空代家
空代一子
今日も、夕方に希実の顔を見ることが憂鬱だ。突然、夫のことを綺麗さっぱり忘れてしまった娘のことがひどく不気味に感じる。夫がいなくなってからというもの、希実の雰囲気は明るくなった。それが恐ろしい。希実の心情を思えば、夫の記憶を失ったのだとすれば明るくなるのは理解できる。だけど、それだけではないような。希実の中に、何か得体の知れないものが巣くっているような想像を抱いてしまう。あれは本当に希実なのかと不安になってしまう。
いっそ学校に行ったまま帰ってこなければ、とまで飛躍した思考を打ち切る。それは親として考えてはならないことだ。親として…私にそれを言う資格はあるのだろうか。希実にとってはこれで良かったのではないか。いっそこのまま、夫が見つからないほうが希実のためではないか。そこまで考えてしまい、私はまた思考を止めた。乱回転する思考は、下手をすればすぐに考えてはならない方向へと飛んでいってしまう。私はいったいさっきから何を考えているのだろう。何が私にとって、夫にとって、希実にとって最善なのだろう。間違いなく私にとって夫は最愛の人だ。希実は大事な娘だ。だけど、今の希実が不気味な存在でもあることもまた事実だ。
土日の間、希実とはほとんど会話しなかった。日曜に至ってはパートの面接に行くと嘘をつき、昼前から夕方まで家を空けていた。パートを探さなければならないことは事実だ。夫がいない今、子どもを育てられるだけの収入を得なければならない。だが、今はとても仕事に就けるだけの心の余裕は無かった。
恐ろしい想像が頭をよぎる。もしも、夫と同じように私までもが消されてしまったら。私までもが誰からも忘れられ、ついには誰からも認識されなくなってしまったら。箕作綴の小説を思い返した。あの小説の最後で、語り部は死を選んでいた。捻木さんの言うようにあれが実話で箕作綴本人の体験だったとしたら、箕作綴はあそこからどうやって助かったのだろう。その方法が知りたくてたまらなかった。
ふと、嫌な想像をしてしまった。夫は…助からなかったのではないか。もしかすると、夫はもう既に。そこまで考えてしまい、慌てて頭を振った。必死に捻木さんが話した言葉を思い浮かべ、自分に言い聞かせた。希望はある。助かる道はある。
それでも心細さは消えなかった。あの人に…捻木さんに会いたくてたまらなくなった。大丈夫だと強く言ってほしかった。一度会っただけだが、私は彼女に不思議な好感を抱いていた。あの人ならなんとかしてくれるという信頼感がなぜかあった。彼女に任せておけば安心だと直感的に感じる、奇妙な魅力のようなものが彼女にはあった。
インターホンが鳴った。
まだ朝の8時半だ。希実が忘れ物をして戻ってきたのかと一瞬考えたが、今は朝のホームルームが始まっている時刻だ。希実が戻ってきたにしては遅い。8時台といえば宅配便の配達が始まっている時刻だ。宅配便が朝早くに配達に来たのだろうかと思いながら、私は腰を上げた。
物騒な世の中だ。私はドアを開ける時はいつも、ドアガードは外さずにドアの隙間から来客の顔を見ることにしている。鍵を外し、ドアを開けた私の目に入ったのは見知らぬ男だった。
「初めまして。朝早くから申し訳ございません。私、千代田区青少年家庭支援センターの
男はにこりと微笑み、名を名乗った。グレーのスーツを身に纏い、髪を七三分けに整えた理知的な雰囲気の男だ。銀縁の眼鏡はすらりと整った鼻筋をより強調させている。柔和な物腰であったが、細く整えられた眉の下に浮かぶ鋭利な眼差しは私を突き刺すようだった。
男が差し出した名刺には、確かに男が言った通りの名前と勤務先が書かれていた。私は全身の血がさっと冷えていくのを感じた。
「青少年…家庭…?あ…あの…」
「お忙しい中、申し訳ございません。お聞きしたいことがございますので、少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
私は混乱した頭でこくこくと頷いた。一度ドアを閉め、ドアガードを外して再びドアを開けた。そこでふと思った。考えてみれば、この名刺は目の前の男が本当に家庭支援センターの職員だという証拠にはならないのだ。迂闊な行動だったのではないかと気づいたのは、ドアを開けた後だった。なぜか、何一つ疑問を挟むことなくドアを開けてしまっていた。
「ありがとうございます」
男は手を伸ばし、手のひらで私の頭にそっと触れた。常識的にありえない行動だった。この男は不審者に違いないと理性が警報を発していた。だというのに、私は少しも動けなかった。全身が石のように硬直していた。
「ああ…なるほど。へえ、本当に探偵。名前はやはり偽名ですか」
男は私の頭に手を当てながら、貼り付けたような笑みを浮かべながら小さい声でぶつぶつと呟いていた。
私は脳が自分の意思に反して動く不快感で吐き出しそうになっていた。脳の一部分がぎゅるぎゅると音を立てていた。私の意識に、映像が強制的に映し出された。捻木さんの事務所のホームページ。捻木さんの顔。事務所で話した時のこと。貰った名刺に書かれていた名前。捻木守美。捻木秀一。
「うん、わかりました。もういいですよ。ご協力ありがとうございました」
男は私の頭から手を離したと思えば、いきなり私の頬をべちりと叩いた。ひりひりとした痛みが頬を伝う。頬が熱い。なぜ殴られなければならないのかと、男への怒りが沸騰していく。怒鳴ってやろうと思った。そのはずだったのに、私は少しも体を動かせないままだった。男への怒りが萎んでいく。がくりと意識が遠のいていく。私はなぜ怒っていたのか。私は何を話していたのか。私は誰と会っていたのか。それら全てが、取るに足らない夢の欠片のように消えていく。ちりちりと零れ落ちていく。
「ああ、それともう一つ言っておかないと」
男が何かを言っている。言葉が耳に入ったそばから頭から抜けていくようだった。記憶に留めていられない。
「ご主人、美味しかったですよ」
私の視界がぐらりと揺れた。体が後ろに倒れているのだと、ゆっくりと動く視界に天井が映って理解した。私は必死に首を下に向け、玄関を見る。そこには男が立っていた。
誰だろう?この人。
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