女に天賦の術の才があったんか、あるいは誰かの入れ知恵があったんか。後者やったとしたら女を唆した輩は悪鬼のような奴や。

 犬や猫の屍の山を築き上げ、数多の怨霊をその身に宿して精気を取り込んで。ついに女は…最初の“福宿し”は完成した。ほの精気は犬や猫のものを吸うて変質し、皆の目ぇ引くような妖しく麗しい魅力を放つようになった。凝縮された精気は、握手などの体の接触で伝達し他者の精神を乱し、触れた者に強制的に好意を抱かせるようになった。わかるやろ守美。お母さんの力の源は、ほの女や。

 女が森から出ると、一人の男と出くわした。ほの男は村の者やったが、女とは関わりが無かった。女は内気な性格やったで、他人と交流することがあまり無かった。密かに惚れとる男はいたものの、身分の違いと性格の問題とで声をかけることもできなんだ。村の者とて、わざわざ女と関わろうとする者はおらず、いつも外でうても素通りするだけやった。森の外で女と出くわした男も、普段でありゃあ足を止めることも無かったやろう。普段でありゃあな。

 男は立ち止まって女を見つめ、呆然とした。ほりゃあ驚きもする。いつも陰気な女が、ほの日は息を呑むほどの魔性を放ってたんだでな。女は男に歩み寄ると、男の手ぇを握った。

 ほの日から、男は女の良き“友人”になった。

 女の“友人”はどんどん増えていった。いつしか村の者は皆、女を慕うようになった。女が惚れとった、村一番の分限者の息子も女を好きになってな。数年経った頃に女に結婚を求められりゃあ、二つ返事で承諾した。こうして望まれず生まれてきた女は、村一番の分限者の夫人にまで成り上がった。

 ほやけど女が本当に求めたものは得られなんだ。この力は、血縁者には効かなんだでの。女がどんだけ力を尽くしても女の母の心は動かせず、ついには女の母はどっかへ逃げていった。皆が女を慕う村を不気味に思うたのか、女を罵りでもして村の者の反感を買うたのか。何があったんやと思う?

 女が嫁いだ分限者の家はな、ほいからますます豊かになっていった。単に運良う事業が成功しただけなんやが、誰かが言うた。ほの成功の要因は、女が嫁いできたでに違いないと。あの弁天のような在り様は、何かありがたいもの…福の神か何かを宿したに違いないと。えがんだ好感から生まれた妄言や。だがその時代は村の皆が“そう”やったで、誰もが女は福を宿してるのやと信じだした。いつしか女は、“福宿し”と呼ばれるようになった。

 ほいからの女は、三十歳で死ぐまで何ひとつ不自由の無え暮らしをした。かといって、女が本当に幸せやったのかはわからんけどな。本当に愛されたかった母の心は惹けなんだんやでね。それに、いつも痛みに襲われてたことやろうし。享年三十歳とは随分とみじこう思うやろうけど、当時の寿命では少し早死にという程度や。ただ、時代が下って人々の寿命が伸びるようになっても…“福宿し”ははようして死いでいった。それより早う、自ら命を絶つ場合もあった。

 女が死ぐと、女の長女に力は移った。この力は、先代の“福宿し”が死ぐとその長子に移行することがほれでわかった。もっとも生前であっても、一定量の血を我が子に飲ませりゃあその子に力を受け継がせることができるんやけどな。

 村の者は最初、女の霊が憑依したのかと疑うた。前日まで普段通りやった長女がいきなり雰囲気を変えたんやでな。ほやけど違うた。喋り方、考え方、記憶。それら全てが間違いのう長女のもんやった。ただ、精気が変質しただけ。長女に憑いたのは女の霊ではのうて、女が殺いた犬や猫の霊たちやったわけや。ほやけど周りの者はほんなこと知りもしぇんでしないからね、女に宿っていた福の神が長女に移ったのやと受け取った。新しい“福宿し”やと口々に言うた。

 初め、長女は戸惑うた。自分に対する皆の様子が急に変わったんやでね、当然や。もっとも女に植え付けられた人々の好意はあくまで女に向けたものやったで、ほの時点では長女は誰の心も操ってはえんいなかった。ただ魔性の精気を放っていただけで、強制的な好意の操作まではやっとらんかった。ほやけど長女は悟る。頭の中でな、囁くんや。触れろ触れろと、動物の声で。動物の鳴き声やで、もちろん日本語でねえ。ほれでも不思議と意味はわかるんや。ああ。ほや、お母さんの実体験やざ。

 母親とおんなじように、長女もまた皆の心を掴んでいった。ただ、長女は母親のようには生きられなんだ。三十歳になる前に死いだんや。長女は“福宿し”となった時には既に子どもがいたんやけど、長女が結ばれた相手は好きな男ではなかった。ほやさけぇか。“福宿し”の力を手に入れてから数年経った後、ついその男の手ぇを握って“本当はあんたと結婚したかったんや”と言うてもた。ただ想いを伝えたかったちゅう純粋な気持ちやったんだけどな。ほしたらその男、どうしたと思う?自分の妻を殺いて長女に求婚したんや。好意を操られた者は、時に倫理の先へと踏み込んでまう。

 長女は男の前から走り去って逃げ出し、ほの日の晩に命を絶とうとした。責任を感じたんやの。こんな力はあるべきでねえと思うたのか、長女はただ一人の我が子に力を移して、子を殺いた後で自分も死ごうと考えた。長女は刃物で手首を深う切ると、眠る我が子の口を押し開けて血を流し込んだ。そうしたら力が移ることは、頭の中で動物たちが囁いていた。当然、子どもは目ぇを覚まし抵抗した。まだ十歳たあいえ、それなりに成長した男の子や。筋力はある。長女は子どもの抵抗を受け、刃物を奪われて腹を刺された。子どもが飲み込んだ血は“福宿し”の力を受け継ぐには不十分な量やったが、長女にはほの子より上に子はえんかった。こうして長女の意に反して、次代の“福宿し”は生まれてもた。

 ただほいから、ほの子は三十歳で死いだ。ほの次の“福宿し”も死いだのは三十二歳やった。ほの頃にはもう享年三十歳といやあ十分に早死ぎの部類やった。初めの女も三十歳に死いだこともあり、一族の者は何かあるんでねえかと考え神職の者に意見を求めた。ほれでわかったのが、呪いの存在や。“福宿し”の力には、女が殺した動物たちの呪いがかけられてたんや。二十年。呪いで体を蝕まれるせいで、力を継いでから肉体が二十年程度しか持たんのやとわかった。

 神職の一族から代々伴侶を迎え、祓除を継続して行うことでどうにか寿命を延ばすことはできた。だがほれでも、未だに三十年が限界や。“福宿し”の力を宿してから三十年。ほの頃には肉体が耐え切れず死ぐ。お母さんもな、九年後には…五十歳で死ぐんや。

 覚えておくんだざ、守美。女に殺された動物たちの霊は、憑いた者の…ほいて一族の不幸を望んどる。心に付け込まれれば破滅を辿るだけ。気ぃ付けなならん。そもそも人の道を外れて得た力や。厄をもたらすのは当然かもしれんがな。

 さらに、これを憑けりゃあたびたび全身にひどい痛みが走る。酒で清めりゃあ痛みは治まるが、ほれでも強い精神力が無けりゃあ耐えられん。お母さんが死ぐ時には守美は二十一歳やの。強い大人になるんやざ。

 …なんでこんなに見てきたかのように語れるかって?守美もこの力を継ぎゃあわかるざ。

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