捻木探偵事務所

捻木探偵事務所

「いいかい、これは業務の効率化の一環ってやつさ。いちいち事務所からコンビニまで歩いて酒を買いに行くなんて無駄だと思わないか。そんな時間は省いて、仕事に回したほうがいいだろう」


 捻木守美ねりき すみは薄っぺらい言い訳で、弟の捻木秀一ねりき しゅういちの苦言に反論した。事の発端は、ついさっき事務所に届いた荷物だった。守美が毎晩欠かさずに飲んでいるストロング系チューハイの500ml缶。その24本入りのケースが3箱も届いたのだ。味はレモン味、グレープフルーツ味、シークワーサー味の3種類がそれぞれ1種類ずつだった。

 配達員から荷物を受け取った秀一の顔は、勝手に通販サイトで酒を注文した姉への怒りと、2階の事務所まで階段で重い荷物を運んでくれた配達員への申し訳なさで大いに歪んだ。

 1本500ml。3箱分72本で36L。その量のチューハイを守美は1か月足らずで飲み干すのだから、不健康極まりない。それに加え、焼酎やウイスキーまで飲んでいる。秀一は常日頃から酒を控えるよう守美に注意しているのだが、守美が聞く耳を持つ様子は無い。今回も、守美の口からは謝罪の言葉は一切出なかった。


「姉さん。せめて休肝日くらい作ったらどうなんだ」


「酒を飲まなかったら死んでしまうじゃあないか!」


 守美は机を強く叩きながら秀一の言葉に反論した。守美は28歳にして、一日たりとも酒を欠かすことのない生活を送っていた。基本的には夜しか酒を飲まないが、日によっては朝から飲んでいる場合もある。

 鼻歌を歌いながら届いたばかりの缶チューハイを3種類とも冷蔵庫に入れる姉の姿を見て、昔はこうじゃなかったんだけどな、と秀一は思った。秀一の記憶の限り、故郷の村での姉は神の寵愛を一身に受けた完璧な人間だった。姉が酒に溺れる未来など、当時の秀一には想像さえできなかった。

 それでも、現在でも秀一は守美の能力への疑いは微塵も抱いていない。重度の酒飲みという欠点こそ生まれたものの、自分の姉は限りなく完璧な人間だと秀一は信じていた。


 守美を簡潔な言葉で表すならば、頭脳明晰・容姿端麗だろう。

 故郷において、守美は村一番の才媛として名高かった。その聡明さは、8年前に秀一とともに村を出て上京してからも発揮された。守美は20歳にして、村から持ち出した金で探偵事務所を開業した。事務所を構えたのは神保町駅から5分ほど歩いた場所にあるビルの2階だ。2階の手前側に事務所スペースを配置し、その奥に狭いながらも姉弟の居住スペースを確保している。バスルームは無いため、近所の銭湯“松の湯”に通っている。

 守美により事務所の集客は順調に進み、開業から1年後には個人事務所としては破格の収益を得ていた。収益には波があるが、開業から8年経った今でも事務所を畳まずに済む程度の収益を得ている。高卒認定を得て大学に通っていた秀一が、大学を卒業したこの春から姉の事務所を手伝うことを決意した理由のひとつも、事務所の経営が順調だったためだ。

 「信頼と実績の探偵事務所」という謳い文句を開業初日から打ち出し、「大手探偵社での勤務を経て独立」と偽りのキャリアを記載。さらに弁護士との付き合いなど存在しないにもかからわず「弁護士推奨」とホームページに書いているなど危ういところもあったが、依頼人からの評価はおおむね好評であった。


 守美の端整な外見もまた彼女の非凡な点だ。守美は故郷で誰より美しく、皆の羨望を集めていた。肩よりも長く伸びた黒髪は絹のように艶やかで、四肢はすらりと細長く、長い首の上に乗るのは人形と見紛うほど端正な顔立ち。守美はまるで神が精魂を込めて作り上げた芸術作品のような非の打ち所の無い容姿を纏っていた。その白百合のような美しさは、歩き姿だけで村の誰もの視線を引いた。守美が成長するにつれて、村人は口々に次の“福宿ふくやどし”は守美に違いないと噂したものだ。

 その容姿は、上京とともに大幅に変貌した。長い黒髪はショートカットの茶髪に変わり、銭湯のシャンプーばかり使っているためか髪に傷みが発生している。毎日の深酒の影響のためか目の下には深いクマが刻まれたが、そのクマさえ美貌を引き立たせる要素になっていた。

 服装は常に同じ。黒いスキニーパンツに白いワイシャツと黒ネクタイ。そして本人の「探偵は格好から」という持論のもと、茶色の鷹撃ち帽と茶色のインバネスコートを纏っている。原作のシャーロック・ホームズはその服装ではないと秀一は指摘したが、守美は承知の上だった。

 現在の大仰な喋り方も、上京してからのものだ。秀一もまた、上京して以降は標準語を話すようになった。

 守美の容姿は母譲りだったが、弟の秀一は父に似た。父と同じく、特徴的な要素の無い平凡な容姿。「普通で真面目そうな日本人の若者」と聞いて思い浮かべるような容姿だ。事務所では常に紺のスーツを着用しており、前髪をセンター分けにしている。


「おっといけない。そろそろ13時だ。依頼人が来る時間じゃあないか。秀一、早く酒のケースを隠すんだ」


「自分で買ったものなんだから自分で片付けなよ」


 要求を断られると、守美はしぶしぶながら3箱のケースを別室へ運び始めた。

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