もういなくなった人

 朝起きて、じいじとばあばがボケたのかと思った。おはよーと言っても返事しない。二人は耳が遠いから大きい声を出さないと聞こえないこともあるけど、目の前で言っても無反応だった。怒ってるのか私をからかってるのか。朝からイラつかせんなよと腹が立ってばあばを引っぱたいたのに、痛がる素振りも無かった。どう考えてもおかしかった。

 じいじもばあばもボケて入院なんてことになったら、実家に戻らなきゃいけなくなるかもしれない。それは絶対に嫌だから、意地でもこの家にしがみつかなきゃ。そんなことを思いながら学校に行く支度を進めた。私がじいじの食パンをひったくっても、じいじはボケっとした顔をして次の食パンを取り出し始めた。意味わかんなくて怖くなって、速攻で歯磨きして家を出た。5時間目に使う道徳の教科書をリュックに入れ忘れてることに家を出てから気づいたけど、じいじとばあばの様子がおかしいことを思うとまた家に戻るのは嫌だった。

 普段より少し早く出ただけでも、2月の頭の朝の空気は一段と冷たく感じられた。まだ7時半にもなっていない時間だから、通学路を歩いてる生徒は少なかった。途中で後ろから走ってきた人に追い越されたけど、あれは寝坊して朝練に遅刻でもしたんだろうな。毎日早起きして朝練とかバカみたいだと、そいつを見て思った。運動部って朝練もやって放課後にも部活して、勉強する時間とか無いでしょ。部活を引退してから追い込み期間で必死こいて勉強する奴なんて、どうせ良い高校行けない。その点私は違う。進学校に行って良い大学に入るんだ。

 ふと、妹の顔が頭に浮かんだ。頭の悪い妹だ。勉強が全然できないくせして大学はGMARCHがいいとか意味わかんないことを言っていた。あんたの頭で行けるわけないでしょって言ってやったら、無言で下を向いた。そもそも、私立にしろ国公立にしろ、あの貧乏な家に大学に行かせてくれる金があるわけない。奨学金を借りてバイトしながら通うにしても、あの根暗にできるバイトなんてあるとは思えなかった。それ以前に、あれじゃまともな高校に行けそうもない。底辺校でいじめられてる妹の姿が目に浮かんだ。思わず歩きながら笑っちゃった。

 でも問題は自分のことだ。じいじとばあばがボケたとしたら、今の生活を続けることはできなくなる。生活費だって受験の費用だって、中学生のうちはバイトできないから稼げない。じいじの口座には貯金がたくさんあるけど、ボケて入院したとしたらそのお金はどうなるの?入院費で貯金がどんどん減っていくのは嫌だけどしょうがないとして、キャッシュカードは手に入る?じいじの娘のママが口座の管理をすることになって、私は実家に連れ戻されるなんてことになったら最悪だ。今のうちにキャッシュカードを盗んでおいて、二人がボケたことはどうにか隠し通せないか。

 そんなことを考えていたら学校に着いた。いつもより朝早くの校舎は静かで、空気が澄んでいる気がした。グラウンドでは運動部が騒いでいたけど校舎の階段を上っていくにつれて運動部の声は聞こえなくなる。しんとした無音の空間に上履きの足音が響く。

 教室には誰もいなかった。私は教室に入ってすぐ横の壁に付いている電気のスイッチを入れ、暖房を起動させて席についた。リュックが置いてある机があるから運動部のクラスメイトが先に教室に来ていたらしい。教室で着替えてから朝練に出かけたのだろうか。それなら暖房をつけておいてくれればよかったのにと、椅子の冷たさに体を震わせながら舌打ちした。

 友達が登校してくるまでにはまだしばらく時間がありそうだ。私はスマホを取り出し、TikTokを眺めながら時間を潰した。1時間目は体育だから体操服に着替えてしまってもよかったけど、寒い中で服を脱ぎたくなかった。着替えの途中に男子が登校してくる可能性を考えると、余計に後で着替えればいいやという気持ちになった。

 8時前になって、真愛まのあが登校してきた。私はTiktokに夢中になっていたから真愛が来たことにすぐには気づかなかったけど、真愛が机にカバンを置いた時のどさりという音で気づいた。私はスマホをポケットにしまって、真愛におはよーって声をかけた。真愛は返事をしなかった。聞こえなかったはずはないのに、こっちを見ることもなく今日の英語の宿題のプリントを机に広げて問題を解いている。は?無視すんなよブス。

 私がイラついて真愛の肩に手を置こうとした時、他の友達が教室に入って来た。凛音りおん美星すてらだ。私は真愛に構うのをやめて、二人の元に駆け寄った。大きな声が挨拶しながら手のひらを高く掲げて、ハイタッチの構えを取った。いつも通りハイタッチが返ってくるはずだった。

 反応は無かった。二人とも私の声が聞こえなかったかのように素通りして、机の上にリュックを置いた。真愛が宿題を進める手を止めて凛音と美星とおしゃべりを始めた。私は掲げた手を下げることも忘れたまま、数秒の間固まってしまった。ねえ!!と声を張り上げても、真愛も凛音も美星も私のことを無視したままだ。なんで?私が何かした?私はもう頭が沸騰したようになって、真愛の顔にビンタした。

 そこで、私の頭は急速にスッと冷えだした。顔を叩かれた真愛は、何事も無かったかのように笑顔でおしゃべりを続けていた。凛音も美星もなんの反応も示さなかった。

 今朝起きた時のことを思い出した。そういえば、家でのじいじとばあばもこんな感じだった。ばあばなんか、真愛と同じ反応だった。頬をビンタされたのに無反応。痛がりもしなかった。

 ぞっとした。何かがおかしい。ものすごく異常なことが起きているとわかった。すぐそこで大きな笑い声を上げている三人がおそろしく不気味に感じた。私は自分のリュックを掴み、勢いよく教室を出た。廊下を走っていると、クラスメイトや他のクラスの友達とすれ違った。誰も私に反応しなかった。口うるさい大田先生とも出くわしたけど、廊下を走っていることに怒られもしなかった。普段なら大声で怒鳴ってくるのに。

 階段を下りきって、昇降口に向かって走った。もう学校にいたくなかった。家にも戻りたくない。実家なんてもっと嫌だ。どこに逃げればいいのかもわからないまま、ただ気持ちばかりは慌てた状態で上履きからスニーカーに履き替えようとした。手が震えてスニーカーを二度も取り落とした。ようやくスニーカーに足を入れた時、見知った顔が昇降口に現れた。


 妹の顔は、笑っているように見えた。

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もうみんな忘れちゃった人 ぴのこ @sinsekai0219

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