空代雲晴は消滅しました

空代雲晴は消滅しました

箕作綴

完結済 全2話・2347文字・2024年2月14日 更新・2023年7月29日 公開


【とある作家の手記】

 奇妙なことが起きている。いったい何事であるのか、私自身にも理解が追い付いていない。心を落ち着かせるため、執筆画面を開いてこれを書き始めたところだ。状況を整理していく。

 私は今、生まれ育った土地に戻ってきている。次回作は故郷を舞台にした小説を書こうと思い立ち、その取材のために帰郷した。数年ぶりの湘南は少し変わっていた部分もあったが、潮の匂いを纏ってやって来る海風の心地よさは昔と変わらず安心した。こちらに到着したのは今日の午前10時半ごろだ。江ノ島駅の狭いホームは、まだ昼前だというのに外国人観光客で溢れかえっていた。よく晴れた夏の土曜だ。これから海に行くのだろうと思われた。誰の顔を見ても、楽しそうに見えた。

 江ノ島駅の出口から南に5分ほど歩くと海が見えた。私は少しの間海岸沿いを散策しながら、故郷の懐かしい風景に感慨深さを抱いていた。昔通っていた定食屋が潰れていて寂しさを抱きはしたものの、海岸沿いの風景は概ね記憶と変わらなかった。

 

 私は海岸沿いを歩くのに満足すると、来た道を戻って江ノ島駅方面へと歩いて行った。本格的な取材は翌日に回して、まずは実家に帰るつもりだった。実家は江ノ島駅から歩いて10分ほどの場所にある。実家に帰ることは、両親には秘密にしていた。いい歳してサプライズを企てていたわけだ。

 江ノ島駅から海と反対方面に向かって伸びる道に、顔馴染みの老夫婦が営んでいる小さな洋菓子店がある。私は両親への手土産を買おうと思い、その店に寄った。店番をしていたのは幸子さちこおばさんだった。数年ぶりに会う彼女は多少老けてはいたが、記憶の中とさほど外見上の変化は無かった。

 私は幸子おばさんに挨拶をしたのだが、彼女はどうも私のことを覚えていない様子だった。名前を名乗っても思い出せないようで、申し訳ない顔を浮かべていた。私ももう中年であるから最後に会った時と容姿の変化はあまり無い。私はシュークリームを買い、幸子おばさんも歳なんだなと一抹の寂しさを抱きながら店を後にした。思えば、あの時から異常は始まっていた。


 本格的におかしいと感じたのは実家に着いた時だ。私は実家のインターホンを鳴らし、親との数年ぶりの再会の瞬間を待っていた。十数秒経って、ドアを開けたのは母だった。白髪も皺も随分と増えていた。私はそんな母の姿に熱いものが込み上げてくるのを抑えながら、「ただいま」と言った。

 だが、母の反応は予想だにしないものだった。母は怯えた顔つきで私を見つめ、「どなたですか…?」と呟いた。

 私は最初、母は冗談でも言っているのだと思った。しかし、冗談はやめてくれと笑っても母の反応は変わらなかった。母は数年間も帰らなかった私に怒っていてこんな演技をしているのかとも考えたが、母の様子は演技には見えなかった。まさか母は認知症にでも罹ってしまったのかと思い、私は狼狽したまま必死に自分の名を告げた。しかし母は気味が悪いものを見たような顔で「帰ってください」と繰り返すだけだった。

 しばらく玄関先で押し問答を続けていると、異常を察知した父が玄関へやって来た。私は母の様子がおかしいことを父に訴えたのだが、父もまた私を不審者のように扱った。父は私に罵声を浴びせ、帰らなければ警察を呼ぶぞと叫んだ。私は父に蹴り飛ばされ、玄関の外に尻餅をついた。乱暴に閉じられたドアを眺めながら、私はひたすらに呆然としていた。


 両親の反応は冗談か何かのようには思えなかった。本当に私を忘れてしまったかのような言動だった。両親ともにボケてしまったのか?もっと早くに帰っておけばよかったのか?私はそんな不安と後悔に苛まれていた。とにかく両親に認知症の症状が出ている以上、早急に対応しなければならない。弟にも連絡を、と思ったが弟は土曜も仕事でこの時間帯では連絡がつかない。こういった場合どうすればいいのか、私にはわからなかった。相談できる友人が一人も居ないことを呪った。

 私の頭に浮かんだ人物は担当編集の文屋ふみやだった。彼以外に相談できそうな人物は思い浮かばなかった。私は文屋に電話をかけ、数年ぶりに帰省したところ両親が認知症になっていたのだがどうしたらいいかと開口一番に切り出した。


 しかし文屋は困惑気味に、「どちら様ですか?」と返してきた。


 今度はこちらが困惑する番だった。どちら様も何も、お前の担当作家だろう。私は「冗談はよしてくれ」と続けたが文屋は電話番号を間違えていないかと聞いてきた。

 文屋は私の番号を連絡先登録していなかったのかもしれない。私の声は動揺のあまり上ずってしまい、普段と違って聞こえているのかもしれないなどと思い名前を名乗ったが、文屋の困惑が晴れる様子は無かった。やがて文屋に電話を切られてしまった。


 私はいよいよ何がなんだかわからなくなった。電話帳の連絡先から関係のある人物に片っ端から電話をかけたが、誰もが文屋と同じ反応を示した。誰もに私のことを忘れられている?私の存在が誰の記憶からも抜け落ちている?意味がわからない。こうして起こったことを書き起こしてみたが、全く理解ができない。こんなもの、まるでホラー小説じゃないか。




【とある作家の最期】

 私はもう駄目なのだと思う。

 ある時から、鏡に映る自分の姿が透けて見えるようになった。ある時から、鏡に映る自分を自分と認識できなくなった。あいつらの頭だけでなく私の頭までおかしくなったらしい。

 そうだ。みんなおかしいんだ。いつの間にか、誰に話しかけても無視されるようになった。無視ではないか。見えていないんだ。聞こえていないんだ。私は認識すらされていないんだ。

 こんなもの幽霊と変わりないじゃないか。きっと私は知らない間に死んでしまったのだと思う。

 私は死んでしまったが、私の作品は書店の本棚に並んでいる。それだけが救いだ。それだけが私の生きた証だ。

 中途半端に現世に留まるのは終わりだ。今度こそはあの世へ行く。


 きえたくない

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