空代家

 空代一子は呼吸こそしていたが、完全に意識を失っているようだった。秀一が何度か頬や肩を軽く叩いても一切の反応を示さなかった。大きな声で呼びかけても同じだった。


「…秀一。救急車を呼べ。救急隊が来たら対応を頼む。病院への付き添いを求められることは無いはずだ。だが状況的に警察にも通報が行く可能性はあるから、もし警察官が来たらうまいこと事情を説明しておいてくれ。その前に手早く済ませるつもりだがな。一応、さっきのスーツの男のことも不審者として話しておけ」


「話しておけって…姉さんは?」


「家の中を調べる」


 そう呟くと、守美は靴を脱いで家の中へと上がり込んでいった。秀一は何か言おうとしたが、空代一子の身を優先しスマートフォンで119番のダイヤルを押した。


(廊下の左側にはトイレとバスルームがあり…廊下の突き当たりと右側に二部屋。夫婦の寝室とリビングのようだな)


 空代家の303号室は1LDK程度の広さだった。トイレとバスルームの他には廊下の突き当たりにある洋室と、廊下の右のドアの先にあるリビングダイニングキッチンの二部屋。どちらのドアも開け放されており、覗き込んだ限りではそれぞれ8帖と9帖ほどの大きさに見えた。中学生の娘がいる三人暮らしには、少し手狭に思えた。空代希実が一人で使えるような部屋は見当たらなかった。

 広大な屋敷で生まれ育った守美には、年頃の女子が自分の部屋を持てないというのはどういった感覚であるのか想像がつかなかった。現在の弟との二人暮らしにはなんら抵抗感は無いが、思春期に同じ生活をしていたら耐えられたかどうか。おそらくは問題無かっただろうと考え、守美は意識を切り替えた。

 洋室は整頓されているとは言い難く、至るところに物が散乱していた。空のペットボトルやティッシュ箱が床に転がっており、生活感を感じさせる光景といえた。

 壁際には布団が2組敷いてあり、青色とピンク色の枕が置いてあった。ピンク色の枕の布団は少し乱れていたが、青色の枕の布団は綺麗に整えられている。空代雲晴と空代一子は、ここで二人並んで寝ていたのだろう。片方の布団だけここ最近使用された痕跡が無い理由は、守美には明らかだった。

 質素な化粧台は空代一子のものだろう。化粧道具のほかに筆記用具や財布、十字架のネックレス、腕時計、ヘアゴムなどが置かれていた。玄関に倒れていた空代一子はメイクをしていない様子だった。この時間帯に来客の予定は無かったのだろう。

 戸棚の上には位牌が置かれていた。"繊直花栄信女位"と戒名が彫られている。位牌の横には無邪気に笑う小さな女の子の写真が写真立てに収められていた。まだ幼稚園児程度の年齢に見える。その遺影を見て、守美は空代家が幼い子どもを亡くしていたことを知った。

 洋室の角の壁にはクローゼットがついていた。守美が手袋をはめてその扉を開けると、着古された女性ものの洋服の他に、男性ものの洋服やスーツがあった。こちらも新品とは言えず、かなりくたびれた服だった。ふと、守美はクローゼットの端のハンガーにベージュ色の服が3着ほどかかっているのを発見した。そのうちの一着を手に取ると、それは丁寧にアイロンをかけられた作業着であることがわかった。守美は空代雲晴が建設会社に勤務していたことを思い出した。空代雲晴がこの作業着を着て汗水を垂らしていた姿を、もはや職場の誰も覚えていないのだろう。守美は作業着を元の位置に戻し、静かにクローゼットを閉じた。

 守美が洋室を出ると、秀一が119番への電話を終えたところだった。こちらに視線を向ける秀一に、守美は右の手のひらを掲げた。待っていろ、の意だ。救急隊の到着はもうすぐだろう。時間は少ない。空代一子のことは引き続き秀一に任せ、守美は次の部屋に足を踏み入れた。

 リビングダイニングキッチンに入ると、目の前にテーブルが配置してあった。椅子は三つ。テーブルに敷いてあるテーブルクロスは100円ショップで手に入るようなビニール製のチェック柄のもので、何年も使用しているのかかなりの経年劣化が見られた。テーブルクロスに空いている穴は、焦げ目がついていることからタバコの火によるものだろう。

 テーブルのすぐ横には小さなキッチンがあった。コンロは一つ。シンクの中には白い皿が2枚置いてあり、トーストのくずが皿の上に散らばっていた。空代一子と空代希実が今朝食べたものだろう。まだ洗われずに放置されていた。

 守美はキッチンの反対側に目を向けた。部屋の隅には、窓のすぐ側に白いローテーブルと座布団が置いてあった。テーブルの上には中学校の教科書やノートが何冊も積まれ、彫刻刀や裁縫セット、生徒手帳などが置かれていた。おそらくはこれが空代希実の勉強机なのだろう。落ち着いて勉強するには不適切な環境に思われた。

 テーブルの横には布団が敷いてあった。他にスペースが無いため、いつも空代希実はここで寝ているのだろう。

 テーブルの下には小さな段ボール箱が置いてあり、その中に中学のテストのプリントが何十枚も入っていた。中学1年生から保存してあるのだろう。プリントの山は下のものほど簡単なテスト内容になっていた。


(最近のものは…国語が91点に対し数学が6点。点数の偏りが極端だ。文系だね)


 守美は次にテーブルに積まれている教科書とノートの山に手をつけた。すぐに戻せるよう整理しつつ、ノート類の中身を検めた。1冊目。2冊目。3冊目。どれも各教科の授業ノートであったが、教科書とノートの山を崩すうちに不審なノートが現れた。教科名の書かれていないノートだ。守美がそのノートをめくると、一枚のパンフレットがはらりと落ちた。ノートに挟まれていたのだろう。


(千代田区…青少年家庭支援センター…?)


『児童福祉法に基づき、ご家庭や子育てに関する相談をお受けし支援を行う施設です。ご家庭でのこと、学校でのこと、どんなお悩みでもお気軽にご相談ください。相談員が対応いたします。もちろん、子どもさん自身からの相談も大歓迎です』


 守美はそのパンフレットを拾い、内容を読んだ。それは千代田区が運営する青少年家庭支援センターのものだった。

 それがなぜ空代希実の私物のノートに挟まれていたのか。空代希実はどんな悩みを抱えていたのか。守美はあらゆる可能性を想像しながらノートの内容に目を移した。それは空代希実の日記のようだった。



2024年 4月8日(月)

 春休みが終わりました。新学期が始まったので、今日から日記をつけようと思います。3年生の担任の先生は、大田先生でした。とても嫌です。大田先生はバスケ部の顧問で、すぐ怒鳴ることで有名な先生です。怒鳴る人は大嫌いです。


 そういえば、霧華お姉ちゃんは私立の進学校に願書を出していました。名門の女子高で、制服がとてもかわいいからって。まだ受験さえしてないくせに、願書を出しただけで自慢してきたことがありました。1月の終わりでした。あんたは頭が悪いから逆立ちしても無理って、私の頭をぺちぺちと叩きながら言ってきました。霧華お姉ちゃんは私が勉強できないことをよく馬鹿にしてきました。


 でも、今はもういいです。どうでもいいです。


 霧華お姉ちゃんは、もういないから。

 私以外、もう誰も覚えていないから。

 おさるさまが消してくれたから。


「霧華…おさるさま…?」


 ふと思い立ち、守美はテーブルの上の生徒手帳を手に取り、裏面の身分証を見た。それは空代希実の生徒手帳ではなかった。

 身分証の顔写真には空代希実よりも数段整った顔立ちの、勝ち気な雰囲気の少女が写っていた。


 そこには"空代霧華そらしろきりか"と書かれていた。

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