平穏

「あいつを消してください。おさるさま」


 そう言ってから、はっと気づいた。私の嫌いな人を消してくれると言うのなら、霧華お姉ちゃんよりもお父さんのほうがずっと消してほしい。だって、より実害があるのはお父さんなのだ。

 私は慌てて訂正しようとした。


「あ…あの…!やっぱり言い直していいですか。私、霧華お姉ちゃんも嫌いだけど…それよりお父さんを消してほしくて。だから今のは」


「駄目ですよ」


 おさるさまは人差し指を私の唇に押し当て、私の言葉を止めた。おさるさまの指先は体温を感じなくて、死人のようにひんやりとした感触だった。


「契約は、契約。やはりやめたは通りません。あなたは今、お姉さまを消してほしいと願いましたね。それを覆すことはできません。ですがお姉さまの後でよいのなら、お父さまも消して差し上げましょう」


 おさるさまの言葉には、有無を言わさぬ力強さとぞっとするような冷酷さがあった。私は唇からそっと離されていく人差し指とおさるさまの顔を交互に見つめながら、こくこくと頷いた。そんな私の様子を見て、おさるさまはにっこりと微笑んだ。


「それでは対価のお話をしましょうか。お姉さまを消す対価はあなたの頭に記憶を流し込んだ際に、一緒にお伝えしましたね。あなたの体が欲しい。それをあなたは了承した。さてお父さまを消す対価ですが」


「…その前に、もうひとつ。私はずっと、平穏な生活に憧れてました。誰に脅かされることも無い、穏やかな暮らし。そういうものが、ずっと欲しかった。お父さんに奪われ続けていましたから。でも…お父さんがいなくなれば平穏に暮らせるはずだって、そう単純には思えないんです。平穏というものが未知のものだったからこそ、それを容易に手にできる気がしないんです」


「ああ、なるほど」


 おさるさまは、私が言わんとすることを察したようだった。


「最終的に、私が差し出せるものなら全て差し出します。それで賄える範囲の年数で構いません。私を守ってください。何者にも脅かされない、平穏な暮らしをさせてください」


「10年」


 私の右のまぶたがぐいっと開かれた。おさるさまは私の右のまぶたに二本の指を当て、まぶたを指で広げた。そして右目の瞳孔に視線を注ぎ、値踏みするような目つきで覗き込んできた。


「これであれば10年といったところです。あなたの価値はね。10年後のあなたは24歳。10年の平穏と引き換えに人生を縮めても良いと?」


「かまいません」


 10年。それで一向にかまわないと心から思った。10年後といえば大学を卒業して少し経った頃。10年後の私が労働どころか就活さえ乗り切れるイメージも湧かないし、まともな職に就けるはずもないだろう。苦しい大人の人生を歩んでまで生きていたいとも思えなかった。

 それなら、その10年の間おさるさまに守ってもらって、もう誰にも虐げられない暮らしをしたほうが余程いいと思った。


「いいでしょう。契約は成立です」


 おさるさまは満足気に笑った後、ふと気になった様子で私にひとつ問いかけた。


「ですがそれであれば、お父さまを消す必要は無いかと思いますが」


「いいえ。消してください」


 私はきっぱりと言い放った。確かに、おさるさまが守ってくれるのであればお父さんを消してもらう必要は無いのかもしれない。だけど、それでは私の気が収まらなかった。存在ごと消してやりでもしないと、今まで虐げられ続けてきた私の報復に釣り合っていないと強く思ったのだ。


「霧華お姉ちゃんを消し終わったらでかまいません。お父さんを消してください。私の平穏の保証は、お父さんを消してからでいいです」


 平穏の契約をその日から開始すれば、もうお父さんに殴られなくて済んだのかもしれない。お父さんを消さずに済んで、お母さんが憔悴することも無かったのかもしれない。それが正しい選択だったのかもしれなかった。でも私はこの選択を取った。お父さんが消えた日に新しい人生のスタートを切ろうと思った。なにせ、命を差し出すのだ。より解放感を得られる選択を取りたかったのかもしれない。


「では、お父さまを消す対価をお聞きしましょうか。あなたは何を差し出しますか?」


 おさるさまが欲しがるものは何か。あの記憶を覗いた私には、それが何かを察することができた。私の答えはきっと正解だったのだろう。私が告げた言葉に、おさるさまは笑みを浮かべた。


「お母さん」




 点滴を終え、会計を済ませてふらふらと病院を出た。ここから歩いて帰る気力は無かったため、タクシーを呼んで帰ることにした。

 捻木さんのメールと希実の日記を読んで、思わず叫び出してしまった。あんな内容だ。当然だ。私の元に飛んできた看護師に、私は荒い息で「なんでもないんです」と言って謝った。なんでもないはずがなかった。夫は“おさるさま”という怪異とやらに取り殺されて、その死に希実が関わっている?意味がわからなかった。いや、納得できる部分もある。ここ最近の希実は、なんというか異質だった。明るくなったこと以上に、何か得体の知れない雰囲気を漂わせていた。

 希実が日記を書いていることなんて知らなかった。私たちに隠れて書いていたのだろう。それとも、勉強しているフリをして書いていたのかもしれなかった。あの日記に書かれていた“おさるさま”というものについては全く理解できなかったが、文面からは希実の感情は十分に読み取れた。いったい希実の中にどれほどの激情が渦巻いていたのか。私がどれだけ希実のことをよく見ていなかったのか、痛いほど突きつけられてしまった。

 とにかく、希実と話をしなければならない。雲晴のことについて問い詰め…いや、違う。そうじゃない。希実の話を聞くのだ。これまで目を逸らしてきてしまった分、希実にちゃんと向き合うのだ。私にできることはそれしか無いし、それが親として私のすべきことなのだ。

 私を乗せたタクシーがアパートの前に着いた。私は代金を払い、運転手に礼を言ってタクシーから降りた。階段を上って部屋の前に着くと、カバンから鍵を取り出してドアの鍵穴に差し込んだ。

 まだ昼前だ。希実が帰ってくるまでには時間がある。とりあえず自分の昼食を作るとして、その後で買い物に行って希実の好物をいくつか作ってあげようと考えた。


「おかえりなさい」


 私は恐怖のあまり悲鳴を上げた。リビングの椅子には男が座っていた。グレーのスーツと銀縁の眼鏡を身に着けた、七三分けの髪型のビジネスマン風の男だ。


「だ…だれ…?警察…警察呼びますよ…!」


 目の前の男に対し、私は必死に語気を強めようとした。しかし声が震えて思うような声が出なかった。私は腰が引けたまま、鍵の先端を男に向けて威嚇していた。こんなものが武器になるはずがないのだが、手持ちの荷物には他に使えそうなものが無かった。


「誰とは寂しいことをおっしゃる。以前にもこの姿でお会いしましたし、何よりずっと一緒にいたというのに。まあ、認識しているはずがないのですがね」


 男は意味のわからないことを言い、立ち上がった。かなりの長身だ。180cmはあるだろうか。襲われたら私では対抗できない。男は悠然とした笑みを浮かべながら、ゆっくりと私に歩み寄って来た。


「こ…来ないで…!」


「霧華さんを消した対価は、希実さんに私の分体を憑けさせていただくことでした。そしてご主人を消した時の対価があなたへの分体の憑依。これは器の肉体が不慮の事故などで機能停止した際の保険なのですが、本人か血縁者との契約無しにはできませんからね」


 男の言葉はなおも理解不能だった。霧華?霧華って誰のこと。いや待て。今、この男は「ご主人を消した」と言った。じゃあこいつが。こいつが雲晴を。


「ですが分体はあくまで分体。記憶への干渉はできません。契約者の了承を取った上での干渉なら分体でも可能ですが、あなたの記憶を好き勝手に消すことは分体の力では不十分。ですからこうして、本体で出向く必要があった」


「もうひとつの契約、平穏の保証にはね。希実さんの精神の安寧も含まれる。あなたが余計なことを知ると、希実さんの平穏が脅かされるのです」


 男はもう眼前に迫っていた。手に持った鍵を突き刺してやろうと思ったのに、私は少しも動けなかった。恐怖で体が硬直していた。

 男は私の頭にぽんと手を置いた。


「大変申し訳ないのですが」


「契約は、契約ですからね」


 脳の一部分が崩れ落ちていく感覚を抱きながら、私は意識を手放した。




 目が覚めてスマホで時間を確認すると、もう夕方の5時だった。頭がずきりと痛んだ。今日はいったい何をしていたんだっけ。日中の記憶が無い。

 ということはまさか、昨日からぶっ通しで20時間も寝ていたのだろうか。いや、確か朝は一度起きたはずだ。トーストにマーガリンを塗って食べたのを思い出した。その後は?まさか布団に戻って二度寝をしてしまったのだろうか。そうとしか思えなかった。私は自分の怠惰を責めるとともに、ここ最近の疲労を思えば仕方が無いと思い直した。

 スマホの上部をスクロールし、通知欄を確認した。LINEと新着メールが届いていたが、それぞれコンビニの公式アカウントと国税庁を騙る迷惑メールだった。それ以外に重要なメッセージは届いていなかった。

 リビングから物音がした。シンクの蛇口の水音だ。そうだ。もう希実が学校から帰っている時間だ。私はのっそりと起き上がり、リビングに顔を出した。

 希実は今朝食べたトーストの皿を洗い終わったところだった。そういえばトーストを食べたきりシンクに放置していたのだった。希実は皿を乾燥台に置くと、こちらを振り向いて微笑んだ。


「ただいま」

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