追憶 ①
眠れない。床に就く前にロング缶を2本飲んだのだが、全身を突き刺す激痛に苛まれて入眠どころではなかった。霊障だ。夜になると霊障が強まるのは毎日のことだが、夜遅くになると痛みがいっそう酷くなる日が時折ある。ここ最近はその頻度が高くなってきていた。私は秀一を起こさないよう必死に声を抑えながら静かに体を起こした。激痛に耐えるこんな姿を秀一に見せるわけにはいかないから、こういう時は外に出て痛みが治まるまで公園で時間を潰す。
眠れない時のために、病院に行って睡眠薬を処方してもらうべきかもしれない。そう思うことはありつつも、未だに行けずにいた。睡眠薬とアルコールの飲み合わせは禁忌だ。夜に酒を飲めなくなれば、今より夜間の霊障が強まるかもしれない。いや、酒を飲んでも抑えられない時があるのならば同じことではないか。いや待て、こんな痛みでは睡眠薬を飲んでも眠りにつけるかわからない。体の不調のあまり、思考がまとまらなかった。
私は米びつを開き、生米を手でひとすくいした。冷蔵庫から取り出したグレープフルーツのチューハイのロング缶を開け、酒で生米を胃に流し込んだ。続けて1グラムずつ個包装された塩の小袋を2袋開け、塩を口の中にさらさらと落とした。こちらも酒を用いて、粉薬を飲む要領で飲み込んだ。アルコールと炭酸と塩分の刺激で舌がひりひりとしたが、おかげで多少は霊障が和らいだ。
基本的には霊障に襲われても酒を飲めば症状が治まるのだが、霊障がひどい時は酒だけでは不十分で、生米や塩にも頼らなければならない。こんなことは秀一には隠し通さなければなと、秀一の微かないびきを聞きながら強く思った。私がいつも霊障に苛まれていて、いずれこの身を呪いに侵されて死ぬのだなどと。そんなことを話して心配をかけたくはない。私はコートを羽織り、ロング缶を手に持ったまま事務所を出た。ドアの鍵を閉め、夜の街へと歩き出していった。
今年の春は日中が暑いぶん、夜の冷えは厳しく感じる。飲酒による体の冷えも相まって、私は身を縮こませながら道を歩いていた。コンビニに辿り着くと、私は酒売り場に直行した。買い物カゴに入れたのは、冷蔵ケースからは度数9%のビールと角ハイボールのロング缶を1缶ずつ。常温の酒売り場からは、瓶入りの韓国の焼酎を1瓶とストロー付きの辛口日本酒を1パックだ。つまみは要らない。アルコールの巡りが遅くなる。酒だけが入ったカゴをレジに持っていくと、疲れた顔の外国人男性の店員が私の顔を一瞥して商品をスキャンし始めた。そういえば年齢確認をされなくなったのはいつからだったかと、寂しさを覚えながら代金を支払った。
コンビニから出ると、私はビールの缶を開けて歩き出した。このコンビニから公園までは、九段下方面に向かって徒歩10分ほどだ。公園内には桜の木が多くあり、よく晴れた春の夜は夜桜が綺麗で花見酒が捗る。だが今では桜は全て散ってしまっていた。今年は散るのが早かった気がする。私は花見酒があまりできなかったことを残念に思いながらビールに口をつけた。
ずきりと背中が痛んだ。背中に牙を立てられたような鋭い痛みだった。私は思わずビールを噴き出してしまい、その場にうずくまった。幸いにも痛みはその一度きりで治まったが、公園まで歩く気力は削がれてしまった。私はそこから少し先にあるオフィスビルの前にあるパブリックスペースで足を止め、ベンチに腰を下ろした。酒が入ったレジ袋をベンチに置き、再びビールを飲み始める。
サイレンの音が響いた。左から近づいてくる。私が顔を上げると、しばらくして消防車が目の前の道路を走り抜けていった。どこかで火事が起きたのだろう。
突然、ずきりと頭が痛んだ。頭の奥底に棘が生えた感覚の、刺すような激痛だった。これは霊障によるものではない。静かな夜に自分の荒い息が響くのを聞いた。突如として起こったフラッシュバックは、遠い昔の記憶を鮮明に映し出した。滴る血。鉄の味。握った手。顔を赤らめた男。燃える家。頭に響く鳴き声。初めて飲んだ酒。泣きわめく秀一の顔。
「…秀一」
私は必死に意識を切り替えようとした。忌まわしき記憶よりも更に昔の、暖かな記憶を呼び起こした。
秀一。秀一。私の弟。私の可愛い弟。守るべきもの。そうだ。あの日、私が守ると決めたのだ。
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