奇妙なホラー小説に関する考察
空代一子が見せた小説の奇妙さに、守美と秀一は揃って息を呑んだ。投稿日は去年の2023年7月29日。空代雲晴に異変が生じたという2月半ばよりも半年以上前だった。
ある作家が誰からも忘れられてしまうという内容。そして空代雲晴という名前。この状況に無関係とは考えられなかった。
「この小説の作者はご主人のお知り合いでは…?」
「いえ…そのアカウントは
秀一の問いかけを、空代一子は否定した。この作者が空代雲晴と面識が無いのならば、偶然にも自作の登場人物に“空代雲晴”と名付けたことになる。そして、偶然にも空代雲晴の身に起こることを言い当てたことになる。
「偶然の一致とは考えられないねえ」
守美の言葉に、秀一も空代一子も揃って頷いた。
「小説の最後には、“鏡に映る自分の姿が透けて見えるようになった”だとか“鏡に映る自分を自分と認識できなくなった”だとか書かれている。雲晴氏がそんなふうに言っていたことは?」
「一度も無かったです。いや…もしかしたら私に言わなかっただけで夫は自分の姿がそう見えていたのかもしれませんけど…でも私はそこに書かれてるように、夫に話しかけられて無視したことなんて」
「あなたが15日の朝に雲晴氏を認識できなくなっていたのなら無視してたとしても知覚できないさ。その朝、雲晴氏はちゃんと家にいたけれど家族に認識されなかっただけなのかもしれないよ。あなたがかけた電話も、すぐ近くで着信音が響いていたのかもしれない」
「そん…な…こと…」
「あと、この小説の“空代雲晴氏”は湘南の生まれと書かれているね。雲晴氏の出身地は湘南?」
「…夫は静岡の生まれです。大学進学を機に東京へ引っ越してきたと言っていました。私は大学の頃から夫と縁があったのですが、湘南は大学生の時に私と行ったのが初めてだったようです」
「現実の空代雲晴氏は湘南生まれでもなければ作家でもない。一致しているのは名前だけというわけだね。それと、奇妙な現象に巻き込まれたことか」
守美は呟くように言葉を紡ぎながら、空中を見つめるような目線を浮かべた。守美の態度は礼節を欠いていたが、空代一子は気分を害する様子は無かった。思案する守美の姿をじっと見つめていた。守美が思考を巡らせる姿は、あまりにも絵になっていた。
守美はポケットからスマートフォンを取り出し、操作しながら空代一子へと問いかけた。
「…小説の中で、この作家は誰からも忘れられている。家族からもだ。この点は実際に起こったことと違うね。一子さん。あなただけは雲晴氏を覚えているんだから。あなたはどうして雲晴氏を覚えているのだろう?」
「それは…わかりません。とにかく誰も彼も夫を忘れていて、なぜか私だけが覚えているってことしか…」
「まあ小説だからね、現実と同じとは限らない。もしかしたらあの話は実際に起こったことで、本当は誰かしらはこの作家のことを覚えていたのかもしれない」
「あれが実話…?じゃあ姉さん。作者の箕作綴って人も、空代雲晴さんと同じ体験をしたっていうのか」
「箕作綴。私はこの作家を知らなかったんだけど、去年の春から新作をひとつも出していないみたいだ。ああ、小説投稿サイトのプロフィールにTwitterのリンクも載ってるね。このTwitterアカウント、2023年7月28日の投稿を最後に止まって、今年の2月14日に久しぶりに動いている」
守美は手に持っていたスマートフォンを裏返した。そこには箕作綴のTwitterアカウントが表示されていた。
箕作綴 @tsukuri_3
改稿いたしました。
https://kakuyomu.jp/my/works/16818093086467208451/episodes/16818093086599831557
2024年 2月14日 6:50 午後
箕作綴 @tsukuri_3
明日は帰省 (数年ぶり)
2023年 7月28日 7:35 午後
「2023年の7月28日は金曜日だ。小説の記述には“よく晴れた夏の土曜だ”とある。もし箕作綴が帰省した日が7月29日の土曜だとすれば?29日に異常な事態に巻き込まれ、助けを求めるつもりで自分の状況をこのサイトに投稿したのだとすれば?」
「それに、2023年7月29日の神奈川県は晴れだ」
https://tenki.jp/past/2023/07/29/weather/3/17/47670/
関東・甲信地方の実況天気(2023年07月29日)
最高34.4℃ 最低26.2℃ 晴れ
「あくまでも可能性の話だが。箕作綴は7月29日に帰省したところ、“誰からも忘れられる”という異様な事態に直面した。実際は覚えていた人間が一人いたのかもしれないがね。そして箕作綴は自分の身に起きた体験を小説投稿サイトで発表した。ただこの場合、物語の語り部の名を“空代雲晴”にした理由はわからないがね。箕作綴の“症状”はさらに悪化し、鏡に映る自分を認識できなくなり、ついには人に認識されなくなるに至った」
「でも姉さん、この小説では最後に語り部は死を選んでいるけど、これは今年の2月14日に更新されてるじゃないか。箕作綴はこの日に小説を改稿してる」
「ああ、そこに希望がある。箕作綴がどうにか生還したのだとすれば、助かる道があったということだ」
守美の言葉に、空代一子はぱっと顔を明るくした。夫が助かる方法があると言葉にされたことで希望を見出したようだった。
「一子さん。この案件、こちらで調査を進めてみるよ。進捗は都度メールで送るけど、依頼をくれたメールアドレスでいいかな」
「え、ええ…お願いします。でも手がかりがこれしか無いんじゃ…」
「心配しない心配しない!ネットの評判を見て来てくれたんだろう。名探偵を信じるんだ」
守美は立ち上がると、空代一子の背中をパンパンと叩きながら力強い口調で言った。流石に依頼人に対して度が過ぎるため、秀一は守美を諫めて無理やりにソファに座らせた。
空代一子は面食らった様子だったが、守美の言葉にいくらか励まされたためかその表情には微かな希望が宿っていた。
「それにしても…さっきの話ですが、なぜ私だけが夫を覚えているんでしょうか」
「そういう性質なのかもしれないね。誰か一人だけに対象の記憶を残すという」
「性質…?なんの…?」
「そういうモノはだいたい、自らが持つ一貫した性質に基づいている」
「人ならず、人に害をなすもの」
守美は茶をひと口飲み、呟いた。
「怪異だよ」
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