空代雲晴 ②
狭いながらも楽しい我が家。そんな日常がずっと続くと思っていた。花菜と霧華と希実が仲良く遊んでいて、リビングに明るい笑い声が響き渡って、そんな様子を私と雲晴が笑って見つめていて。
そんな些細な幸せは、あっけなく壊れていった。あの日、花菜が亡くなった日に。
風の強い日だった。その日は、私の両親が暮らす家に花菜と希実を連れて行く予定だった。当時ふたりは5歳と2歳で、3歳だった霧華は幼稚園に預けていた。花菜も幼稚園があったのだが、両親の都合に合わせてその日は休ませた。両親は初孫である花菜をいたく可愛がっており、両親が揃って家にいる日は家に遊びに来させるよう私に頼み込んでいた。希実は子どもの頃から内向的な性格だったせいか両親は花菜ほどは希実を可愛がってはいなかったのだが、2歳の子どもを自宅で留守番させておくわけにはいかないためいつも一緒に連れて行っていた。
希実は家から出ることが好きではないものの、キャラクターの絵柄入りのおもちゃを持たせれば大人しくついてきてくれた。その日に希実が持っていたのは、ボール転がしの知育玩具のボールだった。人気キャラクターの顔がプリントされているものだ。
小さい子どもから目を離すと何が起きるかわからない。だから私は、いつも両手で花菜と希実と手を繋いで歩いていた。両手が塞がってしまうことは多少不便だったが、子どもを事故に遭わせるリスクを回避できるならば些末なことだった。
そう思っていたのに、私はついふたりから手を放してしまった。
「すみません。道をお聞きしたいのですが」
両親の家に向かう道中、地図を持った老人に話しかけられた。穏やかで上品な雰囲気の女性だった。聞けば、孫に会うために娘夫婦の家に向かっているのだが、東京に来るのは初めてで道がわからないと言う。私は困っている老人を見捨てることは忍びなく、老人が手に持つ地図に視線を落とした。しかし地図は表示が細かく、覗き込むだけではよく見えなかった。私は花菜と希実に「車とか危ないから動かないでね」と断りを入れた上で、ふたりの手を放して両手で地図を持った。顔のすぐ近くまで地図を近づけることで、ようやく現在位置と目的の場所が把握できた。
私は老人に道順を教え、礼を言って立ち去る老人に笑顔で手を振って見送った。そして振り返り、視線を下方に落とした。再び娘たちと手を繋ごうとした。
下を向いた私の視界に入ったのは、走り出した花菜の姿だった。視線をその先に移すと、希実がボールを追いかけているのが見えた。風に吹かれて、ボールを取り落としてしまったのだろうか。そこまで鈍い思考を進めた私は、愚鈍にもそこに至って悲鳴を上げた。ボールはすでに車道に転がりこんでいて、希実はあと一歩で車道へと入ってしまうところだった。一刻も早く希実を止めなければならない。にもかかわらず、私の体は硬直して足が前に進まなかった。まるで足の動かし方を忘れてしまったかのようだった。自分は極大のショックを受けると体が固まってしまうのだとこの時知った。この時の自分を、私は生涯恨むことになる。
一歩も動けなかった私に対して、花菜の動きは速かった。日頃から幼稚園でもかけっこが好きな子だった。花菜の走り方は、希実のとてとてといった動きよりも数段素早かった。花菜は希実に追いつくと、希実の両肩を強く掴んでぐんと引き寄せた。そのまま方向を回転させ、希実の体を歩道側へと放り投げた。
そこで、花菜はバランスを崩した。希実が落としたボールが車のタイヤに押しつぶされ、ばきりという音が鳴った。
続けざまにもうひとつ、大きな音が鳴った。
通行人の悲鳴と希実の号泣を聞きながら、私は目の前の光景が悪い夢か何かであってくれとただ願うことしかできなかった。車道に広がる鮮やかな赤色を、呆然と見つめていた。
「お前がついていながら何やってたんだ!!」
雲春は私の頬を力いっぱいに叩き、私を罵った。私はその衝撃で床に倒れてしまった。起き上がる気力も何か言い返す気力も起きず、ぽろぽろと涙を零しながらごめんなさいと壊れたレコードのように繰り返した。雲晴はなおも何か言おうとしていたようだが、続く言葉は出てこなかった。雲晴は声を押し殺して泣いていた。
その日の晩、雲晴は冷蔵庫にありったけのビールを飲み干して半ば気絶のように眠りについた。いびきを立てながらも時折ひどく魘される雲晴の寝顔を、私は一睡もできないまま一晩中見つめていた。
私の記憶の限り、あれが雲晴が酒に溺れた最初の日だった。
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