空代雲晴 ③

 花菜がいなくなった実感も無いまま、流れ作業のように葬儀を済ませた。全てに現実味が無かった。霧華と希実は葬儀の間もひどく号泣していた。娘たちにこんな幼い頃から肉親の死に触れさせてしまったことが心苦しかった。私がちゃんとしていればと、自分を呪わずにはいられなかった。人が死ぬとはどういうことかを幼くして知ったことで、娘たちが優しい人間に育ってくれると信じることがせめてもの心の慰めだった。



「霧華をお義父さんとお義母さんに預けるってのか…?」


 その話を切り出した時、雲晴は愕然とした顔を浮かべた。

 とても可愛がっていた花菜を亡くしたことで、私の両親は失意のどん底にあった。ましてや、花菜は自分たちの家に向かう道中で命を落としたのだ。両親は責任を感じ、母に至っては食事も喉を通らない状態になっていたようだった。

 そんな時、父から「霧華をうちで育てさせてくれないか」という申し出を受けた。花菜を亡くして憔悴する母を見かねての言葉だった。元々、両親は霧華のことも花菜と同じくらい気に入っていた。霧華はとても明るい子で、花菜によく似ていた。そんなところが両親の気を引いたのだろう。今の家の暗い空気も、霧華の明るさに照らしてもらえば払拭できる。父はそう考えたのかもしれなかった。

 雲晴は最初、その申し出に難色を示した。当然だ。大事な長女を事故で亡くした直後に、次女を我が家から送り出すなど承服しかねるに決まっている。だが雲晴は、苦渋の決断の末に霧華を預けることに決めた。雲晴は、私の両親ととても良好な関係を築いていた。そんな両親が憔悴する姿を、雲晴は不憫に思ったのだろう。お義父さんとお義母さんが笑顔を取り戻せるならと、雲晴は霧華を両親の家に送り出した。


 花菜が亡くなり、霧華が家からいなくなった。それ以降も雲晴はしばらくの間、表面上は努めて明るく振舞ってくれていたと思う。自分は一家の大黒柱なのだから暗い顔をしているわけにはいかないと、笑顔で希実の頭を撫でながら言っていた。だが、あれは精一杯の虚勢だったのだと思う。きっと本音では、あの時すでに心に深い傷を負っていたに違いない。花菜が亡くなる原因を作った希実や、二人をちゃんと見ていなかった私への怒りが確かにあったに違いない。そうでなければ、希実に向ける雲晴の微笑みにあんな陰りがあったはずがない。

 だから、雲晴の精神の均衡はふとしたきっかけで壊れたのだ。



「花菜の代わりにお前が死ねばよかったんだ!!」


 あれは本当に、大したきっかけじゃなかった。希実が小学校に上がる少し前のことだった。夕食の時、希実がテーブルに足をぶつけた衝撃で、雲晴のお茶碗が床に落ちて割れた。その程度のことだった。それなのに、雲晴は烈火のごとく怒って希実の頬を平手打ちした。

 あまりのことに、私はどう反応していいかわからず固まっていた。叩かれた希実が泣き出したことではっと意識を取り戻し、「そんなに怒らなくてもいいじゃない」と雲晴に言おうと思ったはずだった。でも、私はその言葉を口に出すことはなかった。言えなかったのだ。雲晴の怒りの矛先が私に向くことを恐れて。私は我が身可愛さに、娘を庇うことを避けてしまった。

 雲春は食事を中断して、缶ビールを持ってリビングを出て行った。寝室に向かったようだった。私はなおも泣きわめく希実をようやく宥めながら自分に言い聞かせた。大丈夫。今日の雲晴は仕事で大変なことがあって、精神的に張りつめていただけだ。明日になればまた元に戻る。希実にも謝ってくれる。願望じみたそんなことを、私は就寝前にも雲晴の寝顔を見ながら再び心の中で呟いた。

 でも駄目だった。その一件以来、雲晴はすっかり希実に優しくすることをやめてしまった。一度でも一線を越えてしまったことで、雲晴の中で何かがおかしくなってしまったようだった。きっと、ずっと思っていたのだろう。希実がボールを落とさなければ花菜が死ぬことはなかった。花菜が亡くなったのは希実のせいだ。花菜の代わりに希実が死ねばよかったんだと。もちろん、最初はそこまでの感情は抱いていなかったのだろう。でも、雲晴の中では不条理に花菜を亡くしたことへの嘆きが渦巻いていたに違いない。きっとその結果、希実への鬱屈した感情は次第に膨れ上がり、ついには爆発してしまったのだ。もう、希実に当たらなければやり切れなくなってしまった。

 それからの雲晴は、事あるごとに希実を叩いた。酒に酔って罵詈雑言を吐いた。時にはいないもののように扱った。だけど私に対する態度はあまり変わらなかった。だから私なら止められるんじゃないかと思い、一度だけ「希実に当たらないで」と雲晴に言ったことがある。最後まで言い終わらないうちに顔を強く叩かれた。それ以降はもう、二度と同じことは言えなかった。言おうとしてもあのひりひりとした頬の痛みと、ずきりという心の痛みが蘇ってしまい、言葉に詰まってしまうのだ。

 離婚すべきだったのかもしれない。希実を連れて、両親や霧華と一緒に実家で暮らすべきだったのかもしれない。だけど私にはその選択ができなかった。どんなに変わってしまっても、娘に手を上げるようになってしまっても、私は雲晴を愛していた。愛する夫と愛する娘を天秤にかけて、夫を選んだのだ。結局、私は自分の感情を優先して娘を守ることもできない駄目な母親だった。

 きっと、罰だったのだろう。夫が消えたのも、そんな私に対する罰が下った結果なのだ。

 

 

 

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