悪夢 ①

 市販の睡眠改善薬を2錠飲んでから、足音を立てないようそっと洗面所に向かった。この薬は服用してから効果が現れるまでには15分ほど時間がかかるから、布団で眠気がやってくるのを待つよりもこの時間で歯を磨いてしまったほうがいい。薬を飲んだのは、明日は月曜だから早寝する必要があったという理由もあるが、それ以上に今日はもう起きていたくなかった。

 お母さんはもう寝てしまっているようだった。しんと静まった廊下にお母さんの寝息が響いている。ふと思う。私がやったことを知ったら、お母さんはどんな反応をするだろうか。私を罵るだろうか。殴るだろうか。お父さんみたいに。

 探偵だというあのお姉さんの顔を思い浮かべた。あの人が私を怪しんで、家まで調べに来るかもしれない。日記を見られるかもしれない。そんな想像をして、日記はもう捨てたほうがいいんじゃないかと考えた。いや、日記を見られる心配なんて今更だ。霧華お姉ちゃんの話と違って、お父さんの話を書いたページならお母さんにも読めるらしい。お母さんはお父さんの記憶を消されていないから。

 じゃあなんで書いてるんだっけ。そもそもなんで日記をつけ始めたんだっけ。新学期のスタートを機にして。いや違う。頭の中がいっぱいいっぱいになって紙に吐き出さないと耐えられなかったから。今の私が感じてることを記録しておきたいと思ったから。それと、文章を書くのが好きだから。

 気づけば私の意識は、また思考の渦に巻き込まれていた。こうして余計な思考を延々と続けてしまうことが、ここ最近の悩みだった。私はそれをかき消すかのように口の中を歯磨き粉のミントの香りで満たし、冷たい水で洗い流した。手と口への刺激で、余計に眠気が遠のいてしまったようだった。

 まあ、よく考えてみればどうでもいい心配だ。仮に日記を見られたとしても大丈夫。おさるさまが、私の生活の平穏を守ってくれるんだから。

 私はまた静かに歩いて布団に戻ると、100円ショップで買ったアイマスクと耳栓を装着した。気休め程度だが、目と耳を塞いで眠る準備を整えたほうが寝つきが良くなる気がしていた。心の中でおさるさまにおやすみなさいと言って、私は意識が落ちるのを待った。




「バカにしてんじゃねえよブス!!私のこと笑ってただろ!!」


 雨が降っていた。強く突き飛ばされ、泥の中に尻餅をついたはずだが下半身に痛みは無い。周囲の風景も音声もモヤがかかったようで、ただ霧華お姉ちゃんの顔と声だけが鮮明だ。

 ああ、と私は気づいた。嫌なタイプの夢だ。こうして夢の中で過去の記憶を追体験することが、私には稀にあった。最初のうちは夢だとわかるものの、やがて夢であることを忘れてしまう。なんてことない日常の場面をなぞることもあるのだが、苦しい記憶が現実のように鮮明に再生されてしまうことも多い。最悪なことに、その時に感じた悲しみや恐怖心などの感情までもがありありと蘇ってしまう。夢の中では痛みを感じることが無いことは救いだった。

 これは確か去年の9月の記憶。学校で、霧華お姉ちゃんが彼氏に別れを切り出されていたのを見かけた日だ。夏休みの間に喧嘩でもしたのだろうか。そんな場面に偶然遭遇してしまった私を、霧華お姉ちゃんは放課後に捕まえた。


「私が彼氏にフラれたとこ!見てさぁっ!お前笑ってただろ!!ふざけんな!!ふざけんな!!」


 笑ってない。そんな覚えは無い。だけど、霧華お姉ちゃんにはそう見えたのだろう。だから人気の無い路地裏に連れ込んで私を痛めつけた。

 制服を泥まみれにしながら体を丸める私を、霧華お姉ちゃんは何度も何度も蹴りつけた。雷のような激しい怒号を浴びせる霧華お姉ちゃんが私は恐ろしくて、歯をがちがちと鳴らしていた。恐怖とともに、血液のようにどろりとした昏い感情が体の奥底からふつふつと湧き上がってくる感覚があった。

 いつもいつも。好き勝手ばかり。いい加減にしろ。

 殺してやりたい。



 ぱっと映像が切り替わった。路地裏の泥を至近距離で見ていたはずの私の視界には、一枚のパンフレットが映っていた。大きな字で“千代田区青少年家庭支援センター”と書かれている。全体的に明るい色合いが散りばめられ、パンフレットの下部には親しみやすいイラストで笑顔の子どもたちが描かれている。そのパンフレットは学校で配られたものだった。クラスメイトにはそれを持って帰らずに学校に捨てて帰る人も何人かいたが、私は綺麗に折りたたんでクリアファイルに保管した。いつか行く機会があるかもしれないと。でも、行く勇気が出せずにいた。

 だけどその日は限界だった。誰かに話を聞いてほしかった。家に帰りたくなかった。今日はお父さんが早く帰って来る日だから、今から帰ったら私より先にお父さんが帰ってるかもしれない。お父さんが泥だらけの私の制服を見たら「制服を汚しやがって」って怒る。叩かれる。制服を買い替える金なんか無いんだぞって。霧華お姉ちゃんにやられたって言っても、言い訳するなって言われるだけ。お前がどんくさいのが悪いって言われるだけ。

 帰るのが遅れても怒られる。それでも、誰かに話を聞いてもらってからじゃないと家に帰りたくなかった。心を軽くしてからじゃないと、耐えられないと思った。

 私はパンフレットに書かれていた住所を目指して雨の中を歩いた。以前利用したことのある図書館が入っている建物だった。それなりの距離を歩くことになるとはいえ、家庭支援センターは十分に徒歩で行ける範囲にあった。道中、泥だらけの私を見て通行人がちらちらとこちらを見てきたけど、どうでもよかった。他人の目線なんて気にしている余裕は無かった。とにかく私はいっぱいいっぱいだった。

 目的の家庭支援センターが入っている建物に辿り着いたちょうどその時に雨は止んだ。私は軒先の下で傘を閉じ、ビニールの傘袋に傘を入れて建物の中へ入っていった。建物の一階の図書館には、入口からぱっと見ただけでも多くの人が訪れているように見えた。図書館の入り口付近にいた人が泥で汚れた私を見てぎょっとしていたが、私は無視して階段へと歩いていった。案内板を見ると、家庭支援センターはこの建物の二階にあるようだった。二階に続く階段は踊り場の壁に古びた電灯がひとつ付いているだけで、ひどく薄暗かった。建物自体の古臭さもあり、階段を上っているだけで気分が沈んできた。はたしてこんな暗い雰囲気のところに相談に来る人がいるのだろうか。このぶんでは家庭支援センターも陰気な場所に違いない。自分も相談に来た身でありながら、私はそんなことを考えていた。

 だけど予想に反して、家庭支援センターはとても明るい雰囲気の場所だった。二階に上がると、右側の部屋から子どもたちがはしゃぐ声が聞こえてきた。見ると、明るい部屋で幼稚園児くらいの子どもたちが色とりどりのマットの上を走り回ったり、小さなすべり台で遊んだりしていた。高く積み上げた積み木を勢いよく壊す男の子の姿も見えた。この部屋は子どもたちが雨の日でも体を動かせるキッズスペースらしかった。むろん走り回ることは推奨されていないのだろうが、部屋の中では何人もの子どもたちが楽しそうに駆け回っていた。

 二階の左側に目を向けると、図書館に似た雰囲気の部屋が見えた。こちらはとても静かな場所だ。奥に本棚があり、部屋の入り口から少し離れた位置に大きなテーブルがある。テーブルでは一人の男子中学生がテキストを広げ、勉強に集中していた。少し大きめの学ランを着た小柄な男子だ。真面目そうな雰囲気で、まだ中学校に入りたての1年生に見えた。この部屋もキッズスペースと同じく、照明が煌々と室内を照らしていた。

 私は光に導かれるように、その左側の部屋に入っていった。私の足音が聞こえていないのか、テーブルで勉強している男子は私に気づくことはなかった。ちらりと左を向き窓のほうに視線を向けると、窓の下の壁にコルクボードが設置してあるのが見えた。コルクボードは何枚もの紙で埋め尽くされていた。各種の掲示物や、子どものお絵描きが所狭しと張られていた。

 部屋に入って右側にはカウンターがあったが、そこに職員の姿は無かった。席を外しているらしかった。私はどうすればいいかわからず、その場で部屋の様子をきょろきょろと見回していた。


「おや?あなた、泥だらけではないですか。何かあったのですか?」


 数十秒ほどそうしていると、部屋の奥から一人の男性が姿を現した。腕には5冊ほどの本を抱えていた。本棚の整理をしていて、私が来たことに気づくのが遅れたのだろう。

 銀縁の眼鏡をかけ、柔らかな雰囲気を纏った男性だ。高級そうなスーツと七三分けの髪型のせいで大人びた印象を放っていたが、よく見るとかなり若かった。まだ大学生くらいに見えた。


「とにかく、相談室でお話をお伺いしましょう。ご案内いたしますね」


 その男性はカウンターに本を置くと、私に向かってにっこりと微笑んだ。


「ああ、申し遅れました。私、こちらで相談員を務めております」


「猿山と申します」

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