悪夢 ②

「まずは制服の泥を落としましょう。完全には落ちないでしょうが、そのままではあまりに痛ましい」


 猿山さんは私を相談室に連れて行き椅子に座らせると、私の制服の汚れを拭いてくれた。私は申し訳なくて自分でやると言ったのだけど、猿山さんは優しく微笑んで「ではスカートはお願いします」と言った。

 猿山さんに泥を拭き落としてもらいながら、私は相談室の風景を見回した。壁には家庭相談センターのポスターや子どもが描いた楽しげな絵が何枚もセロテープで張られていた。絵はさっきの部屋に貼りきれなかったぶんをこの部屋に張っているのだろうか。相談室は四方を白い壁で覆われた部屋で、部屋の中心にテーブルと椅子が置かれている。壁に貼られたものが無ければかなり殺風景になっていただろう。刑事ドラマで出てくる取調室に似た雰囲気のような。そんな場所では緊張感が生まれてしまい、相談なんかする気持ちにはなれないかもしれない。それを防ぐためにポスターや絵で壁を彩っているのかもしれなかった。


「しかし…ああもちろん、差し支えなければでかまいません。いったい何があったのですか?泥のつき具合から察するに、ただ転んだだけのようではありませんが」


 猿山さんは私の背中の汚れを拭き終わると、私の向かいの椅子に座って問いかけた。とても心を落ち着かせる声色だった。私はスカートのお尻の部分を拭きながら、迷いつつも猿山さんの質問に答えた。


「霧華お姉ちゃん…私の姉なんですけど。その人に突き飛ばされたんです。それで、雨の中で背中から地面に倒れちゃって。泥だらけになっちゃって。霧華お姉ちゃんはそんな私を何度も蹴ってきて…」


 話しながら、霧華お姉ちゃんに蹴られた時の記憶が蘇ってきた。私は怖くて、情けなくて、ぽろぽろと涙をこぼしてしまった。そんな私に、猿山さんはハンカチを差し出してくれた。とても高級そうなハンカチだ。使うのが躊躇われたけど、猿山さんがにこりと微笑んで「どうぞ。お使いください」と言うので、私はそのハンカチで涙を拭った。ハンカチからはいい匂いがふわりと香った。


「お姉さまは、日常的にあなたに暴力を?」


 猿山さんは眉根を寄せ、心配そうに聞いてきた。私は猿山さんが醸し出す安心感のおかげで、泣くのをやめて自然に話すことができるようになっていた。


「いえ…いつもは暴力は無いんです。ただ、私に悪口を言ってくるくらいで。霧華お姉ちゃんは私のことをサンドバッグ…っていうか、ストレスのはけ口にしているんです。それでいつも私のことを馬鹿にしてきて。今回蹴られたのは、霧華お姉ちゃんがすごく怒っていたからです。霧華お姉ちゃんが彼氏に振られるところを私が偶然見ちゃって、それで、笑ってただろって言いがかりをつけられて」


「それはお辛いでしょうね。暴言も立派な暴力のひとつですよ。限界を迎える前にこうして相談に来ていただけて本当によかった。ところで、お姉さまは家でもそうなのですか?」


「あっ、私たちは姉妹といっても同居はしていないんです。霧華お姉ちゃんは、祖父母の家に住んでいて。子どもの頃からそうだったので、一緒に住んでいた時の記憶はあまりありません。霧華お姉ちゃんが私に悪口を言ってくるのは、いつも外なんです。学校の中では私を無視するんですが、下校している時に私を捕まえて」


「なるほど。お姉さまが、あなたに優しくしてくれる時は?」


「…ありません。いつも意地悪で。自分勝手で。私のことなんてゴミか何かのように思ってる感じで。自分は裕福な暮らしをしてるからって自分のことをお姫様か何かかと勘違いしてて…私を見下してきて。姉らしいことなんて、してくれたことはありません。正直、嫌いで…妬ましくて…憎んでいるまであります」


「憎んでいる」


 その言葉に、猿山さんはぴくりと反応したようだった。私はぱっと猿山さんの顔を見つめた。猿山さんは一層の微笑みを浮かべていた。今の言い方は良くなかったかもしれないと、私は内心で慌てていた。


「お姉さまのことを、憎んでいると」


「あっ…いえ…言い過ぎたかもしれません…なんでもないんです」


「いいのですよ。話したいことは正直に言っていただいて。ここは相談室ですからね。気兼ねなく、思いの丈を吐き出してください」


 猿山さんは私に話の続きを促した。確かに話したいことは山ほどあった。私がこれまで、霧華お姉ちゃんにどれほど嫌な思いをさせられてきたか。だけど、初対面の猿山さんにそれを話すことには躊躇いがあった。猿山さんの雰囲気はとても話しやすいのだけど、それでも。それに、口にすることで辛い感情が蘇ってきてしまう気もした。


「もしお話しするのが辛いようでしたらかまいませんよ。こちらで読み取らせていただいてもよろしいですか?」


 読み取らせていただいても?それがどういう意味か、私にはよくわからなかった。思わず聞き返した私に、猿山さんは再び言った。


「よろしいですか?」


 私は思わず頷きながら「はい」と答えた。猿山さんの言葉に気圧されて、つい肯定的な返事をしてしまったのかもしれなかった。読み取るとはどういうことかよくわからなかったが、カウンセリングのようなことでもするのだろうかと思った。


「ありがとうございます」


 困惑する私の頭に、猿山さんは手を置いた。傍から見れば、頭を撫でられているように見える姿勢になった。

 その瞬間、私は脳の中心が勝手に動き出したような感覚を抱いた。自分の意思に反して脳が強制的に動かされている。記憶が早送りのテープのように再生されていく。そんな感覚に嘔吐感がこみあげてきた。私の記憶の中から、霧華お姉ちゃんに関する記憶を漁られている感覚があった。それらの記憶が私の意識をスクリーンにして鮮明に映し出されていった。

 もうとっくに忘れていた、私が1歳くらいの頃に仲良く遊んでた時のこと。花菜お姉ちゃんと霧華お姉ちゃんが私におやつを分けてくれた時のこと。花菜お姉ちゃんが亡くなって泣き叫んだ時のこと。霧華お姉ちゃんがおじいちゃんとおばあちゃんの家に引き取られていった時に、寂しげにこちらを見ていた時のこと。家に行った時、大きな部屋を自慢してきた時のこと。はじめて貧乏って言われた時のこと。ランドセルを無理やり開けられてテスト用紙を見られた時のこと。塾のテキストを見せびらかしてきた時のこと。運動会で、私のお弁当を見てふっと笑ってきた時のこと。中学校に入学した日に、友達と楽しそうにしてる霧華お姉ちゃんを見かけた時のこと。ああなりたいと思ったこと。体育のテストがあるのにお父さんに体操服にビールをかけられた日、頼み込んだら体操服を貸してくれた時のこと。とても良い匂いがしたこと。お母さんが風邪で寝込んでいてお弁当もお金も貰えなかった日、お腹が空いて仕方無くて助けを求めたらパンを買うお金をくれた時のこと。

 そうだ。考えてみれば、優しくしてくれた時も少しはあった。どうしてそういう記憶は埋もれていたのだろう?決まってる。嫌なことばかりされていたから、優しいイメージが塗りつぶされていったんだ。でも、こうして思い出すと霧華お姉ちゃんもたまには姉らしいことを。

 そう考えた時、嫌な記憶が私の意識の上に急速に広がっていった。悪口を言われて、嫌な気持ちにされて、大嫌いって思って。そして極めつけに、ついさっきの霧華お姉ちゃんに蹴られた時の記憶が私の意識に映し出された。たった今思い出したはずの霧華お姉ちゃんの良い思い出がどんどん萎んでいった。それが完全に消え失せた時、私の胸に広がっていたのは憎悪だけだった。


「…嫌い。嫌い!大嫌い!あんな奴…大っ嫌い!」


 私はどっとテーブルに突っ伏しながら叫んだ。今、猿山さんは何をしたのだろう。猿山さんが私の頭に触れた瞬間、霧華お姉ちゃんの記憶がぐるぐると頭の中を駆け巡った。この人は、いったいなんなのか。そんな疑問さえ、胸で渦巻く激情にかき消されていくようだった。私の意識の中では霧華お姉ちゃんに何度も蹴られた記憶が繰り返し再生され、そのたびに霧華お姉ちゃんへの憎悪が強まっていった。


「お姉さまのことが、嫌いですか?」


「嫌い!」


「消えてしまえばいいと思いますか?」


「思う!」


 私はほとんど反射的に、猿山さんの言葉に答えていた。思いのままに叫んでいた。そんな私に、猿山さんはふっと笑みを漏らした。


「では」


「お姉さまのこと、消してあげましょうか」


 

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