捻木姉弟

急襲

 深夜1時半、尿意で目を覚ますと隣に寝ていたはずの姉さんの姿が無かった。コンビニに行ったのだろう。深夜に突発的にコンビニに酒を行くことが姉さんにはよくあった。緑茶ハイやコーラサワーなど、冷蔵庫に無い酒がどうしても飲みたくなる時があるらしい。それなら色々な種類の酒を1缶は常備しておけばいいのにと思うのだが、酒飲みの心理というものはよくわからない。

 コンビニで酒を買うだけでなく、近所の公園で酒盛りをしてから帰ってくるのだから始末に負えない。以前、深夜2時には布団にいなかった姉さんが早朝5時に帰ってきたことがある。何をしていたのかと問い詰めたところ、公園で酒を飲んでいたと答えられた。いくらなんでも深夜の公園で女性が一人で酔っぱらうのは危険だ。俺はさすがに姉さんを叱ったのだが、姉さんが行動を改める様子は無かった。どうしようもない酒飲みだ。

 俺は布団から出てトイレに向かい、用を足した。夕食の際に飲んだマルチビタミンのサプリの影響で、尿の色は真っ黄色だった。サプリは姉さんの不健康ぶりに危機感を覚え、自分は健康に近づこうと最近飲み始めたものだ。ビタミンのサプリは食後に飲むと吸収率が高まるのだが、この尿の色を見るのはまだ慣れず少し気恥ずかしい。飲むタイミングを朝に変えようかと思いながら、俺はトイレを出た。

 ドアノブをがちゃがちゃと鳴らす音と、ドアを叩く音が事務所に響いた。薄暗い景色の中に、事務所のドアが軽く揺れているのがぼんやりと見える。姉さんが帰ってきたようだ。今晩は相当に酔っているらしい。普通に鍵を開ければいいだろうに。まさか鍵を落としてきたんじゃないだろうな。まあ姉さんは酔っていても物の管理はしっかりしているから、それは無いだろう。俺はため息を吐きながら、ドアの鍵を開けた。

 ドアを開きながら、そこでふと思った。いや待て。これは本当に姉さんか?不審者の可能性だってあるだろう。だというのに俺は一切疑いを持つことなく鍵を開けてしまっていた。


「こんばんは」


 その男は俺が開きかけたドアを勢いよく開き、事務所に押し入ってきた。男は突然の事態に面食らう俺の頭を右手でがしりと掴んだ。その途端、俺の体は一切の身動きが取れなくなった。突如として金縛りが起こってしまったかのようだった。


「夜分遅くに失礼いたします。一昨日、ちらりとお会いしましたね」


 なんのことだと一瞬思ったが、記憶の糸を辿ってすぐに思い出した。月曜日、空代家のアパートで見かけた男だ。今夜の男のスーツはあの時着ていたグレーのものではなく、闇に溶け込むような黒いスーツだった。だが男の髪型と鋭利な眼差しは確かにあの時見たものだった。暗闇の中に、男の銀縁の眼鏡がぼんやりと怪しく光っていた。


「お姉さまが出かけられたようでしたので。秀一さんにお話をお聞きする好機だと思いまして」


 気味の悪いことに、男はなぜか俺の名前を知っていた。話を聞くと言いながらも、男が俺に何か質問する様子は無かった。


「あなたがたが余計なことを探るとね、希実さんの平穏が乱される。契約に従い目障りなあなたがたの口を封じる必要があるのですが…しかしそれ以上に」


 いや違う。こいつは、俺の頭の中を探っているのだ。男の手が俺の頭蓋骨を通り抜けて、脳の中を漁っているような感覚だった。俺の意識の中に、記憶が勝手に浮かび上がっていく。記憶…俺ははっと気づいた。まさかこの男が記憶の怪異?こいつが“おさるさま”とやらなのか。


「先日、お見かけした時ね。とても心を惹かれたのです。あなたのお姉さまにね。なんて珍しいものだ。あれはどんな味がするのだろうと。美味しそうなものを見たら食べたくなるのは、当たり前でしょう?」


 無理やりに脳を動かされていることで猛烈な嘔吐感に襲われたが、胃の内容物がせり上がってくる気配は無かった。胃が固まって、胃の動きさえもが制限されている感覚がした。額に脂汗を滲ませ、喉の奥の不快感に眉をひそめながら俺は頼むから早く解放してくれと願うことしかできなかった。


「捻木秀一。年齢は23歳。特別な力は無し。それなりに美味しそうではありますが…やはり姉と違って、取り立てて特徴も無い普通の人間か」


 男の言葉は、俺自身には一切関心が無いとでも言うような平坦さを帯びていた。姉さんと比較して、俺が普通の人間であることを嘲るように呟いた。俺は頭がかっと熱くなるのを感じた。うるさい。それを言うな。俺がその言葉にどれだけ苦しめられてきたか。いや、俺の記憶を読んでいるというのなら、こいつはわかった上で言っているのだ。悪魔め、と俺は心の中で毒づいた。


「捻木守美。28歳。へえ…なるほど、好意の増幅。なんだ、それ以上は何も知らないのですか。あれだけ憑けていて…まあ、気づくはずもないでしょうね。わざわざ話す理由も無い。話したところで、なんの力も無い弟では何もできやしない。頼り甲斐が無い」


 何を言っている?俺が何を知らないって言うんだ。なんでこんな奴に好き勝手言われなければならないんだ。俺の心には男への怒りと、体を自由に動かせない苛立ちとが渦巻いていた。


「思っていたより使えなかった。情報源としては期待外れでした。せっかく来たのに、彼女に触れても危険は無いのかさえわからないとは。ああいうものは下手に干渉できませんからね。まあいい。もうひとつ面白そうなものを見つけましたしね。それに、大事なことはわかりました」


 男は俺の頭から手を離すと、俺の頬をばしりと平手打ちした。その瞬間、俺の意識は急速に朦朧としていった。

 俺はよろめいてしまい、事務所のソファに倒れ込んだ。


「どうやら彼女の急所は」


 ひどく眠い。見知らぬ男が何かを言っている。夢か何かだろうか。どうでもいい。今はただ眠りに落ちてしまいたかった。


「あなたのようだ」


 俺は意識を手放した。

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